「……何だと?」
柔らかな陽光が降り注ぐ中。手にしたカップに湛えられた茶の爽やかな甘みと品のある清香に浸っていたザマスの表情が、一転して鋭く険しいものとなる。テーブルにカップが置かれて響き渡った高い音は、穏やかな空気を裂く刃のよう。——少なくとも、向かいの席の男の耳にはそう聴こえた。
美しい陶器が奏でる刃に、そしてその気高き奏者の射抜くような眼光に、男はたじろぎ視線を泳がせる。だがその逡巡の後、顔を上げて真っ直ぐに視線を立ち向かわせる。眼前の愛しき者が淹れた茶をもう一口だけ味わい、再度口を開く。今回こそは譲らぬと決意したのだ。
「……地球人の掃討は、わたし一人で行う。おまえは、ここで待っていてくれ」
「断る」
申し出をぴしゃりと断ち切られ、男はまたしても言葉に詰まる。神の気迫に気圧されている——ということもあるが、それだけではない。
「……おかしなことを言っている、と思われても仕方あるまい。重々、承知している」
そう理解しているからこそ、強く出にくいのだ。
「だろうな。おまえなら……『わたし』ならば、分かるだろう? わたしは……わたしたちは、自らの手で悪しき人間を滅するために、ここまで来たのだと」
「ああ」
深く頷く男の方こそが、その「人間0計画」の立案者だ。
更生も成長もまるでしない人間がのさばる世界など、腐敗と堕落の一途を辿るのみ。にもかかわらず、世界を正しく統べる役目を背負うはずの神々は、世界を壊す人間たちを黙認する。その惨状に心を痛め憂うのも己一人。
——ならば、のさばる無能な神々も、世界を汚す愚かな人間たちも、自分が——自分たちが蹴散らしてしまおう。
強靭な決意を固く宿し、男は立ち上がり刃を振るうことを決めた。そしてザマスもまた彼の手を取って、その意思を共にすることを誓ったのだ。
害悪な人間を傍観する怠惰な神々には失望していた。彼らのようにはなりたくなかった。それがこの二柱の神が強く抱える思いであり、人間0計画を動かす根底の理念の一つであった。既に葬り去った神々とは違い、己の手で悪を罰することを正義と信じる彼らにとって、「人間抹殺は自分に任せてここで待っていろ」という要望は、貫かんとする信念と矛盾する。頼み込む男の苦々しげな表情も、ザマスの憤慨も、至極当然の反応だ。
「……わたしはおまえだ。おまえがこの計画に懸ける思いも、気高き正義の神としての誇りも、よく分かっている、が……!」それでも、男は負けじと説得を試みる。「これまでの闘いで、わたしが何度……! おまえが人間共の粗暴な拳撃や、不躾な光弾に晒される度に……! この身さえ焦がしてしまうような、人間への底深い激憤に駆られたと思う!」
口に出してしまえば、その光景が記憶から蘇る。言葉が紡がれるにつれ男の語気は次第に烈々たるものとなり、言い終わるころにはガタンと音を鳴らして椅子から立ち上がっていた。
記憶の中の人間への激怒を露わにした男とは対照的に、ザマスの顔からは切っ先の如き剣幕は消え失せていた。代わりに滲み始めたのは呆れである。香り高き茶を一口啜り、冷ややかに告げる。
「……またその話か」
つい先日まで計画を遂行していた別の星でも。その前に訪れた、今はもう人一人いない星でも。男はもう何度も、この憤りをザマスに打ち明けていた。それはもう、切実に。
外ならぬ自分の主張である。ザマスとて、男の怒りは理解できた。
「……確かに、我々を神と知ってなお身の程を弁えず、この肉体の力を分かっていながら卑小な抵抗を繰り返す人間には幾度となく苛立たせられた」
「だろう?」
「——だが、その度に、奴らを嗤ってきた。神と人との差を見せつけて踏み潰した。愚かな人間の相手は楽ばかりとは決して言えないが、その者たちに不死の神の力を教えてやるのは存外心地が良いのだ」
だからいいだろう。不愉快を乗り越えて栄光を掴むために、自分たちは聖戦に身を投じている。——というのがザマスの弁である。
「わたしはわたしの手で、人間どもを平伏させ——滅したい。そのための闘いなのだから構わぬと、何度も言っているはずだ。まだそんなことを気にしていたのか」
「そんなことではない!」
ティーカップをテーブルに置いて空いたザマスの右手を、身を乗り出した男が掴む。突然の叫びとその行動に狼狽えたザマスが反射的に顔を上げると、唸り吼える獣のごとき目と視線が重なった。
「おまえの言い分も……分かる。……だが……だが! 人間の分際で、この神の玉体に触れる狼藉が、わたしの眼前で働かれることを……! これ以上許したくはない……!」
「…………」
きつく目を閉じ歯を軋ませながら、男は苦しげに、懸命に訴える。ザマスの右手を握る男の僅かに色素が薄まった指先が、どれほどの力を、想いを込めているかを物語る。痛覚が残っているならばさぞ痛いのだろうと、男からも、早急に落着させねばならない議題からも少しだけ目を逸らしたザマスは思い描く。感触を覚えることはできるため、握られる強さ自体は自覚していた。
男がザマスにも一定の理解を示すように、ザマスも彼の想いを分かっていた。だが、やはり頷いてやる気にはならない。闘いに赴かなければ、人間を滅ぼすための力を——不死身の身体を得たことが無駄になってしまう。
——平行線だった。同一の存在でありながら、それぞれ異なる力を得たためだろうか。数年を共に過ごすうち、稀にではあるが、こうして意見を違わせることも生じるようになってしまった。もっとも、二人だけの美しい理想郷を完成させる望みが変わることはなく、彼らの間に決裂の兆しが現れることはなかったが。この議論とて、発端は男がザマスへと向ける強烈な愛念である。
「……そうは言うが。……では、おまえは良いと言うのか?」
男の手を振り解くことはしないままで、ザマスが尋ねる。
人間との接触を余儀なくされる闘いに身を投じているのは、男とて同じだ。不死性を誇るザマスは率先して敵の攻撃を受け止めにいくことも多いが、戦闘民族の肉体を行使する男では、また別の労苦もあるはず。
「追い込まれれば追い込まれるほど進化する……。サイヤ人の肉体の性質に気付いて以降は、敢えて敵の攻撃にその身を晒すことも増えただろう。わたしの身体であれば、歯向かう人間どもの攻撃など傷にもならない。だが、おまえの場合は治癒を施さない限り、人間ごときに与えられた傷は残り続ける……」
「……ああ」
「わたしが攻撃を受けることを許せないと言うのなら、おまえのそれはどうなんだ? おまえの方こそ、人間の悪逆をその身に許しているではないか」
「わたしは……いい。元より覚悟の上だ」
決然と告げた男は、徐に上を——空を見上げる。暖かな太陽を浮かべる晴天の遥か向こう、理想を果たすために捨て去った時空に思いを馳せて。
「孫悟空の……罪深き人間の身体を得るというのは、その罪さえ背負うということ。何の正しさもない強さだけを重ねてきたという業を帯びたこの身であれば、いくら人間どもの愚かな抵抗に晒されようが構わん。寧ろそうしてこそ、この身体の真価は発揮されるというものだろう。……だが」視線を眼前の神へと戻した男は、右手で掴んだ神の手に、もう片方の左手を恭しく重ねた。「おまえはわたしだが、わたしとは違う。神のまま不死身の力を得たおまえの身体は美しい。一点の穢れも宿さぬ、正しく崇高な存在だ。瞬時に癒えてしまうとしても、無闇に無粋な傷を負う必要も、汚らわしい返り血を浴びる必要もない。その役目を背負うべきは、わたしだ。争いを繰り返すことしか能の無い人間どもと、同じ戦場に立つ役目を……」
「それ以上は許さぬぞ」
男を見上げるザマスの視線が鋭さを取り戻す。言葉を尽くして説得を試みたつもりだったが、穏やかになりかけていた炎に薪をくべてしまったと察した男の額に冷や汗が浮かぶ。
「先ほどおまえは……『元より覚悟の上』と言ったな。わたしも、おまえと同じだ。憎むべき人間の身体を使ってまで、闘うことを決めたおまえとな。人間どもの不躾をこの身に受けることになろうとも、正義を執行することを選び、ここまで来た。わたしを見くびるな。ここにいるのはおまえがただ奉り庇護すべき神ではなく、戦場に立つことを厭わないおまえと同じ志と覚悟を持った——おまえ自身だと理解しろ」
「分かっている……! おまえを侮り、否定する意図などない! だが、わたしは人間などに、おまえを……!」
「……では、こう考えてみてはどうだ?」
ザマスは静かに席を立ち、男に顔を近付けた。あと少し動けば、唇が触れてしまいそうな距離にまで。
「……ザ……ザマス……?」
男の頬が紅潮する。最も美しい神の貌が、すぐそばにあるせいだ。
「そうだな……。……汚らわしい返り血、と言ったな」
「あ、ああ……。人間の血だぞ。醜く、不快なものでしかないだろう。おまえには似合わない……」
「醜く、不快。人間の血、であれば確かにそうだが……返り血、となれば……。果たして本当に、それだけか?」
ザマスは男に捕まれていない、空いた左手を伸ばし、男の頬にその指を添わせる。つい先日までいた星の最後の人間を屠ったときに、彼の者の返り血が付着した場所だ。
「よく考えてみろ。返り血というのは、その相手を——罰したからこそ浴びるもの。であれば、それは我々を汚すものではない。寧ろ、勲章のようなものと思えないか?」
「……勲、章……だと……!?」
「ああ。少なくとも、わたしにはそう見えたが? 人間どもが互いに争うことで流れる血は醜悪に濁ったものとしか思えぬが……。そんな人間に正義の刃を振り下ろしたおまえの頬を染めたものは、美しい薔薇の色のようだった」
「薔薇、の……! 薔薇の色……か……!」
ザマスがその眼差しに込めた恍惚の情が、男にも伝播していく。
見開かれた男の目に、最早逡巡も惑いもありはしない。ザマスからの肯定が響いた心の奥底から湧き上がる昂りのみを湛えていた。荒んだ闘いに身を置く中で忘れかけていた意識を取り戻した。
この計画を遂行する自分たちは、常に正しく美しい。人間の業を背負った身体であろうと。人間の攻撃に晒されることになろうと。それら全て、自分たちを損ねるものとはなり得ない。自分たちの身に降りかかる苦難は、皆正義の神を飾り立て彩るものとなるのだ。ザマスの言ったように、汚れた人間の返り血すら、自分たちに添えられる華となる。
「わたしが攻撃を受けるのも同じことだ。不死の神の威光を示す瞬間なのだぞ、何も嘆くことはない。わたしとしては、おまえにも後ろで共に喜んでほしいくらいなのだがな」
「ああ……! ザマス、わたしが血迷っていた!」
男は一度ザマスの右手を離すと、今度は己の頬に添えられていた左手と共にして、両手で包み込むように握り締める。
高揚する男の動作を拒まずに受け入れるザマスの貌に険しさはなく、柔らかな微笑をもって彼を見守っていた。
「醜い人間がおまえを害そうとする度、わたしはおまえが冒涜されたような気を味わっていた。おまえにそうなってほしくはない、あんな者どもの凶刃を降ろされるのは、この人間の身でいいと……。だが、わたしはとんだ勘違いをしていたのだな。この身が人間のものであろうとも、わたしは人間と同じところに堕ちていくわけではなく……。そして人間ごときが、おまえを……我々を貶めることなど、できはしない」
「その通りだ、分かってくれればいい。さすがは『わたし』……。分かってくれると、信じていたぞ」
「ああ……! 気付かせてくれたこと、感謝するぞ、ザマス! これからも、共に正義を成そう!」
男は熱く語り掛け、さらに力を込めてザマスの手を握る。
ザマスもまた深く、強く頷き、「もちろんだ」と返した。
「では決まりだな。地球人の掃討、わたしも同行して良いな?」
相互理解に達した問答の末の問いは、分かり切った答えを確かめるためのもの。
——しかし。
「……なっ……! そ、それは……っ!」
男は狼狽え、そしてまたしても拒み始めてしまった。
「……はあ? まさか、この期に及んでまだ嫌と言うのか? わたしの言ったことは理解したのだろう?」
「し、した……! した、が、しかし……!」
彼は混乱していた。自分でも、自分の心に整理がつかぬのだ。
人間がどれほど足掻いたところで、ザマスの神聖を踏み荒らされることはない。そう理解しているというのに、またザマスの身が人間に晒されることを想像した瞬間、やはり全身の血が怒りに燃え滾る感覚を覚えてしまう。
「ザマス、一年だ! 一年間、時間をくれ!」
「一年?」
咄嗟の思いつきだが、袋小路に立たされていた男にとっては天啓であった。何としてでも、それを貫かなければならなかった。でないと、次の戦場でも御し切れぬほどの激憤に苛まれてしまう。
「一年だけ、わたしひとりで闘わせてほしい。闘いを経て、傷付けば傷付くほど強くなるこの肉体の力を引き出すためにも、必要なことだ……!」
「必要なこと、か……。確かに、その目的ともなれば……おまえの要望も一理あるな」
「……! ザマス……!」
「……いいだろう、一年だ。一年で、おまえがどれほど力を高めているか……どれほどの人間を斃せているか……見物だな」
ザマスは依然、穏やかなままで男の提案を受け入れた。その様子に心底安堵して大きく息をついた男は、ようやくザマスの手を離して腰を下ろす。口を付けた茶は激論を交わしていた時間のせいで随分と温くなってしまったが、今度こそ心から芳醇な美味を味わえた気がした。
「一年の時を経たとき、わたしは今までのように、おまえに庇われる存在ではなく……おまえと肩を並べる神に相応しい力を手にしているだろう。楽しみにしているがいい」
「そうしよう。だが……ふふ、わたしに庇われることは嫌ではあるまい。おまえが厭うのは、あくまで人間が、この不死身の身体に触れることだ」
「ああ、そうだ。同じ神であるわたしが、神の恩恵を与えられることは当然だ。人間どもに振るうには勿体ないほどの、神の奇跡を……」
人間でありながら不死身の神に挑み、その奇跡の一端を目の当たりにすることへの憤り。男は己の感情をそう理解していた。
だが、その思いの本質は——嫉妬であった。敵対する人間がザマスの不死性を直にするということは、自分以外の者がザマスの身体に触れるということ。それこそが、男が嫌悪するものだった。
妬みという、浅ましい人間同様の感情を抱いてしまったということを、聡明な男であれば気付けてしまうだろう。——己の矛盾から目を背けようとしない限りは。もう一人のザマスもまた、繰り返すこのやり取りの中でその答えを察しつつある。——だが、口にはしない。
「では、今日から一年の間……この身に触れるのはおまえだけ、ということだな」
「ふふふ……。ああ、その通りだ」
——悦びの肯定だけを、口にする。
そうやって、闘い抜いてきた。憎き人間を滅ぼすために人間の力を行使することの、争いを重ねて世界を汚す人間の血でその手を汚すことの矛盾に囚われて、歩みを止めてしまわぬよう。互いだけは互いを瑕疵のない美しいものと認め合う。
だから、男の顔を染めるどす黒い血飛沫すら、ザマスの目には咲き誇る華の色として映る。人間と同じ姿形をした男の神性を首肯して、己の玉体を許す。
「地球にはまだ来たばかりだ。人間どもに神の姿を示すのは、明日からでも遅くはあるまい」
「今夜が……愉しみだな。長い夜になりそうだ」
艶やかな微笑みを交わし、神々はまた一つ、互いの心を慰め合う。