不可能への覚悟(全6ページ/3ページ目)

 クソ、まだ落ちないな。
 顔を洗って、ついでにシャワー浴びて、着替えてからもう一度顔洗って。酒によるベタつきはなくなったけど、それでも納得できないくらいには、甘ったるい香りが鼻腔から離れなかった。
 もしかすると、香りは鼻や顔じゃなく、記憶に焼き付いてしまったのかもしれない。そのせいで、落ちないと錯覚させられている、とか。浴びせられた衝撃を考えれば、あり得ない話じゃなさそうだ。
 だとしたら、まるで、あいつそのものだと思う。うざったくてムカツクばかりで、さっさと拭いきってやりたくて仕方がないのに、どうしたって消えない。その衝撃には、決して消せない鮮烈があったから。本能を酩酊させるドギツい薔薇の香りは、裏を返せば、本能が狂い書き換えられてしまうほど、好いてしまう匂いだった。
「…………」
 自覚は少し遅かったけど、きっと、最初から恋に落ちていた。
〝新手のI LOVE YOU〟を告げてしまったせい? 超速の蹴撃と、世界一の資質に魅せられたから? それとも——出逢い、そしてあの手を握った瞬間、運命なんてものを直感していた?
 それじゃあ、恋心というより殺意めいてるよな。でも、俺はストライカーの夢に身を投じ、〝青い監獄〟というイカれた戦場で生きたいと願った人間だ。その人生における「恋」の相手は、笑顔が素敵な女の子じゃなく、一番激烈な感情を向ける宿敵だと決まっていたのかもしれない。
 思えば、喰ってやりたい他のどんなライバルたちにも、ここまでの憎悪そして憧憬を抱くことはなかった。〝新英雄大戦〟以降、W杯の頂上で激突する妄想だって、何度もしてる。昔は日本対フランスで、〝ノア様〟と光栄にも一戦交えるシチュエーションばかりだったのにな。
 特別な宿敵に向ける、殺意と紙一重のイカれた恋心。だから、デートとか、付き合うとか、告白、とか。——本当は、するつもりなかった。ストライカーとしての喰らい合いだけが、俺たちを結ぶに相応しいものだと疑わなかった。それに、お相手はいくら惚れても恋人にはなれないなって思うくらいには、性格最悪の皇帝様だ。——もし俺がその気になったとしても、向こうだってお断りだろ。
 それでも、会話すらろくにできなかった〝青い監獄〟時代に比べれば、多少マシな関係になったのは確かだ。自覚した恋は、激闘をさらに燃え盛らせる薪となる。おかげで、フィールドに立つことが、ボールを蹴ることが、今まで以上に楽しくなった気がした。
 あのときまでは、それで十分だった。

 

『……あいつ、まだ……』
 とある試合があった、翌日のこと。俺たちは未だに点数勝負を続けていて、俺にとっては最高、あいつにとっては最低——そんな試合だった。
 敗北を喫してお得意のマウント癖を封じられた皇帝は、独り夜まで練習場に残り、ただひたすらに刃を研ぐ。俺がそれを知ったのは、たまたま忘れ物を取りに行ったからだけど——普段の煽り魔からは想像もできない姿に、見惚れてしまった。
 俺があいつをこんなふうにしたんだという勝利の快感、浸食の歓び。そういうものに酔いしれる見惚れ方だというのは認める。でも——ひたむきにサッカーと向き合い、ボールを蹴り続ける宿敵は、純粋にきれいだと思った。
 それ以降、俺はあいつを上回る度、わざと忘れ物をしようと決めた。——ちょっと趣味悪いかな。あいつの番犬に知られたら殺されそうな趣味だ。でも、あいつの方が煽ってきた回数とか考えれば、俺ばかりがとやかく言われるのはおかしいよな。舌打ち一つで済ませてくれないかな。

 

『やっべ、マジでやらかした……!』
 しかし、新たな趣味を得たその数時間後に、もう一つの忘れ物をしていたことに気が付いた。練習の続きを拝みたかったとかじゃなく、完全に素。しかもこのときの忘れ物はあろうことか財布だった。身分証とかも全部入ってる。このチームに人の財布を盗む真似をするヤツはいないと思うけど、想定外の緊急事態と刷り込まれた危機管理意識——落とした財布が戻ってくるのは日本くらい、なんて言い聞かせられてきた——が、俺を必死に走らせた。
 もうとっくに遅い時間。さすがに切り上げて帰路についているであろうカイザーに、思考を割く余裕なんてなかった。
『よかったー……! セーフ……!』
 ——無事だった。ぜえぜえと息を切らせながら、額に浮かんだ汗を拭う。走ったせいでかいた汗というより、ほとんど冷や汗だ。
『……あ——』
 焦りを安堵に変えて深く息をつけば、別のことが眼に留まるようになる。
 一つだけ、鍵が刺さっていない——つまりまだ誰かが使っている——ロッカーがあった。この位置は確か、あいつの定位置。
『……カイザー……』
 あいつ、まだやってるのか? 嘘だろ、今何時だと思ってるんだ。
『…………』
 今度ばかりは、自分が何をしたいのかもよく分からないまま、屋外の練習場に足を運ぼうとしていた。
 また一目見て、踵を返す? それとも、オーバーワークやめろとでも言うべきか? 言った方がいいだろうけど、相手はカイザーだ。今の俺が言ってしまえば、きっと無神経が過ぎた皮肉になる。でも、万が一のことがあったら? いや、あいつに限ってそんなことないだろうし、大体俺に心配されるようなヤツでもないだろ。
『…………ッ⁉』
 煩雑な思惑は、フィールドに足を踏み入れた瞬間、粉々に砕けていった。
『——カイザー‼』
 思考するよりも早くその名を叫び、弾かれたように駆け出す。
 月明りの下、独り地に倒れ伏した、あいつの元へと。
『カイザー、しっかりしろ、おい‼』
 力なく落とされた瞼、ぐったりと横たわる身体。それを揺する手に伝わるのは冷たい体温。過剰な運動でぶっ倒れたわけじゃないのか? それとも、何時間もこんな状態だった? だったらヤバくないか、息だって、してるのか、どうか——。
『⁉ お前……っ⁉』
 呼吸は、こいつ自身の手によって止められようとしていた。
 力なく倒れて、意識だって朦朧として、ないに等しいはずなのに。——その両手だけが意思を持って、己の白い首を握り潰そうと。
『何やってんだ、やめろ、バカ‼ ……⁉ 力強っ、痛……っ!』
 手の甲に掴みかかったり、首と手の間に自分の指を入れたりして、首を絞める手を引き剥がそうと試みる。ありったけの力を込めてもびくともしないし、首の身代わりにさせたはずの指なんて、それ諸共砕かれてしまいそうだ。——こんな力で、絞め上げていたのか。
『……っ、カイザー‼ こんな、ところで……っ! 死なせるか‼』
 確かに今回は俺が勝った。でも、そんなもの前哨戦にすぎないし、こいつの上位互換に至れたような勝利でもない。世界の頂上——W杯の決勝を共に迎え、俺にトドメを刺される瞬間まで、勝手に死ぬな。俺の前からいなくなるな!

 

『……ハァ、クソ……ッ』
 どれくらい格闘したんだろう。指の骨を全て折る思いをして、生きた凶器をようやく患部から遠ざけた。
 未だ痛覚の残る指先が真っ赤に染まっている。でも、二輪の青薔薇を潰すように残る手の痕の方がずっと赤く視えて、目を背けたくなるくらい痛々しかった。
『……っ』
 俺だって、こいつを潰したい。時にはわざと暴言吐いてまで、それを為そうとしてきた。でも、これは、こんなのは——違う気がする。
『……ゴ、ハ……ッ、ゴホ……ッ』
『……カイザー……』
 苦しげに咳き込む背を擦る。こういうのは、ネスの役目かもしれないけど。俺は、こんなことをしていい立場じゃ、ないかもしれないけど。
『……よ、いち』
『! カイザー! 気が付いたか⁉』
『よい、ち……』
 違う、うわごとだ。瞼は固く閉じられたまま、涙——生理的なものだとは思うけど——の滲む長い睫毛が小さく揺れる。微かに震える唇の動きを、一心に追う。
『よいち、以下、の……クソ、ゲろ、ゴミ……』
『————』
 ——ミヒャエル・カイザー。俺の知る、最高のフットボーラーのひとり。世界一のストライカーに、最も近い存在。誰よりも、美しい宿敵。
 そのお前が、こんなふうにお前を否定するなんて。
『俺、は……』
 こいつへの認識を、間違っていたかもしれない。
 俺に負けた後で一心不乱にボールを蹴っているのは、俺に復讐する力を得るためだけじゃない。今、自分で自分の首を絞めていたことと同じ、ある種の自傷行為だ。誰かを潰すためのサッカーを、己自身に向けようとしているんだ。
 自分さえ傷つけるためのサッカーなんて、思い至ったところですんなりと納得できるものじゃないけど。でも、こいつは——〝世界一〟の夢一つだけを追いかけてここまで来た俺と、多分、違うのかもしれない。俺なんかが想像もつかないような「何か」を抱えていて、悪辣なようで壮絶な覚悟と野望を、サッカーへとぶつけている。
 その「何か」が何であれ、カイザーの強さの源だと言うなら、そこへと無遠慮に手を伸ばすつもりはない。たとえそれが、傷ましい自罰意識を含むものだったとしても。俺にはどうこう言う権利も、その癖を変えられる力もない。根底を俺に変えられてしまうほど、カイザーは弱くない。
 ——でも。
『……行くぞ、カイザー』
 力が抜けてだらりとした腕を持ち上げ、俺の肩に回して担ぎ立ち上がる。ネスとか、夜勤のドクターとかを呼ぶという考えは、頭からすっかり抜け落ちていた。
 このまま放っておけば、カイザーは自滅してしまうと確信した。〝新英雄大戦〟時代のP・X・G戦、新兵器の開発を急くあまりにミスショットを犯したとき。優れた〝超越視界〟で敵を捉えることも忘れ、ボールを奪われたとき。いつか、あれらと同じか——いや、比べ物にならないほどのの崩壊を起こす。それも、進化へと繋がるようなものじゃない。ただ粉々に砕けて失くなってしまうような壊れ方だ。
 遠因はこいつの地位を揺るがした俺にあるわけだから、俺はただ喜べばいいのかもしれないけど——これは、できない。あのとき以上に勝手に転げ落ちたカイザーを踏み付けて、空になった玉座に悠然と着きたいんじゃない。俺の力で完全勝利して、正当に明け渡される玉座を得たい。 それが、〝新英雄大戦〟を経て強くなった俺が求めるべき勝利だと思うから。
『……』
 あの戦いを思い出す中、従者の顔も脳裏を過った。己の進化のため、皇帝はその忠臣すら切り捨てた。敢えて味方を持たない、敵だらけの『不自由』こそが、こいつにとって最適な環境なんだろう。
 けれど、自分自身さえも、敵と見なすというのなら。
『……悪いな』
 まだ浅くも、落ち着きを取り戻しつつある呼吸に耳を澄ませ、赤い痕が薄れていく二輪の青薔薇を真っ直ぐに見つめた。
『お前の一番近くは、俺がもらうから』
 自傷の果てに身を滅ぼすことだけは、何としてでも止めなければならない。他の誰でもなく、カイザーとの戦いを望む俺自身の手で、止めてみせたい。
 そのためには、この孤高の皇帝の傍にいるための立場や理由が必要だ。俺が想定外の忘れ物をするという偶然は、何度も繰り返すには不自然だ。今の関係ではそんな偶然に頼るしかないから、別の結びつきを足さなくては。近いようで対局に位置する宿敵という関係では、いよいよ足りなくなった。
『……なるしかないか、恋人!』
 カイザーが眠っているのをいいことに、月に向かって宣誓する。墓場まで持っていくと決めたはずの恋心は、案外明るみを帯びた声に変貌した。男って単純だな。こんな煽り魔とは付き合えねーわと思ってたのに。

「……そっか」
 これだ。いきなり酒を浴びせてきた暴挙と結びつく欠片、既視感の正体。
 あいつ、誰かを虐げることに全く抵抗がないんだ。——自分自身に対しても。
 馬狼のような気位の高さでも、士道にも通ずる血の気の多さでもない。俺みたいに、世界一になる過程で誰かを負かすことを快感と認識してるってレベルでもない。俺以上に嬉々として相手を潰そうとしてる様もヤバいけど、危惧すべき本質はそこじゃなくて——「虐げる」という行為を、常に、「当たり前」であるかのように用いてくるところ。
 それが、もう一人思い浮かぶ異常者——凛とも異なる恐ろしさだ。非合理的で醜いプレーを好む凛の姿はどこからどう視たって明らかに異様だけど、カイザーは時として、本能を満たす悦びのためじゃなく、ただ息をするかのように暴虐を振るう——言うなれば、あるべき違和感の欠如を挟む、当然であるがゆえの異様。そういえば、頻繁にネスの頭掴んでるよな。あれがまさしく好例だ。俺はやられたことないけど、かなり痛そうだと思う。
「待てよ、あのときも……」

『……なるほどなぁ! それほどまでにこの俺を隷属させたいか! 良き! 良い魂胆だ! 最近のお前はますます言うようになった!』
『え——? いや、まあ確かに、フィールドではそうだけど……』
『クソ不敬——だが、神がかったキャスティングに免じてクソ許そう! お前の書く脚本の哀れなヒロイン役を、引き受けてやろうじゃないか!』
『そういう言い回しよくわかんねーからやめろよ……! ……でも……いいって、ことか?』

 フィールドで倒れていたあいつを、ロッカールーム内の長椅子に寝かせて、目を覚ますのを待った。それから、「何寝落ちしてんだよ。俺? 俺は忘れ物を取りに来ただけ」と、用意していた誤魔化しを唱える。真実に気付かれる隙を与えないよう、「丁度良かった、お前に話したいことが……」と切り出して、告白をしたときの返事だ。
 あのときは恋人の立場という結果をとにかく欲しがったせいで、ちゃんと訂正することはできなかったけど。あいつ、まるで——自分が酷いことをされる立場だっていうのを前提に、この関係を受け入れたよな。俺という大敵が相手だからかと思っていたけど——恋愛、いや、人間関係の全てを、そう捉えているとしたら?
「なんで、そんなふうに……」
 そんなの、度が過ぎる「不自由」だ。
 お前、一体、何を視てきたんだ。どんなところで生きてきたんだよ。
「性格が悪い」程度じゃ済まないくらいの歪み。想像できない、できたとしても、してはいけない。それほどの禁断に、指先でほんの少しだけでも触れてしまった感覚に陥って、冷たい汗が頬を流れていく。
 文字通り自分で自分の首を絞めたがるような言動の数々。生粋のサディストみたいな人間のくせに、その実あまりにも被虐的。加虐も被虐も、あいつにとっては同じ、なのか?
「ああクッソ、わっかんねえ……!」
 情報が圧倒的に足りていないから、完全理解は程遠い。付き合って同じ家に住んでそれなりに経つはずなのに、分からないことだらけだ。意外と朝弱くて私生活だらしないのかなと思いきや、次の日は完璧に身支度を終わらせ朝食も作って、俺を起こしてくれるようなヤツ。何なんだ、ほんと——。
「——ッ⁉」
 鼓膜を劈く高い音。リビングの方から聴こえたそれに、思考まで切り裂かれた。パラパラと零れ落ちていく鋭い破片のイメージが、裂かれた部分に浮かび上がる。
 次いで想像してしまったのは、その部屋で過ごしていたさっきまでのことだ。顔色を失っていたあいつと、テーブルに置かれていた空のグラス。

『……そんなに、嫌だったか?』

 些細な暴力なんてネス相手に振るい慣れているはず。けれど俺相手にそんな行為を働いたのは、思えばさっきが初めてで——加害者のくせに、酷く傷付いた顔をしていた。——今のあいつを、独りにしておくのはまずい!
「カイザー!」
 そうだ、理解なんて後回しでいい。俺はあいつの危うさを止めるために、この恋を叶えたんだ。
 ——それでも、理解しようとしていた。相手を窺って分析しようとするのは俺の性格上の癖、ってこともあるだろうけど、やっぱり——あいつのこと、好きなんだな。