アテンプト・ラブ(全2ページ/2ページ目)

「どう思う、世一」
「……どう、思うって」

 シャワーを浴び終え、潔が淹れたハーブティーをお供にして同じソファで過ごす間、カイザーはタブレット内の文字を静かに追っていた。
 そこからようやく顔を上げた彼の問いの意図が分からないわけじゃない。潔もその記事を読んでいたし、潔が読んでいたということを、彼からタブレットを借りていたカイザーも知っている。
 にもかかわらず潔が返答を躊躇したのは、ひとえにこの話題のせい。ゴシップの内容と、それがカイザーの心にもたらすもののせい。それらこそが、彼の疲労の原因だ。報道陣を捌き切って帰路についたカイザーだったが、体力的に消耗しているわけではないということくらい、潔にも分かった。
 ——だが、回答を濁し続けるわけにもいかない。彼の内側に触れることを、許された者として。
 自らの意思でそう決めた潔は、腹を括って重たい口を開く。

「……火消しは、できたんじゃねえの。お前も……彼女も、ちゃんと……否定してたみたいだし」

 答え終われば、意識するまでもなく奥歯を噛みしめていた。——ちゃんと否定ってなんだよ。
 記事のトップを飾っているのは、瓜二つの美男美女、それぞれの写真二枚だ。二人への取材は個別に行われたらしく、対面する事態にならなかったことがせめてもの救い——だと思ってみたところで、潔は不快な滾りを鎮められなかった。
 ——何が、「他人の空似」「赤の他人」。ああそうだ、赤色。彼らお揃いのアイラインカラーのように、真っ赤な嘘だ。カイザーの不遜な振る舞いや笑顔も、貌を彩る化粧の施し方も、画面の向こうで活躍を重ねる大女優から学んでいったものかもしれない。けれど、元来のプラチナブロンドの絹髪と、他を圧倒するほどの美貌は、間違いなく「母親」譲りだ。

 「彼のような素敵な子供、私にはいないわ」と報道陣に答えた彼女は、酷烈な皮肉でも吐いているつもりなのだろうか。それとも、光浴びる前の我が子のことなど、本当に忘れてしまったのだろうか。自分が付けたはずの名前ごと。どちらにせよ、胸クソ悪い。

『日本人の世一にはご立派に聴こえるかもしれないが、Michaelという名は珍しくない。もちろん、意味を込めて子供に授ける親が多いからこそ数多き名なわけだが……あの女にとっては、適当な置き土産だろうな』

 なんて言っていたカイザーの、自嘲の笑みまで思い出した。

「……今更母親面しろとは、絶対言わねーけど……」

 それで潔の溜飲が下がることはないし、第一、カイザー自身が望んでいないと知っている。——でも。でも。

「落ち着けよ、世一」当事者であるはずのカイザーが、第三者である潔を宥める立場に回った。「考えてもみろ、自分の栄えあるキャリアプランの中に生じてしまった、唯一の誤算で汚点だぞ。殺せないならせめてクソ無視するしかないだろ。『汚点』の方も忘れてくれているなら、乗らない手はない。……な? 彼女の考えはクソ理解できる。だから責めるつもりもないし、気にしてない」
「忘れて、気にしてない? ……お前がシャワー浴びてる間、俺が何度冷めたハーブティー淹れ直したと思う? 何度、お前の様子を見に行こうとしたと思う?」決して短くはない時間、流水を浴びていることしかできなかったくせに。それくらい、気にして疲弊しているくせに——と、潔は遠回しに突き付けた。

「…………」

 そして、後悔した。突き付けてどうしたかったのか、言語化できないから。
 見え透いた嘘を嘘だと認めさせ、辛かったと弱音を吐露してほしいわけでもなかった。ただ、潔自身が耐えられなかったのだ。自分とは縁のない性質の残酷と、それに慣れきっているカイザーに。

(……慣れるしか、なかったんだよな)

 だから今の追及は、八つ当たりめいたものでしかない。しかも、よりにもよってカイザー本人に対しての。行き場のない悲憤は、カイザーが決めた通りに、行き場のないままであるべきだったのに。

「様子を見に行こうとした……ねぇ? だったら、犯行は未遂に終わったのか。クソ覗き魔にならずに済んだようで何よりだ」
「は、はぁ? ……ちゃ、茶化すなよ……てか誰が覗き魔だよ……」

 口を尖らせた潔だが、その胸中には安堵が広がる。ふたりの間を流れる空気が、少し軽くなった。
 それに、潔を揶揄うカイザーの笑みは、精巧な仮面のようなものとは違う。——コイツがそんなふうに笑えるならいいかと思えてしまう。カイザーが性悪で良かった。

「くく……そうだなぁ、愛しのクソshatzに向かって覗き魔とは些か無礼だった。詫びの印と、それからお前に免じて……ということで、一つ認めてやろう」
「え」

 突如として、潔は混乱に突き落とされる。まず、カイザーが潔の型に頭を乗せ預けるように、もたれかかってきたせいで。潔の身体はそれだけで硬直して、心臓は跳ねる。
 次に、彼が告げた言葉。愛しの——なんて、急に恋人扱いされたせいで、肌が熱くなっていく。恋人なのだから恋人扱いされるのは当たり前で、演技派のカイザーにとって造作もない言葉なのかもしれないが——演技じゃないと思いたい。ちなみに、「詫び」というらしくない言葉は100%嘘ということは分かった。カイザーが覗き魔呼ばわりくらいで申し訳なくなるはずがない。
 しかし、潔はまた異なる理由で身を強張らせてもいた。——「認めて」、なんて、さっきダメだと思ったばかりなのに。

「……今でも、彼女からは多くを学んでいる。だから忘れているわけがないし、思うところがないわけがない。まぁ、平気というのも決して嘘ではないんだが……誰かさんのせいで、な。コレは俺が思っていたよりも、哀れな物語なのかもしれないと、思えてしまったからな」
「……それって」
「俺の身の上話は、お前には刺激がクソ強かっただろう? そういうことだ」

 カイザーの心を染めることは、潔にとって熱く甘美な喜びで、幸福に他ならない。——だがこの瞬間、初めてその弊害を思い知った。
 潔に絆され——日本語の挨拶を覚えるくらいには——、価値観を彼の方へと溶かしつつあるせいで、今度は自身の親子関係の惨さを、相対的に理解してしまった。——カイザーは、そう言っているのだ。
 残酷を残酷と思わず、自分の常識にしてしまうか。それとも、そうしてきたことの哀しさごと知ってしまうか。——どちらの方が幸せか、潔には分からなかった。

「おいおい、そんな顔するなよ、世一」カイザーの指が、潔の頬を押し上げる。それにつられた口角が、潔本人の気分に反して上向いた。「この程度でクソつまらん罪悪感なんざ抱くようでは、俺というクソ物の相手は務まらんぞ」
「……そーだな」

 「クソ物」。何としてでも彼を負かしてやりたいフィールドの上ならまだしも、ここでは否定してやりたい蔑称だ。だが、どうやらカイザーは、この造語を自嘲のためだけに使っているわけでもないらしい。
 ——だったら、こっちも認めてやる。どれほど価値観に溝があって、それを埋めれば別の痛みが生まれるのだとしても、カイザーがそれを良しとして、俺の傍にいることを選ぶのなら、それでいい。
 カイザーの指先に促されながら、潔は少しだけ強引に、思考の更新を図った。

「大体、ここでお前と俺が思い悩んだところでクソ杞憂に終わるぞ」潔の心境の変化を察したカイザーは彼の頬から指を離し、満足げに微笑む。「今回の小悲劇に、PART2は生まれない」
「何でそう言い切れるんだよ。かなり話題にもなったみたいだし、向こうが味を占めて、興行目的の接触を図らないとも限らない。次は断れんのか?」
「俺がどうこうというより、上が黙っていないだろうな。今回の騒ぎや取材が、ギリギリの境界線だったはずだ」
「上って、クラブの上層部か? ……いや、それともまさか」思い至った可能性に、潔は思わず顔を引き攣らせた。「前にお前が言ってた、現PIFA会長の——」

「ああ。俺の安全責任はあいつが負ってる。俺のフットボールは今や極上の商品で、それに不当な不利益を及ぼしかねない危険を、あの資本主義者は野放しにしない。……あの女とその周辺は、抜かりなく監視されている」
「そ、そっか……」

 挙げられた大物の存在や、「監視」という強力な言葉と権威に、潔はおずおずと頷くしかなかった。選手とはいえ一個人の安全保障とか、PIFAってそんな秘密組織みたいなことすんの? という疑問は、口に出さないことにした。——PIFA会長も目を光らせるようなスキャンダルを、こいつ自身に共有されてる俺ってすごくね? と、優越感めいたものは覚えながら。
 フットボールの才能と、それが創り出すゴールで、人生は劇的に変わる。〝青い監獄〟で何度もそれを体感した潔は、カイザーの経歴にも同じものを感じていた。

(俺と、絵心……と、ちょっと似てるかも)

 ああいう大人との縁があったから、今の自分の地位がある。けれどその縁を掴んだのは、紛れもなく、自分自身の才能だ。

「それに……。……世一、俺を誰だと思ってる? クソ被害者側、って意味じゃあない」
「分かってるぜ。……何かあったら、お前が100%勝つってことも」

 フットボールの世界において、カイザーはドイツの威光と誇りを一身に背負って君臨する存在だ。クラブチームでこそ潔やノアと喰い合っているが、ドイツ代表及びそれを支持する国内は既に、彼を戴く軍団として完成されている。
 世界的大女優である相手も確かに大物。だが、フットボールが歴史あり誉れ高い、ドイツの強大な国技である以上——カイザーは、誇張抜きにドイツの皇帝と呼べる存在だった。彼女さえ、分が悪くなるほどに。
 ——そんなやつと付き合えてる俺ヤバくね? と、潔はまたしても心くすぐられた。というか〝皇帝〟、羨ましい。日本代表チームを俺のワントップにできたら絶対気持ちいい。

「そういうことだ」潔が滲ませた畏敬と羨望に、カイザーはまた気分を良くした。「一言、たったの一言でいい。俺が僅かな精神的苦痛を一言でも訴えれば、あの女はたちまち終わる。俺の意思すら超えて、全国民があの女を舞台から引き摺り下ろす。その後は監獄に幽閉され、断頭台の露と消えていくかもしれないな?」
「断頭台って。いつの時代の話してんだよ」

 とはいえ、熱狂的なサポーター——フットボール自体の人気に加え、苛烈な皇帝であるカイザーのファンも、過激派と化しやすい傾向がある——とか、実際にカイザーが受けた所業等諸々を踏まえれば、あながち冗談では済まなさそうなところが恐ろしい。「その予定はないがな」と肩を竦める若き皇帝に、潔も苦笑を返した。
 「予定」を作らないのは、皇太后への慈悲か、それとも余裕の表れか。どちらにせよ、かつての強者と弱者はいつの間にか反転していた。自分を捨て去り、一人甘蜜を享受した母から、今のカイザーは小さな命令一つで何もかも奪える立場にある。
 その〝立場〟を——〝皇帝〟の玉座を、カイザーは自分の力で手に入れた。

「……お前、ほんと強いよな」
「I LOVE YOUをどうもありがとう。もっと心からの屈服があれば、より俺好みだったんだが」
「ほざけ、誰が屈服なんてするか。……感服で満足しとけ」

 潔が捧げたのは、確かに心からの本音だ。誇らしさと、憧憬と——そこに混ざった悔しさなんて、見抜かれても問題ではなかった。
 カイザーは強い。不安定なところがないとは言い切れないが、それでもなお、陰惨な過去を踏み越える心の持ち主だ。臣下も後ろ盾も、彼の力で手繰り寄せた。

(じゃあ、俺は……)

 ——俺って、こいつの何になれるんだろ。
 臣下でも後ろ盾でもない自分は、カイザーの強さの一端とはなり得ない。そんなモノに成り下がる気は最初からないし、カイザーとは、フィールドでぶつかり合う関係でいたい。
 だけど——フィールドの外でも、力になれない。今更の「味方」たり得ない。恋焦がれた相手の、何の助けにもなれないという状況は、ちょっと、キツいかも。
 先ほどまで潔を浮つかせていた優越感や特別感は、嘘のように薄れていった。

「……。……問題は、あの女より……」
「! 何か、他にまだ何かあるのか……!?」

 目を伏せたカイザーが零した独り言のような呟きに、潔はがばりと身を起こす勢いで反応した。
 ——何だっていい。こいつがもう喰ったはずの過去で、分不相応にもまた忍び寄ろうとしているもの、何でも。そして今度は、俺が。

「……何でもない。今のは、忘れ……」
「カイザー!」
「……。……もう一人、いるだろ。……クソ親は」
「……ッ!」

 言い淀み、躊躇いながらも示された存在。それがすぐに、忘れもしない「身の上話」の記憶と結び付いて。潔はたちまち、全身の血が煮え滾って逆流する心地に駆られてしまった。
 足早に去った母が薄幸の元凶であるならば、残された父は、カイザーを陥れた凶悪な実行犯とも言うべき男だった。男に「クソ物」として扱われる日々が、カイザーとサッカーボールの出逢いを導き、カイザーの強さの源となった——カイザー自身が、潔にそう話した——のは認めてもいい。
 ——だが、それだけだ。許す理由にはならない。あるべき戦場の外でこいつを傷付ける者は、誰であろうと許さない。殺す、必ず潰す。

「あいつは恨みがましく、未練がましい。あの女の動向を欠かさず追っているかもしれない。……そこに、今回の騒ぎだ。世間の目は誤魔化せても、あいつはどうだかな? ……『クソ物』の成功を知って、金をせびりに来るかもしれない。成功への嫉妬に狂い、蹴り殴り首を絞めて、『クソ物』に戻そうとしてくるかもしれない。あるいは……今なお愛する女のドッペルゲンガーのごとく成長した、この俺を……」
「……カイザー」
「あいつの執念は凄まじい。逃げ場も安全もありはしない。……だから世一、早く俺から、離れ——」
「させるかよ」

 絶望の想像を、剣のような声で断ち切った。カイザーが言葉を紡ぎ上げるよりも早く、その手を握って否定した。
 出逢ったときのように、固く、固く、指を絡めて。

「指一本触れさせない。お前の眼にも入れないし、脳の片隅さえも割かせない」
「……よ、いち」
「お前に傷を付けるのは、フットボーラーの潔世一ただひとり。他は全部当て馬以下だ。その身の程を弁えない馬鹿が出しゃばったところで……俺がお前の傍にいる以上、手出しなんかできやしない、させるものか。未練だとか執念だとか笑わせんな。……俺の方が、ずっと上だ。お前を誰よりも憎み……愛しているのは、あんなやつらなんかじゃない。この俺だってこと、忘れんな」
「……!」

 物憂げに細められていたカイザーの双眸が、潔を真っ直ぐに捉え見つめながら、見開かれていく。怒気さえ込められた真情を浴びた白い頬が赤く染まる。
 やがてその眦が緩み、口元が綻ぶ様を目にすれば、潔の心はあらゆる敵を討ち倒したような充足感で満ちていった。

「——あ」

 ——違う!
 カイザーの唇は、微笑と呼ぶには深すぎる弧を作っていく。意地の悪い三日月の形が、潔の失敗を悦んでいる。気付いて「あ」と言ったところで、もう月が沈む時間ではなく。

「……ふっ、ふふ……! ……はっはははは!! 言うじゃないか、傑作だ世一! 今のI LOVE YOUは本当に良かった!!」
「テメェ、やっぱり……!」
「言っただろ、あの女の動向は注視されてるって! 俺が生まれて早々に、縁の切れた母親で『さえ』! なのに、ふふっ、クソ親父が連中に警戒されてないわけないだろうが! あいつが一番、望んだって俺に近付けない人間だよ! ちょっと考えれば分かるだろ!? 騎士の役に溺れたな、クッソピエロォ!」
「こんっの……クソ皇帝! マジで……ッ、くたばれ!!」
「あっはははは!!」

 普段の潔なら、罵倒の言葉は瞬時にいくらでも用意できた。しかし今回は先に撃墜されてしまったダメージが大きすぎて、捨て台詞程度のものしか吐けなかった。
 せめて思いの丈を込め、繋いだ手をこれでもかという勢いで解いてみる。笑い転げているカイザーの指は、潔の手からいとも簡単に抜け落ちた。

「……あー……っ、クソ……ッ!」

 実際には、この縁を今やったように解くなんてできやしない。受動的な〝挑戦〟というものはつくづくロクなものではないと思い知ったが、未練や執念まで語った言葉は、即興の口説き文句ではなく、潔が抱え続ける本心に他ならなかった。
 一度手を離したことで、ますますそれを自覚して。そしてカイザーが抱腹絶倒の最中にいるせいで、潔は悔しさを募らせるしかない。がくりと項垂れ、握った拳でソファを殴ってみたところで痛くはないし、そもそも力だって込めていない。
 ——ああそうだよ、憎たらしいほど愛してるんだよ、悪いか。

「怒るなよ、お前のために書いてやった即興劇だぞ? ふふ、道化の分際で、騎士の役を欲しがっていたようだから、叶えてやったまでだ……! あははは、こんなに上手く演ってくれるなら、もう少し長い脚本にしてやるべきだったなぁ!」
「……お前、ほんと最悪……」

 フィールドの外ではあったが、ミヒャエル・カイザーというフットボーラーの強さを、潔は身を持って思い出した。圧倒的な蹴撃をもって戦場を破壊する力の持ち主にして、神がかった怜悧な観察眼と人心掌握術を振るい、戦場を統べる支配者。——潔が憧れる、強者。
 敵目線では、俺もこんなふうに見えるのかな——見られていたらいいな——と思う一方で、こういうところでは縮めたいとは思わない差を感じる。フィールドを降りればごく温厚な潔に対し、カイザーは常に悪辣だった。今が正にそうだ。

「ふ、ふふ、ところで、世一? 舞台や映画がメディアに保存されることがクソ当たり前の時代だが。お前の好演が一瞬限りで終わるというのは、クソ無念で不公平だと思わないか?」
「は? 何……? ……おい、まさか」

 潔と繋いでいた方とは反対の手で、カイザーはスマホを握りしめていた。その白い指が徐に動き、撫でつけるように画面に触れる度、潔の肌を冷や汗が伝っていく。
 ——そして。

『指一本触れさせない。お前の眼にも入れないし、脳の片隅さえも——』

「あ゛あ゛あ゛~~~~~~~~ッ!! 録ってんじゃねえよクソが~~~~ッ!!」

 絶叫が部屋中に響き渡る。ライバルに出し抜かれてゴールを許し、あるいは阻まれてしまったときのような。
 それが功を奏し、潔は録音の全てを耳にせずには済んだ。しかし録られたこと、そしてその事実を知ったことだけで、もう勝敗は決まっている。これまで身体を支えていた両腕の力も失って、潔はソファに倒れ込んだ。

「あぁ……! 最っ高だ世一……! クソ保存する、万が一に備えてクソ複製する……!」

 一方、カイザーは至近距離で発せられた潔の叫びを物ともせず、繰り返される熱誠の声に聴き入っていた。美貌を彩る紅潮した頬と、甘く蕩けた目が織り成す、恍惚の表情の色気たるや。こんな状況じゃなければキスの一つでもしてたかもな、と潔の虚ろな思考はぼんやりと思い描いた。

「着信音にする。世一は誰の前で鳴らしてほしい? ネスの反応は面白そうだが、クソ予想できてしまうのが難点かもしれないな。そうだ、ノアなんてどうだ? ノーリアクションだったらそれはそれで笑えるな」
「お前……人の心何だと思ってんの……? 俺のだけで満足しとけよ……そんで消せ……」
「! ああ、俺としたことが……! ゴメンな世一ぃ、せっかくのお前のI LOVE YOUを、他のやつらに聴かせてやる義理はないな。ただ、あまりに素敵なshatzを自慢してやりたくなってしまって……」
「あっそ……いいから消せ……」

 消耗しきった潔に、カイザーとの舌戦に臨む余力はなかった。今の彼にできることといえば、倒れ伏した敗者として、勝利に酔いしれるカイザーの横顔を見上げることのみ。飽きもせずリピート再生される録音は、最早耳に入ってこない。歯軋りの仕方も、悔しいという気持ちも、少しずつ忘れてしまう。
 ——その、せいで。

(あー……。……やっぱこいつ、クッソかわいい……)

 負けて消沈しすぎて、イカれたのだということにした。もしくは、完敗したから、そう思い込んでしまうのだと。
 だって、自分の声に、ただひとりに向けた真情に、その「ひとり」がご満悦顔で浸っているのだ。今はもう、それでいいかと思えてしまった。悍ましいインタビューを受けさせられ、重い足取りで帰路について、長い時間シャワーを浴びていたカイザーよりは、こっちの方がずっといい。人の心がどうとか言ってしまったことも、少し後悔した。勝利へと至ったやり口は悪質極まりないが、音符すら見えそうなほどご機嫌なカイザーは、無邪気で心豊かな子供のようにも見えてしまった。

(……待てよ、心……!?)

 ほとんど崩された思考のパズルに、潔は自らの手でトドメを刺す。降伏を決定するためではなく、起死回生の一手を創り出すために。
 潔はこれまで、数多くの人間と出逢ってきた。その中において、断トツで性格が悪いのはカイザーだ。——が、決して心無い人間ではない。寧ろその逆。心あるがゆえの非道。捻じ曲がって、直って、けれどやはり捻じ曲がっていて——を繰り返しているだけで、潔同様、夢に飢えた人間だ。——ついでに、恐らく愛にも飢えている。

(こいつが、俺と同じなら……!)

 包み隠さず打ち明けて、録られてしまった潔の本音。だが、カイザーが今なお浸り続けている陶酔も、あの言葉を告げられた瞬間の反応も、彼の演技抜きの本心だと確信した。
 ——だったら、その〝本心〟のために打った演技の、目的も!

「ん~? どうした世一? お前も聴く気になったか?」

 ゆらりと身体を起こした潔を、カイザーはニマニマと笑いながら揶揄った。しかし、もう潔は動じない。
 ——見てろよカイザー、お前の顔を今の比じゃないくらい真っ赤にして、その笑いを吠え声に変えてやる。

「ほんっとに……かわいいよな、お前」
「あ?」
「弱気になったフリしてまで、俺を罠にかけて。録音って手段まで持ち出して、顔蕩けさせて。……そんなに、俺からのI LOVE YOUが欲しいのかよ?」


 ——決まった!
 カイザーは目を丸くして、表情は消して、思わずといった様子で録音を止めた。そんな彼を目の当たりにして、潔は内心でとびきりのガッツポーズを決める。気分はさながら、敵陣に逆転弾を叩き込んで、主役の座を奪い取ってやったときのよう。
 さて、道化と侮った男からの手痛い反撃を食らってしまった元主役の皇帝様は、どんな遠吠えを聴かせてくれるのか。弄んでいたつもりの相手を、実はひたすらに求めていたんだろうと指摘されて、恥をかかないわけがない——!

「——なんだ世一。そんな……クッソ当たり前のことに、ようやく気付いたのか?」
「……は、ぇ……!?」

 羞恥と焦燥に歪むとばかり思っていた貌には、あまりにも美しく柔らかい微笑が浮かんでいた。
 完成したばかりの強固なパズルがバラバラと崩れていく音が、潔の耳の奥で鳴り響く。

「俺は知っての通りの強欲者にして、見かけによらずの心配性なんだ。目に見えて残るモノと、証明された合理的科学に基づく事実と……悪意以外の全て、易々と信じることはない。だからお前のI LOVE YOUも、いくつあったところでクソ足りん。悪意付きであることを差し引いても、な。……まぁ、断じてお前のせいではなく、俺の性質だ。……こう見えて、常にクソ不安なのは」
「…………っ」

 笑みを称えたまま述べる声色や、婉曲的で回りくどい言い回しこそ、傲岸不遜なカイザーのそれだ。だが、紡がれた言葉そのものは、聴く者の胸を締め上げるようなものだった。
 ——潔は、言葉の方を信じることにした。強気な口調も、まるでその性質を諦めきっていることの表れに思えてならなかった。

「フィールドの上でなら、俺たちの立場は目まぐるしく入れ替わるかもしれない。だが、ここでは常に、お前の方が試される側だ。……俺は、お前を試すことをやめられない。新手のではないI LOVE YOUなら、なおのこと」
「それを乗り越えられないようじゃ、お前の相手は務まらない……んだろ」

 PIFAとの繋がりを語ったカイザーの言葉を忘れて、罠にかかってしまったことが癪だったので。今度は潔自ら、先ほどカイザーが口にしたような言い回しを真似た。カイザーの言葉を聴いている、と証明するつもりで発したそれに、カイザーもぴくりと反応した。

「……いーぜ、カイザー。今回は俺の負け」両手を挙げて、潔も微笑む。今のカイザーと、同じような笑顔になりたかった。「だからってワケじゃねーけど……。お前に適応してやるって、もうとっくに決めてんだよ」

 日本語を覚え、〝新手〟のではない愛を欲するようになったほど、潔に適応しつつあるカイザーのように。

「だから思う存分不安になっとけ。フィールドの上でなら現実にしてやるけど、ここでなら、何度だって潰してやる」
「ほう? お生憎だが、何度も愛を囁いてくれるモノならここにあるぞ」カイザーは件のスマホを親指と人差し指でつまみ、潔の眼前で振ってみせた。「俺がお前への嫌がらせのためだけに、わざわざ録ったとでも?」
「……!」

 ——そんなモノに頼るほど、俺を欲しがってるんじゃねえか。いや、そっちの方が「目に見えて残るモノ」だから、信じられるってか?
 どっちに、しろ。

「はっ、重症だな、お前……!」

 ゾクゾクとした痺れが背筋に迸る。心臓が鼓動を荒げていく。恋人と、しても——なんて喰い甲斐のあるヤツなんだろうと、本能が高鳴り叫んでいる。愛に飢えた子供のような彼に、それを教えてやりたくて、たまらなくなる。
 強く気高い彼のことを、守ってやるのも、助けてやるのも、きっと気持ちが良いいいだろう。しかし一番の目的とは言い難い。この恋の相手は、言わば敵国の皇帝なのだから。そんな宿敵が憎くて憎くて、いっそ愛らしいくらいに憎くて——本当に、ずっとずっと愛してしまいたくなった。ただ、それだけのエゴ。
 茨の道を突き進み、この関係を結んだ理由を、潔はやっと——もっとも、この関係は最近できたものではあるのだが——思い出せた気がした。

「んでもって、今のはクッソ下手な嘘だな。強欲者であるお前が、バカの一つ覚えの台詞しか言えない機械で満足するわけねえだろ」カイザーの手ごと、スマホを掴む。画面が潔の手のひらに覆われて見えなくなる。「そんなんで満足されたら、俺がつまんねえよ」
「つまんない、だと……!?」潔に合わせ、カイザーは笑みの質を変えた。挑発の色を宿す、彼らに最も相応しいものへと。「試される側の分際でクソ生意気。それとも、世一は試されるのがお好きで?」
「そうじゃなかったら、とっくの昔にお前の軍門に下っていただろうぜ。……いや、それ以前に。世界一のストライカーを目指してるんだから、挑戦好きなのは当たり前だろ?」
「……フフ……! ははは、その通りだ……! ……騎士の役なんぞ、お前には不要だったかもしれないな。……認めよう。今日は、俺も負けだ」

 事もなげに、カイザーは二本の指をスマホから離した。支えを失ったモノは、潔とカイザーの手の間をすり抜け、柔らかなソファへと墜落する。
 それを視線で追うこともせずに、カイザーは潔と手を繋ぎ直した。ついさっきまでとは異なり、障害物は挟まれていない。そして今は騙すつもりもないから、解かれないでほしいと密かに願っていた。

「お前も負けかよ、変な勝負だな」
「惚れた方が負け、だろう? 負けという響きは気に食わんが、クソ親父一人が大敗を喫していた関係に比べれば、クソ健全で良いと思うぞ」
「ああ。最悪の例の二の舞になる気も、させる気も毛頭ない」
「クソ当然。あれくらい超えろ」

 カイザーが知っていたのは、悪意と絶望に満ちた愛だけ。不自由な愛だったが、それが全てだった。
 しかし、潔に与えられた似て非なる不自由に、あろうことか惹かれてしまった。彼が示した新しい世界へと赴いて、自己を更新することに、挑みたいと思ってしまった。勝手が違うフィールドの外では、容易ではなかったが——それでも。
 だから、試す。未知の世界を——潔が己の、もう一筋の希望たり得るのかを。——いいや、「試す」というより、期待しているのだと、最早自覚していた。

「今後もせいぜい、俺に試されるといい。そして、俺もお前に試されてやろう。このままお前に靡ききるかどうか、な。くれぐれも、今がゴールと思うなよ」
「ああ、望むところだ。てか、言われなくてもそのつもり。お前へのI LOVE YOUは、尽きそうにないからな」

 手を固く握り合ったままで、恋人たちは合図なく口付け合った。互いに噛み付くようなそれに、与えたい、知りたい愛への渇望を込めて。

 

〝「ハリウッドの女帝」×××・××××と「ドイツの皇帝」ミヒャエル・カイザー、激————〟

 惨いだけの古びた愛を映し出したタブレットの画面は、いつの間にか暗くなって消えている。潔も、カイザーも、それを気にも留めていなかった。

 

「ああそうだ。負けは負けだが、コレはコレだ。クソ消さない。目覚ましのアラーム音にする」
「それ、隣で寝てる俺への試しだったりする?」