Novel/BLL-潔カイ

患者と演者(全5ページ/1ページ目)

以下の内容が含まれます

「街の方では風邪が流行っているそうだ。気をつけろよ」

 オフ直前の、年内最終節の試合を終えた日。普段はゴールと勝利以外のための言葉しか口にしない合理主義者のノアが、珍しく俺を労い気遣った。
 神も気まぐれを起こすらしい。気まぐれの言葉に、きっと深い意味なんてない。相も変わらず、ノアにとって俺は踏み台カイザーの踏み台、もしくはその次なる踏み台候補の一つ程度だろう。俺だってもう過度の神格化なんてせず、喰らうべき〝天才〟の一人としか見なさない、ようにしている。——でも。でも。

「……はい! ありがとうございます、ノア!」

 勝利を収めた戦場の外に出て、気が緩んでいたせいか。私情を律することを解いていた俺は、その想定外を呆気なく喜んでしまった。テレビ越しの神の雄姿にはしゃいでいた、幼い頃の俺に自慢してやりたいとさえ思った。
 休暇に甘えて体調を崩す気なんて最初から一切なかったわけだけど——これはますます風邪なんて引いてられないなと、自分自身に固く誓った。

 

 

「う゛、ゴホッ、ゲホ……ッ! ……す、すみません……ノア……」
「……世一ぃ。他に謝る相手がいると思わないか?」
「あ゛、ああ……。本当に、悪かったと思ってるよ……カイザー……」

 何が自慢だ。何が誓いだ。何だ、このザマは。幼い頃の俺もすっかり呆れ果てているだろう。体温計片手に俺を見下ろす皇帝と、同じ表情をして。
 目覚めた瞬間から意識の片隅にあった嫌な違和感は、瞬く間に強烈な現実となってしまった。頭と喉を苛む激痛、全身を覆う倦怠感、苦しい熱さの内側にある悪寒。それらに縛られた身体は、ベッドに横たわったまま動けなくなった。
 身体だけじゃなく、精神まで重くなった。オフで良かったとか、独り暮らしじゃなくて良かったとか、そういうポジティブなことを考える気は起きず、何だか万物に対して申し訳なくなってしまう。ノアへの謝罪を口にしたのもそのせいで、皇帝に返した言葉だって紛れもない本心だ。
 風邪が流行っているらしい街の賑わいは、今はもう想像することしかできなかった。

「クソ違うだろ、クソ病人め」
「……い゛……?」

 額に軽い衝撃を加えられる。デコピンを喰らった、のかもしれない。
 確証を持てないのは、俺が眼をまともに開けているのもしんどいからであり、触れられたかどうかさえも分からないほど感覚が鈍っているからだ。喰らっていたと仮定して、さらにカイザーが手加減をしていなかったとしたら、俺の感覚はいよいよもう終わりかもしれない。皇帝はそれくらい強い。まあ、いくら何でも伏せっている恋人に手加減しないようなことはないだろう。いくらカイザーでも。

「ご両親に、連絡はしたのか?」
「……あ゛ー……。……して、ない……」

 カイザーの手加減に少し浮つこうとしていた心は、そのカイザーに突き付けられた現実に圧されてしまった。
 その現実こそ、今一番直視したくないモノだった。

「明日、までに……。治るかも、しれね、じゃん……っ」

 ミュンヘン発羽田行のチケットを、明日の日付で予約していた。クリスマスから年末年始にかけての休暇期間を実家で過ごすためだ。今年もごちそう用意して待ってるからと、電話の向こうの両親が声を弾ませていた。
 しかしこんな体調では飛行機に乗せてもらえない。そして旅客が爆増する今の時期、急ぎの予約が取れるかどうか——格安のエコノミークラスなら何とかなるかもしれないが、今回はそうしたくない事情もあった——はかなり怪しい。つまり、帰省を敢行するなら俺は今日一日で快復を遂げなきゃならない。
 逆に言えば、今日一日で治るなら、何を憂うこともなく空港に行けるというわけだ。諦めたくは、ないのに。

「クソ諦めろとは言ってない」俺の思考を読んだかのように、カイザーの言葉が重なった。「ただ、お前の状態を今のうちに伝えておけと言っている。明日のお前がどう転んでもいいようにな。それに、流行りのカゼを患ったクソ病み上がりを迎え入れるかどうか決める権利だって、向こうにあるべきだろ」
「……ごもっとも」

 「皇帝」と称えられる通りの唯我独尊な振る舞い——例えばミーティングくらいなら眠気を優先し平然と遅刻してくる——からはなかなか想像しにくい一面だけど、カイザーはその実律儀で生真面目なところがあって、時々ものすごく模範的なことを言う。今だって俺の両親を気遣ってくれた。その気遣いを理論として、俺がまだ諦めなくていいことを示してくれた。
 見知らぬ異国に渡った俺が調子を落とさずプレーできているのは、正しい常識と的確な配慮をくれるカイザーが、フィールドの外でも傍にいてくれたおかげだ。依然としてムカツク相手でもあるけれど、カイザーと一緒になれて本当に良かったと心の底から思っているし、胸を張ってそう言える。
 ——だからこそ、現状が情けなくて、悔しくて、仕方がなかった。
 諦めなくていいとカイザーは言ってくれたけど、両親にうつす可能性を危惧すれば、諦めるしかなかった。全ては、浮かれた末にどんな状態に陥った俺のせいだ。

「……ごめんな、カイザー……。行けない方に、転んだら……。……最っ悪、だろ、俺……」
「……」

 いつも一枚だった日本行のチケットが、今回は二枚。——俺と、カイザーのふたり分。
 今までは、俺が日本に帰るとき、カイザーは決まって同行を断り留守番役に徹していた。——無理もない、と思う。以前告げられた凄惨な身の上話は、俺の知る世界から大きく逸脱したものだった。そしてその世界はカイザーにとって、却って恐ろしい場所となってしまうという可能性を、察することもできた。あるいは、俺と、俺の両親——潔家への引け目みたいなものを感じていたのかもしれない。

『世一は、自分の親を捨てるつもりでいるのか?』
『お遊びなり、経験値前提なら問題はないがな。……本気で俺を選ぶというなら、いずれそういうことになる。生真面目な日本人の交際とか婚姻とかの感覚は、クソ重そうだっていうのに…………俺はお前にも、お前の家にも、何もしてやれない』

 なんて言われたこともあった。
 構わなかった。家と家との結びつきみたいなことは最初から一切考えてない。カイザーが抱える恐怖と悲嘆は乗り越えなきゃいけないものとは思わなかったし、カイザーが望まないなら、俺の両親に逢わなくたっていい。俺がただ、カイザーと一緒にいたいだけだから。
 この関係において、絶対に叶わなきゃいけないのはそれだけだ。恋人を両親に紹介したい気持ちがないワケじゃないけど——コイツを手に入れるためなら、ありふれた幸せなんて躊躇わずに捨ててやる。お遊びでも経験目的でもないってことを、そうやっていくらでも証明してやる。わざわざ厳重な警告をくれた皇帝に、負けず劣らず見合うくらいの重さは持っているつもりだった。

『なあ、世一。……ご両親さえ許してくれるなら。一度、お前と共に日本に行ってやってもいい』

 だから、その言葉は望外のものでしかなくて。言われたときの感動は、想像できないくらいのもので。
 カイザーの心変わりそのものとか、密かな憧れが叶うことに喜んだっていうのもあるけど。何より——俺の気持ちが、カイザーに通じたようで。自ら「クソ物」を名乗ったカイザーの傍にいれるなら、「ニンゲン」としての幸せなんて投げ打ってもいいと決めた俺に、カイザーの方から応え歩み寄ってくれたみたいで。俺がカイザーを選んだように、カイザーも、俺を選ぶという意思を示してくれた気がして。
 ——なのに。

「げほっ。……お前が、せっかく……」
「…………」

 俺が、こんなことになってしまって。そのせいで、水の泡、なんて。
 心変わりを俺に告げるまで、さぞひとりで思い悩み葛藤したに違いない。そうしてまで固めてくれた覚悟を、他でもない俺が、無下にして、踏み躙ってしまった——。

「……これはクソ珍しい。世一が自分の失態を引き摺るくらい落ち込むとは。全くもってらしくないぞ、クソ重症と視て間違いないな」
「——」失意から閉じかけていた眼を、思わず見開く。「お前こそ、珍しいじゃん……。ごほ、慰めてくれんの……?」
「クソよわの世一をいたぶる趣味はもうないからな。俺が潰してやりたい世一に、早く戻してやらなければ。……そーだな、日本から持ってきた薬とかないのか?」
「……。え……っと……。リビングの……奥の方の……棚……?」


 ドイツに住むようになってから、体調を崩したのは初めてだ。全く世話になっていない常備薬の置き場なんて、もう忘れつつあった。最早、目当ての薬があるかどうかさえ定かじゃない。

「……薬飲むなら、何か食っといた方がいーよな……。ゼリーとか、あるかな……」
「ゼリーだな、クソ了解。クソ安静にして待ってろよ」
「……! カイザー……!」長い青髪をくるりと翻して去り行く背を、重たい手を持ち上げて呼び止める。「……看病、してくれんの……!?」
「……おいおい、俺がそこまで薄情に視えるのか?」

 寝室のドアが開かれる直前。俺の方は向かないままで、カイザーは遠回しのYESを返し、王冠の手をひらひらと振った。
 ドアはすぐに閉められ、寝室にひとり残される。茹だった意識で遠ざかる足音を拾い、一連の会話に思いを馳せた。

「……マジか……!」

 看病、してくれるのか。
 状態は何も変わっていないのに、「らしい」と言われた方の俺が蘇りの兆しを見せている。.カイザーが看病してくれる嬉しさとか、カイザーが看病してくれるなら元気になれるかもしれないとか思い始めて浮つきそうになる。
 ——浮つきに振り切れずにいられるのは、喜びと同時に、引っ掛かりも感じてしまったから。

「こんなに、優しかったか……?」

 好かれてなくはないとは思うけど、それとはまた別の話。カイザーが取る行動としては——何か、変な気がした。俺が、らしくなく弱った姿を見せたから? それに返される言動も、らしくないモノになってしまうってことか?

(……アイツ、大丈夫か……? ……ッ!)

 思ったそばから激しく咳き込むような俺が到底言っていい台詞ではないし、そもそも俺が大丈夫じゃなかったから、こんな事態になっている。けれど——いや、だからこそ、か。
 ——俺とカイザーは、対照的でもあるし、よく似てもいる。俺が心身共に伏せってしまったなら、カイザーは——。