——バシャ。
こちら目がけて突如飛来した「なにか」。それから逃れようと反射的に眼を瞑る——のと、顔の皮膚が冷たい温度を被ったのは同時だった。
不意打ちの鋭い飛沫、そこに伴われた重い香り。二つの感覚に苛まれながらも、顰めるように固く降ろした瞼を、どうにか上げていく。
「…………は?」
開いた視界に現れた光景こそが、最たる刺激だった。
同じソファのすぐ隣に座って寛ぐカイザーが、手に持ったシャンパングラスをこっちに向けている。ぽたり、ぽたりと俺の膝に落ち、部屋着の生地を濡らし続ける残りの雫と、直接浴びた香りの正体がフルーツ交じりのアルコールだと気付くまで——カイザーに、グラスの中身をかけられたのだと、理解できなかった。
「クソ節穴。十一番は敢えてこっちに抜け出したんだ。隠密のためには、それが——」
「——な……っ⁉」
しかもカイザーは、何もなかったかのように、平然と元の話を続けてきた。
ほとんど空になったグラスをことりとテーブルに置き、ふたりで覗き込んでいたタブレットをもう一度持ち上げて。 その様を眼にして、俺はようやく、ふたりで試合を分析していたんだってことを思い出したっていうのに。
画面を俺に観やすくさせるため、カイザーは少しこちらに身を寄せる。その動きと距離感が、ついさっきの光景と温度——それらの冷たさとの、酷烈なギャップを創り出した。
「——以上だ。……で? まだ反論を用意できるのか? クソ道化」
「は……っ、いや、お前……!」
もしも今交わしていたのが、俺たちの名物としてメディアに持て囃されるようになってしまった大激論だったとしたら。よくある意見の相違から発展したケンカの最中だったとしたら。そんな前提さえあったなら、いきなり浴びせられたシャンパンに納得してやらなくもない。
だけど、ここはフィールドの外どころか——俺たちの家で。束の間の休息となる夜の時間を、俺たちらしくも穏やかに過ごしていたはずだった。
「どうした?」
「なん……っで、今の流れで俺に酒かけた……?」
「なんでって……。世一がクッソ的外れなことを言うからに決まってるだろ」
「そこまでズレた理論じゃねえだろ!」低い声で投げた問いに、事もなげに、呆れたように答えられ、いよいよ叫びを返してしまった。「……じゃなくて、だとしても……!」
サッカーのことを思えば、この困惑を後回しにして、論議を再開できたかもしれない。現にそうしそうになった。
けれど、この衝撃は看過できなかった。ただの険悪な宿敵ではなく——恋人でもあるカイザーの、何の前触れもない暴挙だったせいで。
「何だ世一」形の良い眉が片方だけ上げられる。「クソあわテンパりやがって。さっきお前が述べた理論、そんなに自信があったのか?」
「だから、そういう話じゃ……! ……け、ケンカしてたわけでもないのに……!」
埒があかない方向に舵を切り出した会話に募るのは苛立ちじゃなく、さらなる混乱と狼狽だった。
こいつ、今の行為を、本当に何とも思ってない。 ——呑み込み難い価値観を前にして、違和感を言語化するプロセスが阻まれる。
一瞬の加害への非難ならいくらでも湧く。でも、そうやって本当にケンカしたいわけじゃない。もっと、思い至るべき可能性が——この暴挙と結びつく欠片が、俺の記憶の中にあるはずだ。
その既視感の正体を手繰り寄せたいのに、本能的な驚愕と、顔面に纏わりつく液体が思考が邪魔をする。ああクソ、おかげで拗ねたような言い方しかできてない。上手く動かない脳には腹が立って、濡れた額を手の甲で抑え、顔を顰める。
「……そんなに、嫌だったか?」
鈍った脳が再起するよりも早く、カイザーの声が静寂を破った。
「破った」というのは過大表現かもしれない。それは夜の静けさに溶け込んで消えていくような声だった。
「あ……っ、当たり前、だ、ろ……——っ⁉」
俺の状況をただ不思議がっていただけの、さっきまでとは明らかに違う態度。当然の答えを返しながらも、ヤツの表情を捉えようとして。——視界が、ぐわりと歪み始めた。
薄らぼやけていく皇帝の姿と反比例するかのように、果実酒の芳香が濃くなって、酩酊の感覚に誘われていく。皇帝曰くほろ酔いするのがやっと程度の酒らしいが、直接顔に被ったことで、話が変わってしまった。ただでさえ、俺は酒に強くないのに——。
「世一……⁉」
甘ったるさに圧されていく危機感が、カイザーの声を辛うじて掴む。——隠れてもいない焦りが珍しくて、咄嗟に掴みやすかった。
「世一!」
「ぐ……っ、かい、ザー……」
悲鳴にも近い声で名を呼ばれ、両腕が強く握られる。正直、潰れることを危惧してしまうくらい痛い。けれどその痛みと聴き慣れない悲鳴のおかげで、意識を現実へと戻せた。
「世一……!」まだぼやけてる、けど、ほっと息を吐いてくれたのは分かる。「……まさか酔うとは……。……立てそうか?」
「なん、とか」
「……なら、早く顔洗ってこい。そのままじゃクソ気色悪いだろ」
「ああ、そーする。てか、丁度いいし、シャワーも浴びてくる」どうせこの後、ふたりで寝室行くよな。カイザーはもう済ませてたっけ。
「そうしろ。……どうぞごゆっくり。お前の大好きなバスタブで寛いできても構わんぞ」
「それはまた後でな……。お前だって、最近割と好きだろ」
「はっ、今から延長戦のお誘いとはなあ……」
眩暈に耐えながらソファを降り、揺れる視界の中、リビングルームの出口を目指す。方向感覚もおかしくなっている気がするけど、多分、大丈夫。
「……」
不確かな自信を表すかのように、ふらつく足取りと小休止を繰り返す——フリをして、ひとり残ったカイザーの様子を覗う。
軽い果実酒のせいか、それとも案外——この時間を気に入っていたのか。ごく僅か、でも確かに、さっきまでは色の灯っていたはずの頬。今はそれを失った、蒼白なものへと変わり果てていた。