
「月はクソ嫌い」
「え? ……え?」
頭上に浮かぶ満月と、その光を浴びながら隣を歩く、発言の主を交互に見遣る。
単なる独り言か、それとも雑談を投げかけられたのかの判別もつかなかったが、言葉そのものにまず驚いている。——〝バスタード・ミュンヘンが勝つためのサッカー〟、それ以外を話題にするような仲じゃなかったからだ。こうして夜道を共にしているのは、練習場から自宅までの帰り道が途中まで一緒だから、帰路につきつつ議論ができる、という合理のみに基づく行動ってだけで。その議論さえ一通り済ませてしまえば、あとは互いに足音だけを響かせ、最後には「じゃあまた」「ああ」という手短な挨拶だけを交わすのみだった。少なくとも今までは。
けれど何より、突然すぎる独言あるいは雑談の内容——その、言い回し。
「な……っ、何それ? 新手のI HATE YOU?」
「はあ?」
今の言葉に何らかの意味があって、そして俺との帰り道で発せられたものだというなら、その解釈こそが最も妥当だろう。
分かりきってるくらい、妥当、だけど——ちょっと傷付く。なんか、告白とかしてないのにいきなりフラれた気分だ。
——実際、俺がコイツへ向かる感情は、もう〝嫌い〟だけじゃなくなっていた。いつか言われた〝I LOVE YOU?〟に倣った返事を咄嗟にしてしまったのも、そのせいだ。
「……なるほど。ジャパニーズには覚えのある表現だったか」こちらを訝しんでいた視線は、得心と共に再び月へと向けられた。「まあ、そーいうイミだと思ってくれていい」
「ああそうかよ……」
因縁の台詞をアレンジして数年越しに返してやったというのに、それについては何の反応もなかった。最初に宣った張本人のクセに、綺麗さっぱり忘れてるのか?
いやそれより、日本発祥の〝月が綺麗ですね〟を知ってるんだな。外国人の言葉にそれを思い浮かべてしまったのはちょっと早計だったかもしれないって内心反省してたんだけど、まさか伝わってたとは。何か嬉しい。サッカーの議論してるとき、いつも思ってたけどさ、もしかしてお前ってかなり博識? 読書家だって噂聞いたことあるけど、日本の文学にも目通したことあるのか?
——言いたいこと、聴きたいこと、心に募らせていくだけで声にできない自分が苦々しい。果たしてコイツと〝雑談〟に及んでいいのか、どの程度ならいけるのか、俺たちに許される距離をまだ図りかねている。あるいは、多少遠回しとはいえ「嫌い」と突き付けられたことが想定以上のダメージになっているのかもしれない。
「……元々は、どういう意味で言ったんだ?」
せめて一つだけ尋ねるならと、問いを選んだ。疑問の一つくらいは解いておかないと、俺がただ苦い想いをするだけで終わってしまう。コイツの独り言のせいで俺が被害を被るなんてふざけた話だ。
俺への嫌悪が真実なのはこの際良いが、自らの台詞が〝月が綺麗ですね〟の対義語じみた表現になってるってことについては、指摘されて初めて気付いたようだった。だったら本当は、他に何か別の意図があったに違いない。
「……俺の、」
ふたつ分の足音の片方が止む。合わせて俺も歩くのをやめた瞬間、射抜くような視線を向けられていることに気付く。
もしかして大分真剣な話なんじゃないのかと、今更のように察した。俺が聴いていいものなんだろうか。だけどここで後ずさる選択肢なんて取るはずがない。意思表示のつもりで、真っ直ぐに見つめ返す。
「……絶対に叶ってはいけなかった願いを、象徴するモノだからな」
攻撃的な赤色に彩られた切先のような瞳が、じっと言葉を聴く俺の姿を反射した。だったらその瞳も、俺の眼を鏡にして、自身の険しく冷厳な表情を捉えていることだろう。
だからまるで、俺相手に語っているように視えて——自分に言い聞かせている、ような。
「その、『願い』って?」
「クソ黙秘。世一には特に」
「なんだよそれ……」
じゃあそもそもここまで語るなよ、という言葉をぐっと呑み込む。冗談めかした意地の悪い微笑を湛えてはいるものの、俺に向けられたままの視線は鋭く、強く。そしてどこか、ほんの少しだけ寂しげだ。
珍しいことばかりだ。芝居がかったマウント癖——出逢った当初に散々披露された——こそ最近じゃかなり落ち着いたらしいが、自身を〝不可能〟を啓示する存在と謳って憚らないところは相変わらずなのに。そのクソ薔薇が、己の〝願望〟を「絶対に叶ってはいけない」とまで言い切るなんて。余程の何かがあったんだろうか。だとしたって、なぁ。随分と、らしくない、というか。その先を聴き出せない以上、何を言えることもないし、感想だってここまでになるけど。
それにしても。——世一には特に、か。当たり前だけど、つくづく嫌われたものだな。
(……ん?)
どういうワケか、あろうことか〝不可能〟と定めてしまったその願望が、特に俺には言えない、って。
「……それって、さ」
——実は、俺が悲観するような話とは違うんじゃないのか? 寧ろ、その真逆の——。
高揚に忠実な心臓が早鐘を打つ。予感に抗えない口元が吊り上がる。傲慢なことを思い描いているという自覚はあるけれど、あの皇帝様を相手にするなら、これくらいは言ってのけなければ。
「俺なら、〝不可能〟じゃないってことか?」
だとしたら、クソ最高だ。
コイツにとっての〝不可能〟が、俺にとっての〝可能〟。——それは、俺がコイツに喰い勝てているも同然の状態だろ。
「————」
皇帝の眼光が、一段と烈しさを増した。怒りを示す瞳孔が、不遜に微笑む俺を咎めるように細められた。
「だからお前が嫌いなんだよ、クソ世一」
「へえ……?」
背筋に興奮が奔る。微笑みがいっそう深くなることを自覚する。
——なんだよ、その返事。答えになっていないようで、もうYESだって認めてるようなモンだろ。
あとはもう、その願いの内容を暴いてやるだけ。俺を有利にしてくれるらしいお前のエゴを掴んでしまえば、またお前の優位に立てるかもしれない。またお前に勝つための欠片を、一つ増やせるのかもしれない! ——ヤッバ、クソゾクゾクする!
「どうした? 嫌いだって言われたことが、そんなに嬉しいのか?」
「いいや? それはクソ残念。……俺はお前のコト、キライじゃないぜ。カイザー」
「……クソ最悪。……二度と言うな、そのクソ冗談」
——これは本当に、残念なんだけどな。
ほんの挑発の応酬で包めるなら、俺は何の躊躇も嫌悪もなく「I LOVE YOU」と言えるのに。言われた方は、俺に向けていた鋭く澄んだ視線をぐらりと揺らし、それからくしゃりと歪め逸らしてしまった。それが、このやり取りを終える合図になる。また無言で夜道を進む時間へと戻る。それぞれの家路を分ける岐路が、否が応でも近くなる。
(カイザーの、願い……)
それが何なのか分かれば。そして、俺が本当に叶えてしまえば。また何か変わるだろうか。
(……カイザーのこと、もっと、知りたい……)
月に照らされた横顔を盗み見る。——もう完全な不機嫌顔になっているかと思いきや、そこにはまだ寂しさが滲んでいた。