時代越えてなお(1/1ページ)

 

以下の要素が含まれます。

  • 史実等交えた独自解釈
  • 高杉のバレイベの内容

 

「ふぅ……!」

 あとがき最後の一字まで味わい尽くして、ようやく呼吸を思い出す。両手で持ったその文庫本が、開く前よりもずっと、重みを増しているように思えてならない。
 ベッドに腰かけた姿勢のまま、サイドテーブルのコーヒーカップへと、思い出したように手を伸ばす。——ミルクと砂糖たっぷりのコーヒーは、すっかり冷めてしまっていた。読書のお供にと用意したのだったが、読書の方にだけ夢中になりすぎた。

「面白かったなあ……!」

 しかし、冷めたコーヒーがこの熱心な読書家——藤丸立香の気分を妨げることはない。ついさっきまで、この一冊の本を通し、激しく輝くような刺激に——ある英霊の生涯に触れていたのだ。大団円、とは言わないが、それでも激動の物語に圧倒されてしまい、つい「面白かった」という感想が口から零れていた。
 「カルデアのマスター」たる藤丸が契約を結んできた、数多くのサーヴァントたち。彼らの伝承や歴史について学ぶことは、藤丸の自主的な習慣となっていた。紫式部が司書を務める大図書館ができて以降は、電子媒体に表示されるような基礎的な情報だけでなく、こうして関連書籍の一冊一冊に目を通している。
 もちろん、推察含まれるそれらの情報や、他者の手によって彩られた物語を全て鵜呑みにすることはしない。例えば、語り継がれていた英雄と、藤丸の前に現れたサーヴァントは性別を異にしていた、というのはよくあるパターン。陽気な人物としてのイメージが定着していた英霊が、存外物静かな性格の持ち主だった、孤高の強者として名を馳せた傑物が、他者とのつながりに憧れていた——等々、出会ったギャップを思い返そうとすればキリがない。
 だが、そのような差異ごと彼らを知ることにも、史書は大いに役立っているのだ。気高い彼らの全てを理解することが不可能だとしても、彼らへの敬意と感謝が、ほんの少しでも歩み寄りたいという思いを藤丸に抱かせ、知識欲をかき立てる。もっとも、伝説や後世に名を残すような人物を綴った本は読み応えも抜群で、藤丸自身純粋な愉しみとして読み耽っている側面もある。
 丁度今、藤丸は全三巻の長編歴史小説を読み終えた。だが、デスクの上には同じ人物について別の作者が記したシリーズが積まれていて、自分のページが繰られる番を待っている。一人の見解で満足せず、複数の作者の視点を通した方が、英霊の様々な面を窺い知れるのだ。レイシフトやシミュレーション等の予定も控えていない。久々の潤沢なフリーの時間は、冷めやらぬ興奮の赴くまま、積まれたそれらに捧げてしまいたい。

「……その前、に……!」

 ——コーヒーを淹れ直そう。
 つい失念していたが、美味しいドリンクと共に嗜む読書というのも、なかなか贅沢な気分を味わえて良い。小腹も空いてきたのでキッチンに顔を出そう、かの赤い弓兵たちがおやつを作ってくれているかも。
 すぐ先の未来に高揚をさらにかき立てられ、藤丸は弾むようにベッドから立ち上がった。

「面白かったろ? なにせ、僕の人生だからな。面白いに決まってる」
「うん! 感動も興奮もした! それじゃあ、ちょっとキッチンに行ってくるから」
「待ちたまえ。ならその本はここに置いていってくれ。三巻だろ? 僕はとっくに二巻を読み終えて、待ちくたびれていたんだぞ。読み返していたから、暇ではなかったが」
「あれ、そうなの? 待たせちゃってごめん。はい、これ——」

 モニターが並ぶデスク、そしてデスクチェアの横を通り過ぎようとしたとき。我が物顔でチェアを占拠していた客人が、藤丸の独り言に反応しつつ要求を述べる。子供のようにチェアを左右に回す客人に対し、藤丸はもちろん快く本を差し出す。そして、今まで本やカップにだけ注がれていた視点を、ようやく客人に向けて——。

「…………!?」

 心臓とともに、身体全てが跳ね上がり固まった。体勢を保とうとすることがあと一瞬でも遅れていれば、冷めたコーヒーが片手のカップから零れてしまっていただろう。
 ——漫画目当てに部屋を訪ねてきた友人と話すような、ごく自然な感覚だった。だがその「友人」は藤丸が招いたわけでもなければ、いつ入ってきたのかも分からない。気付いたらいたのだ。

「ははは、驚きすぎだろ」

 片膝を立てるというやや行儀の悪い姿勢で椅子に腰かけたまま、突然の客は長い赤髪を揺らし、藤丸の反応を楽しんだ。驚かれるか驚かれないかの二択なら、前者の方が面白いに決まっている。

「いや、だって、その、いるとは、思わなかったし」

 自分一人だと思っていた自室に人がいた。事実の内容としては単純なもので、ただ驚かされた瞬間はもう終わっている。だが藤丸の言葉は未だしどろもどろの状態で、心臓はばくばくと騒がしく鳴ったまま。
 本に綴られたことを鵜呑みにしないこと——以外にもう一つ、藤丸が己に課している掟があった。努めて密かに行い、特にサーヴァント本人には知られないようにする、というものだ。英霊となった彼らの中には、波乱万丈、あるいは悲運の生涯を辿った者も少なくない。輝かしさとは正反対のそのような場面に、あるいはただプライベートに触れられたくないと感じる者もいるかもしれない。それに、知られてしまえばお互い気恥ずかしい気がする。
 いつ何時もルール通り、とはいかず、本人にバレてしまった例も何度かある。幸いにも彼らは皆、むしろ笑って喜んでくれる人たちだったが——彼も、そうなのだろうか。ある意味彼も「赤い弓兵」だなと、向かうつもりだったキッチンを思い浮かべながら、藤丸は現実逃避がてら考えるのだった。
 片手に冷めたコーヒーを、もう片手には読み終えた本を持ったまま、一筋の冷や汗を流し立ち尽くす。そんな藤丸とは対照的に、愉快そうに笑みを湛える赤い髪の客人。藤丸のサーヴァントの一騎・アーチャーであり、真名は「高杉晋作」。そして藤丸と、彼の手にある歴史小説の表紙にも、「高杉晋作」の文字が堂々と記されていた。

「いやあ、熱心熱心!」しばらく藤丸の様子をじっと観察していた高杉だったが、堪えられなくなったのか再度笑い始めた。
「うう……。……嫌じゃないんですか?」

 頬を高杉の髪と同じ色に染めた藤丸が、彼から視線を逃がしつつ尋ねる。震える腕を持ち上げて、本で顔を覆ってしまおうとも考えたが、『高杉晋作』の表紙を掲げてしまうことに気付き、やめた。

「なにを言う。僕が社員に関心と尊敬を向けられる偉大な社長だってことを、僕に教えてくれたんだ。これは感謝しないとな」
「……」

 社員と社長。ある特異点で、そんな関係になったことがあった。おかげで藤丸から高杉への渾名は今でも「社長」である。だが。

「……高杉重工改め、カルデア重工になったはずでは?」
「なんだ、覚えてたのか」少しだけ残念がる。どさくさに紛れて渾名以上の地位に返り咲くつもりだったのだ。「じゃあさしずめ、今は社長の君に履歴書でも読まれたってとこか。採用……はもうされてるな。なら次は栄転だな。ネオカルデアの創設と首領就任! こっちのカルデアは支部扱いで存続させよう。栄転祝いに聖杯を付けてくれてもいいぞ」
「聖杯はともかく、カルデアどうこうの交渉は所長あたりにお願いしたいなあ……」

 彼の関わった二度の騒動を思い出し、この人に聖杯渡したら特異点とか作りそうだと、ぼんやりと想像した。ネオカルデアとやらも、微小特異点程度の問題で済めばいいのだが。

「というか、なんでここに? 自分に何か用でもあった?」

 生前の物語を閲覧されたことに、高杉が不快感を示すことはなかった。肩の力が抜けるような、それでいて油断ならない雑談を交わせるくらいには、いつも通りの空気だ。藤丸は内心胸を撫で下ろして、話を進めることにした。

「それもあるが、最初は図書館に行っていたんだ。当てもなくただ見物するつもりだったが……僕を中心に取り扱った本だけ、ごっそり借りられてたことに気付いてな」
「ああ……」——自分だ。やや遠回しな図星を突かれた藤丸が苦笑いする。
「僕は長州一、いや日本一イケてる男と言っても過言ではないからな。伝記本や歴史小説を一気に借りていくくらいのファンがいてもおかしくはない。それが誰かとなると……第一の候補は君だった」
「な、なぜ?」
「だって、僕より前の時代に生きたやつより、同世代……もしくは次世代のやつの方が、僕とか僕の生き様とかを予め耳にする機会があって、良い印象を持ちやすいだろ? それが同じ国ならなおさらだ」
「おあ、なるほど……」

 羞恥よりも納得と感心が勝った。幕末の志士である高杉は、神代の住人さえも存在する英霊の中では確実に若い方だ。となると、彼の背を見つめやすい後世の人間というのは自ずと絞られる。しかも藤丸は日本人で、高杉晋作の名は一般常識の範疇で知っていた。
 ——互いについて、ヘクトールと「知らない」と言い合っていたときよりは、高杉の考え方は少しだけ成長した、のかもしれない。

「というわけで君の部屋を訪ねてみたら大当たりだ。ここで本人の存在に気付いたら面白いかなと思って、ずっと待ってたぞ」
「それはごめん……」今度は自分の集中力を恥じた。
「さっきも言ったけど、暇潰しになるものならたくさんあった」

 気にするなと言いたいのではなく、ただ自分の感想を早く話したいという雰囲気で。高杉は脚を組み直し身を乗り出して、手に持った文庫本を軽く振ってみせた。

「自分の墓参りみたいなものかと思って、あまり期待はしていなかったが。でも、案外面白かったぞ。自分が主人公というのは気分がいいし、大体合ってる」
「本当!? よかったあ……」

 読了後に「面白かったなあ」という独り言を盛大に呟き、それを本人に聴かれてしまった藤丸だが、その反応は間違いではなかったのだというお墨付きをもらえたも同然だった。安堵のため息をつけば、読んでいる最中の興奮が脳裏に蘇ることも落ち着けられた。

「だが、本人直々に訂正を願いたいところもいくつかあったな。僕の心情を書いてるところが、全体的にちょっとマイルドで物足りないぞ。まずはじめに……」

 『高杉晋作』の二巻目をデスクに置いた本人は、代わりに一巻目を手に取り、前小口に親指を添えパラパラとページをめくり始めた。クリーム色の紙を次々と左から右へと重ねてから、今度は何ページか戻していく。

「……あったあった! ここだ、ここ」

 目当てのページを開いた状態で、天と背を右手で掴んで抑え、藤丸の眼前にずいと差し出す。立ったままの藤丸は、少しだけ身を屈めて文字を追った。

(ここ、って……)

 松下村塾の門を叩いた十九歳の晋作が、吉田松陰と出会い、入塾を請う場面だ。
 ふたりの邂逅は、鮮烈な陽光の描写に照らされている。残暑の盛りを燦然と表した情景の激しささえ含んだ美しさは、彼らがここから進む苛烈な生涯を称えているかのようだった。
 ——それだけでなく、主人公・高杉の、師松陰への想いの表れでもあるのだろう。二度目のSAITAMAでの戦いで、彼らのやり取りを見ていた藤丸には、そう思えてしまった。もちろん、この場面での高杉は松陰の授業を受けてはいないのだが、それでも彼はきっと、松陰が自分にとってどれほどの人物になるかということを直感的に悟ったのだ。

(だと、したって……)

 歴史や史料に基づく事実の描写と、それに対する登場人物の心情描写を主とした小説だった。これほど豊かな情景描写は、ここくらい——より正確にいえば、松陰が大きく絡む場面くらい——でしか行われていない。
 高杉は右手で本を掴んだまま、小指で器用にページを繰る。松陰との出会いから少し進んだそこは、松下村塾での日常を記したワンシーンだ。松陰に認められるべく、幼馴染の久坂玄瑞と切磋琢磨し、一心に学問に励む高杉の姿が生き生きと描かれている。
 両親や祖父に甘やかされて育ち、剣術以外にはさほど関心を抱けず、優秀な久坂との競争は諦め——ここまで描写されてきたそんな高杉少年と、心から「面白い」と思えるものにやっと出会えた彼は、まるで別人のようだった。やがて高杉が江戸へ遊学し、そして安政の大獄が起きてしまう以上、高杉が松陰の下で学んだ期間自体は短い。それでも濃密な描写とともに、輝かしい日々が語られている。全三巻に渡って綴られた物語だが、高杉が最も純粋で情熱的だった時期といえば、まず間違いなくここだと分かる。
 つまり、高杉を主人公とするこの物語において、松陰は明らかに、一等特別な存在として描かれていた。——にもかかわらず、高杉本人はそれでも「物足りない」と言う。SAITAMAその目で彼らを見た藤丸でさえ、「すごく盛るな」と感じなかったと言えば、嘘になってしまうのに。

「……高杉社長、松陰先生のこと、すごく慕ってたからね」

 本の内容の上から重ねるように、SAITAMAでのことを思い出し、藤丸は呟くように口にする。
 高杉が松陰へ向ける敬愛について、どんな研究家や作家が思索を巡らせ言葉を尽くしたところで、彼らが高杉、あるいは松陰本人ではない以上、完全な記述になど到底辿り着けない。この手の本の内容を鵜呑みにしないよう心がけている藤丸だが、これはどれほど鵜呑みにしてもキリがないのだと理解した。そして、常に「面白さ」を求め続ける高杉が、松陰という人物を「僕の人生、後にも先にも一人もいなかった」と評したこと、普段飄々とした態度を崩さない彼が、松陰をめぐるあの戦いでは激情や焦燥に駆られたこと——千の言葉や万の学説より、それくらいを心に留めていようと。
 ふと、藤丸は高杉がデスクに置いた二巻目へと視線を向ける。——松陰の死と高杉の慟哭、そして高杉が討幕へと突き進んでいく様を描いた一冊だ。藤丸を待つ間、高杉はこの巻も読了したらしい。本人の目からすれば、彼の心情が緩やかなものにされている——という問題は、この巻にこそ指摘できるものだろう。——だが、今目の前で、藤丸の言葉に確かな頷きを返した男の表情は穏やかだ。師や友の喪失が彼に遺した屈折は、あの特異点にて、松陰自身の手で解かれたのだから。
 今度は、藤丸が微笑む番だった。もちろん、藤丸にイタズラを仕掛けた高杉のような表情ではなく、彼らの絆への祝福によって浮かぶようなものだ。

「……そうだな。その点に関しては、僕に言わせればまだまだだ。こっちも、こっちも……」一巻目もデスク上に戻すと、今度は他の著作をパラパラとめくって軽く目を通し始めた。「僕から先生への想いは、こんなもんじゃないぞ」
「うん。きっとそうだよね」口を尖らせつつ、どこか勝ち誇ったように豪語する高杉を、藤丸は微笑ましく見守ることにした。
「だって」何冊目かを本を閉じた高杉が顔を上げる。「この分だと、僕から先生への恋文とか、君の時代では見つかってもいないんだろ?」
「え」

 微笑は早くも固まり、見守るとかいう安穏な気持ちはあっという間に乱れてしまった。
 ——恋文。恋文って言った? いや、その、ダメとかじゃなくて。こっちは師弟愛しか考えてなかったから、単純に衝撃だったというか。高杉さんは生粋の遊び人気質で、松陰先生はそこらへんについてはストイックだったって、本にも書いてあったし。いや、待てよ、それとも。
 ギギギと音が鳴りそうなほどぎこちない動きで首を動かし、高杉の様子を窺う。——彼は表情を変えず椅子に座ったまま藤丸を見上げていた。先ほどの、あるいはいつものように、薄く笑みを浮かべていたのなら、冗談を言って藤丸をからかい試そうとしているのだと思えるのだが。——真顔で事もなげに言っている分、信憑性が深まっていく。

「書い、て……贈ったこと、あるの?」

 とりあえず、当たり障りのなさそうな質問から。高杉が萩を離れ江戸に滞在している間、そして松陰が獄中にいるときも、彼らは頻繁に手紙を交わしていたらしい。読んだばかりの小説によると高杉からの人生相談が主だったようで、当然ながら睦言を綴ったという記述はない。

「……あるさ。何通も、何通も。歌だって、先生のためにいくつも詠んだ。日記にも書かず、ただ先生のために、先生への文にだけ書いて……」
「……あ——」

 天を仰ぎ、高杉は静かに答えた。彼の眼差しは無機質な天井ではなく、彼を見守る師がどこかにいるであろう、遥かの空へと向けられている。物語の中で松陰との邂逅を彩った太陽のように、その瞳は赤々と燃え輝く。

「……そっか」

 掴みどころのない人物だが、やはり、師の存在一つで、この人はこうも分かりやすくなる。——本気なのだ。サーヴァントとなってなお、彼が松陰へと向け続ける熱誠を知っている分、そこに冷めやらぬ情熱的な愛が含まれていると、藤丸が納得することもまた早かった。
 思わず、SAITAMAでの出来事を捉え直すように振り返る。あのときの戦いは、彼らふたりにとって、きっと——。

「おっと。君、もしかして些か行き過ぎてないか?」サーヴァントとなって再会した彼らの幸せに思いを馳せていた藤丸だが、突如何かを察した高杉に止められる。「確かに僕は松陰先生も認める最高の生徒だが、この件に関しては最後までことごとくフラれてたぞ」やや、苦い顔で。
「えっ、そうなの!? ごめん、てっきり……」生前や伝承から夫婦や恋人同士であったサーヴァントも、カルデアには数多く集っている。そちらの方に慣れすぎた。
「先生が教え子に手を出すわけないだろ!」
「そ、そうだね、確かに……」

 驚く藤丸の「てっきり」という言葉に驚いた高杉も声を上げる。高杉の指摘がかなり真っ当であることも、藤丸には意外だった。

「いや、待ってくれ。今の言い方だと語弊があるな。手を出したいのは僕の方なんだが……」
「あ、そう……」

 顎に手を当てて厳かに訂正する高杉は真剣だが、藤丸はなんと返せばいいか分からず閉口した。立場上、サーヴァントたちの惚気話の聞き役や恋愛相談の相手役になることも少なくはないのだが、年齢ゆえ奥まった話題にはなかなかついていけない。

「まあ、そういうわけだから、くれぐれもよろしく。僕はちゃんと伝えたぞ」
「…………はい!? え、何!?」

 高杉が片手を上げ、晴れ晴れとした笑顔でに告げる。話が急にまとめられたことに理解が追い付かなかった藤丸は、暫く口をぽかんと開けた後、動揺と混乱のままに叫んだ。
 彼がこうやって独り合点するところは相変わらずだ。一体何が「よろしく」なのか。

「落ち着きたまえ、マスター君」やや呆れた態度を取ってみせつつ、藤丸を宥める。「質疑応答の時間が必要なら設けようじゃないか。事業内容には共感と理解をしてもらわなきゃな」
「は、はい……。ぜひお願いします、順を追って……」

 何が何だか分からないので、心から説明を求める。ひとまず腰を落ち着けることにした。
 手前の椅子は現在社長の物となっているので、藤丸は再度ベッドに座り、『高杉晋作』三巻も傍らに置く。残りのコーヒーを飲み干し、空になったマグカップはサイドテーブルへ。コーヒーの温度も味も全く気にならなくなっていた。衝撃の連続に加え、これからさらなる「事業」もあるというのだから。

「いや、なに。ちょっとばかり、将来のことを考えてね」
「将来?」
「君もSAITAMAと、それからこの本で知っただろう」デスクから一冊を手に取って、ひらひらと振る。件の文庫小説の二巻目だ。「先生が、どんなに……僕と共に、幕府と戦いたいと思ってくれてたか、ってことが」
「……うん」

 徳川幕府の怨念渦巻く特異点SAITAMAの地に、松陰は高杉を喚んだ。才気溢れる数多の志士たち、志を育んだ自身の弟子たちの中で、彼は高杉ただひとりを選んだ。「幕府と戦うなら、『高杉晋作』以外にない」と言って。
 晋作が松陰から向けられたその期待は、彼らの生前から続いていた。老中暗殺計画への決死の覚悟を塾生に打ち明けた松陰は、高杉ならば賛同して、共に戦ってくれるのではないか——討幕よりも師の命を案じた当時の高杉が、その期待に応えることはなかったが——という思いを秘めていたのだと、小説の一幕に記されている。
 恋慕の情においては、高杉の片想いだが。——松陰も、彼を特別に想っていたのだ。

「で、かの特異点にて。徳川クロフネと名乗った不届きなクズ相手に、先生のその夢は叶ったと言える。だったら、今度は僕の夢が叶ってもいいんじゃないか」
「高杉さんの、夢?」

 藤丸にとって、やや思いがけない言葉だった。
 高杉の行動原理は「面白い」の追求という点こそ一貫しているものの、どちらかといえば瞬間瞬間の享楽を見出しているタイプ——という印象があったためだ。「夢」という遠くのものを見据え続けているというのは、その真逆の姿勢だ。

「先生が僕と一緒に戦いたかったというなら、僕だって……先生と一緒に生きていたかった。聞きたいことも、教わりたいことも、尽きないままだ。……ふたりで、新しい世界を見たかった」
「……高杉さん」
「先生の分まで外の世界を見る。先生が行きたがっていたカルデアを、この僕が面白くする。……それが、僕がここにいる一番の理由や目的だ。だが、ここで誓い通りに出会い続ける『面白い』を、文に記して伝えるように、心の内であのひとに語りかければかけるほど……その文に返事を欲してしまうのさ」

 遠く離れた想い人を恋しがる、ごく純粋な言葉を、高杉はぽつりぽつりと口にする。哀愁さえ帯びた切なげな慕情は、常に奇想を掲げて高らかに笑う彼の中で、異質とも言えるような一面かもしれない。
 しかし、今度こそ藤丸は納得した。SAITAMAでの光景とも、彼らの活躍を綴った物語とも同じだ。——高杉にとって、松陰はそれほどの人物ということだ。態度が変わるほどの「異質」な本気も、彼の気持ちを思えば当然だ。

「で、だ」目を伏せて想いを語った高杉の雰囲気は瞬時に一転し、いつもの軽いところにまで戻った。「その夢が叶うかどうかより、叶ったときのことを考える方が面白いと思わないか?」
「……うん!」力強く返答する。振り回されることも多いが、何だかんだこの社長が前向きだと嬉しい。「つまり、松陰先生がここに召喚されてくれたら、ってこと?」召喚者である藤丸の意思が必ずしも実現するとは限らないので、それに関しては大変心苦しいが。
「ああ、その通りだ」

 思いきり目を細めて答える。その未来を想像すれば、どうしたって笑顔になる。
 ——想像を続けていけば、その笑顔は陰っていく。

「……そうなったら、先生はたちまち人気者になるだろうな。『先生、先生』って呼ばれてね。君も自然と、『松陰先生』と言っているように」
「あ……」

 指摘されて初めて自覚した藤丸が、気まずそうに片手の甲で口元を抑えた。
 彼と直にかかわったのは微小特異点での少しの間で、師弟関係を結んだわけでもないのだが。高杉晋作を主人公とした小説を読んでいたせいか、それとも目の前の高杉本人が「先生、先生」と口にするのが伝染ったか、あるいは維新を導いた偉大な「教師」として彼を称える日本史の知識のせいか。

「いや、いいんだ」藤丸の様子に気付いた高杉が手を振った。未だ浮かない表情をして。「昔から、どこでだってそうだった。僕の先生が素晴らしいのは当然だから仕方ない。……だが」突如その視線が鋭さを帯び、声は低く重たくなる。「先生の周りから、僕の存在が薄れてしまうのは面白くない」
「……っ」
「先生のことを一番想っているのは俺だからな」

 一瞬で凄みを効かせた高杉の雰囲気に、藤丸は反射的な慄きを覚えて息を呑む。赤い刃のような瞳から目を逸らせなくなる。暗く燃え滾る怒りの矛先は藤丸ではなく、高杉が藤丸の向こうに幻視した「誰か」、あるいは彼が忌避する未来の可能性そのものだと分かっていても、彼が視る何もかもの巻き添えとなって砕かれてしまう恐怖を想像せずにはいられなかった。

(高杉さん、けっこう嫉妬深いんだな……。……あれ、でも)

 ——この感じ、どこかで。

「……もしかして」既視感はひとまず保留にして、話を進めることにする。彼の空想への激怒を解かなければ、彼と向かい合う藤丸も堪えられない。「高杉さんが松陰先生を好きだってことを、自分に教えたのって……。高杉さん一人に、協力してほしいから、とか?」
「お! マスター君、察しがいいな!」パッと雰囲気が切り替わり、表情はたちまち華やぐ。無事、いつもの高杉だ。「ほら、君ってここの人事課採用担当みたいなもんだろ?」
「別に、そういうわけでは……。来てくれるのは誰だって嬉しいし」
「その君が承知していてくれれば、ひとまず安泰だろ?」藤丸の否定は軽やかに無視される。「この高杉晋作こそが、先生のことを誰よりもお慕いしている男だと」
「う、うん……」

 人事課と言われるほどではないが、サーヴァントたちの仲には確かに気を遣っているつもりだ。その例によって、今度はこの男の事業もとい恋路の片棒を担がされるのだろうという予感に抗う気もない。そして藤丸に語りかける高杉のニコリとした微笑みには、社員に有無を言わせないワンマン社長の圧が滲んでいる。

「そのくらいなら全然いいんだけけど……。でも、やっぱりちょっと意外かも」
「意外? 何がだ?」
「高杉さんって、恋のライバルとか嫌がるんだ。『面白い』って言って、喜々として戦うタイプだと思ってた」
「なんだ、今度は察しが悪いな。先生をめぐる多角関係なんて全く面白くないぞ。高杉ポイントニ十点減点だ」
「それはちょっと理不尽では?」

 SAITAMAの特異点にて高杉重工やらカルデア重工やらをしていた際、晋作が独自に発行していた通貨だ。まだ生きていたのかと、懐かしさと苦笑したい気持ちとが藤丸を包む。

「……松陰先生を奪われることも、奪おうとする奴も、この上なくつまらないからな」

 俯き、静かに零すような言い方。しかし彼の鋭く険しい眼光が、忌々しげに重く吐き捨てた真情なのだと物語る。先ほど同様の怒りに加え、悲歎、そして憎悪さえ感じられるのは——空想の恋敵以上の存在に、その師を一度奪われた経験ゆえ、だろうか。

 嫉妬心にまたもや既視感を覚えながら、藤丸はサーヴァントを真っ直ぐに見つめた。

(……そっか。だからこの人は、幕府を、時代を、世界を……)

 ——壊そうとしたんだ。
 彼から松陰を奪った、「つまらない」ものだから。

「……高杉さん?」

 再び張り詰めた空気は、高杉のついた深いため息によっていくらか緩められた。しかし依然として、彼は物憂げな表情のままだ。

「前にも……僕の墓参りのときにも言ったろ、『悪い癖』って」
「……!」

 自分以外とあまり仲良くするな、と突然言われたこと。——それが、藤丸の感じた既視感の正体だった。
 「悪い癖」が指す意味を、あのときは理解していなかったが——『高杉晋作』を読み、そして松陰への想いを改めて語られた今なら、分かる。彼は人懐っこいように見えて、実のところはごく少数の人物に対し、独占欲さえ込めた強い愛着を抱く。有り体に言ってしまえば、"人見知り"をする側の人間だった。

「意外と、こういう性質なのさ。先生は……僕に惚れられてるってことは、想いを告げられるまで気付いてなかったろうが……この気質は見抜いていたんだろう。事あるごとに久坂ばかり褒めていたのもそのせいだ」
「……でも、高杉さんは、そのとき……」

「ああ、躍起になって努力したよ。晋作が一番面白いって、先生に思ってもらえるように。久坂に、先生の視線を、先生からの褒め言葉を……先生を取られたくなくて、な。まあ、久坂……あいつらのことだって、嫌いではなかったぞ。何より先生がいたし、僕だって先生に認められるようになっていったんだ。……だから、『面白き』日々だった」
「…………」
「ふっはははは、我ながらすごいな。あのときほど熱心に過ごしたことはなかったぞ」
「……だったら、心配しなくても大丈夫じゃない?」

 妬みの念は、人を容易く捻じ曲げる。それを抱いていた日々であるにも関わらず、目を細めて回顧する高杉は、ただひたむきな少年の貌をしていた。師も、競争相手さえも含めた、在りし日への愛を口にした。

「周りに嫉妬しても……嫉妬するからこそ、社長は自分が一番面白くなるために戦える人じゃん。昔も、今も」
「それは、そうだが」
「でしょ?」なにを当たり前のことを、とでも言いたげに目を見開いた高杉の返答に、藤丸は身を乗り出した。「松陰先生を取られたくないっていうのは、昔……松下村塾にいたときと同じはずだよ。だったら今だって、先生をめぐっての競争なんだから……面白いって思えるんじゃない?」

 松下村塾の門をくぐる以前の高杉はむしろ、優秀な幼馴染である久坂への劣等感を覚えながら生きてきた。彼がこの強敵との競い合いに身を投じるようになった理由は、松陰ひとりに他ならない。

「……なるほどな!」両手を思いきり叩いて、高杉が勢いよく立ち上がった。彼のものになっていた椅子が、反動で大きく後ろに下がる。「いいこと言うじゃないか、マスター君!」

 数歩進み、今度は藤丸の肩をバシバシと。サーヴァントとしての彼の筋力値はDのはずだがけっこう痛い。相当力を込めているようだ。

「確かに、そうだな……! 思えば、あのときとは場所も時代も異なるということばかり考えていたかもしれない。だが、あのとき……数多の才が集った松下村塾でやれたんなら、今だって戦えるか!」

 燃える色をぎらつかせる瞳で天を仰ぐ。彼の心の底に燻っていた怖れや焦りが、若く猛々しく、滾る闘争心へと昇華された。挑戦的な意思の溢れ出る様は、まさしく不遜で破天荒な革命児の姿そのものだ。

「しかし、これは安心なんてしていられないぞ」言葉とは裏腹に、その表情は熱く輝く。「あのときと同じだと考えるなら、なおさらうかうかしていられない。先生、僕に容赦ないからな」どこか喜々としてそう語る高杉は、自然と笑顔を浮かべていた。「引き続き、君には提携してもらうとして……」

 ビジネスパートナーを確保した「社長」は、早速次の手段を講じ始める。手始めに周囲を見渡してみれば、デスクの上に、「面白い」と思ったものが目に留まる。

「そうだな、この本に赤入れでもして先生に渡すか? 僕から先生への想いはこんなもんじゃありませんよってことを、僕の言葉、で……」

 不意に、思案の呟きが止まる。数秒の間を経た後、高杉の眼差しにいっそうの光が溢れた。

「いや、文だ! 新たに恋文を書くぞ!」
「おお!」

 藤丸が感嘆の声を上げる。赤入れよりずっと良い手段なので、そちらを選んでほしい。図書館から借りた本なので、赤入れはやめてほしい。

「赤入れもいずれするさ。本人直々の訂正だぞ」これが公共の借り物であるということを彼が覚えているかどうかは、定かではない。「だが、それだけなら当時を知り、先生を仰ぐ他の塾生にもできることだろ? 結局、『このときはこう考えていました』ってところから、『自分はもっと松陰先生のことが好きです』に行き着くだけだからな。それにひきかえ、そして今なお松陰先生への恋文を書けるのは僕だけだ。どうせならそういうことをした方が面白いじゃないか」

 うんうんと藤丸が頷く。そして、松陰先生に渡せるといいね——と言おうとして開きかけた口は、すんでのところで閉じることにした。
 愛弟子に後を託したあのサーヴァントの気が変わり、カルデアという彼の野望に、その足で降り立つ日が訪れるならば。愛弟子——高杉は歓喜して、彼への慕情を書き綴った紙束を抱えて渡すだろう。それこそが、高杉が最も望む未来でもあるはずだ。

 しかし、最も大切なものは、きっと、書き綴る行為そのものだ。溢れんばかりの想いを、形にせずにはいられない。何度もフラれたと言いながら、何度も贈っていたという生前の彼も、そんな恋のままに筆を執ったのだろう。
 言おうとしていた言葉の代わりに、藤丸は改めて、深い感心を覚える。——つくづく吉田松陰という人物は、次から次へと「面白い」を求めるこの享楽主義者が、唯一永遠に戴いた存在なのだと。辞めることも、飽きることもせず、成就という見返りがなくとも、ただ愛を伝え続けているほどに。

「じゃあ、やることもできたし、僕はこれで。……ああそうだ、ひとまずこれは借りていくぞ」

 くるりと振り返る前に、高杉は藤丸の傍らへと手を伸ばし、そこに置かれていた一冊を手に取った。高杉の来訪に気付かなかった藤丸がずっと読んでいたため、高杉が読めず終いになっていたものだ。

「図書館のやつだから、あとで返してねー!」

 去ろうとする背に、揺れる赤い髪へと向かって、藤丸が慌てて呼びかける。振り返ることなく手をひらひらと振って応えた高杉の姿は、すぐに自動ドアに遮られた廊下へと消えていった。
 ——後で様子を見に行くことに決めた。読書もするつもりなのかもしれないが、手紙を書くことに夢中になった高杉に、返却を放置される光景が目に浮かぶ。あるいは、師への手紙へのついでにと赤入れをされる可能性もあって、それも防がなければならない。

「……三巻、か」

 火花のような賑やかさがなくなった部屋で、藤丸はぽつりと呟いた。
 一連の歴史小説『高杉晋作』の最終巻であり、高杉の好敵手そして朋友である久坂の、そして志半ばで病に伏した高杉の死が描かれている。後世の他人の手によって綴られたそれを、張本人の目に触れさせることに危惧を感じないわけでもなかったが——今の彼なら、大丈夫だろうと思えた。その記憶に触れて、哀惜や無念を覚えたとしても、怒り嘆き狂うことはしないと。
 彼が今なお恋い慕い続ける師が、かの特異点にて彼のために設けた授業。それは、彼の過去を、彼の憎んだ世界を、運命をも照らすものに違いないのだから。