Novel/BLL-潔カイ

患者と演者(全5ページ/2ページ目)

「……クソない」

 説明通りの場所に置かれていた薬箱。しかし中からは酔い止めやら胃薬やらが見つかるばかりで、発熱に効きそうなモノは見当たらなかった。残念ながら、日本語の表示を俺が読めていないだけ、なんかじゃない。——同行の申し出をすると決める前から、想う相手の母国語くらい、自分で学んでいたからな。
 箱の中身を漁り終えてついたため息は、思った以上に深かった。あるかもしれなかった解熱剤だけが、この家に存在する希望だった。寝室にそれを持ち帰り飲ませれば、世一はたちまち快復する——なんて、クソ安直で捻りのないハッピーエンド、起こるワケがないのに。今の俺には、それしか。
 非現実的な一縷の望みが、結局叶わなかったのなら。あとはもう、根気の領域の話になってくるのだろうか。——付きっ切りで世話を焼くしか、なくなってしまうのか?

「……」

 寝室には、戻らない。
 スマホを取り出し、連絡先の一覧を表示させる。上から二番目——共に住んでいるということもあり、一番上は常に世一だった——に位置する名を、少しだけ躊躇してから、その迷いごと潰すように指で叩く。

『はい! おはようございます、カイザー!』
「……よおネス」相変わらず、ワンコールにも満たないうちに出る。そこまで躾けた覚えはないが。「体調を崩した。症状は発熱と咳と倦怠感。ベッドから起き上がれないくらいクソ重い。大方、流行りのカゼだろうな」
『……えっ、ええええッ!? そんな……! ね……っ、熱、熱あるんですか!? ど、どれくらい……!』
「ええと……」世一がノアに謝りながら差し出してきた体温計を思い出す。「39.3……だったな」
『~~~~ッ!!』

 この世の終わりみたいな絶叫を返されるのはクソ想定内だったが、それでも思わずスマホを耳から離してしまうほどの声量だった。
 ネスのそれは、勘違いありきの反応だが——その誤解を、まだ解きはしない。

『ああ、カイザー……! さぞお辛いでしょう……!? ……あの! ……僕に、できることなら……!』
「よく言った」

 薬を探したときとは違う。今度は思い描いた台本通りだ。期待した台詞を聴かせてくれたスマホを、自ずと耳に当てていた。

「うちに来てクソ看病しろ。……お前だけが、クソ頼りだ」褒美代わりに、ダメ押しの甘い言葉でくすぐってやる。
「……!! はい、もちろん!! 急ぎ支度して向かいます! ご所望の品があれば、何なりと!」
「所望の……。……そうだ、ゼリーだ。ゼリー持ってこい」

 ゼリーくらい冷蔵庫にあったかもしれない。しかし世一に言われたことが頭を過ったから、反射的にそのリクエストを横流しした。
 あー、味の希望は聞いてねえや。聞いとけばよかった。

「……種類は多い方がいいな。嫌いなのも特にないから」
『! そーだねカイザー、食欲ないかもしれませんが、何か胃に入れておいた方がよろしいかと! いくつか持っていきますね!」
「ああ、よろしくな。……他には、特に思いつかん」もっと世一に聞いておくべきだった。「じゃあな。……早く来いよ」
『はい、ただちに!! カイザー、今はどうかお休——』

 通話終了の操作と言葉とが前後したようで、ネスが言い終わらないうちに電話が切られた。何とも慌ただしい。
 しかしクソあわテンパっていたとしてもネスは器用で、世話焼きで、日常に起こり得るこういうトラブルには強いハズだ。必ずや必要な物資と知識をもって、俺の危機——と思い込ませている——に馳せ参じてくれるだろう。

「……はあ」

 二度目のため息は、落胆ばかりのものじゃない。有能な看病役を確保できたのだから、事態は間違いなく前進している。そのことに、安堵している。

「——クソが」

 その程度で、この落胆が萎み消えるかよ。
 今この状況において、最も無意味な存在は果たして一体どれなのか。価値が危ぶまれつつあるチケットなんかより、ずっと無力な存在。——看病役を手配できたところで、その事実は覆ってなんかいない。

 

 

「カイザー!! すみません、出迎えなんてさせてしまって! 起き上がれないと仰っていたのに! さあ、早く寝室に行って横に……って……。……あ、あの、カイ、ザー……?」
「い、いや……! ……クソ悪ぃっ、くく……!」

 大荷物を抱え、息も絶え絶えにインターホンを鳴らした犬の姿を目の当たりにして、途端に笑みがこみ上げてきた。自分でも予想していなかったそれを堪えようと意識する間もなく。犬を訝しませる一方となってしまう。
 俺が寝込んでいるとばかり思って駆け付けた様が、想定以上にクソ滑稽だったのかもしれない。いいや、もっと単純な話か? 今この状況において全く無関係である誰かのカオを視たせいで、張り詰めていた気がひとりでに緩んでしまった、とかか?
 ——苦しげな世一の寝顔でも、焦燥を滲ませた自分の顔とも違うから。

「……カイザー。……騙しました?」
「ネスぅ、クソ酷い言い草だな。騙してないし、嘘だってついていない。俺はただ病状を述べて、それからゼリーが欲しいと言っただけだ」
「えあ……? ……あ~~ッ! カイザー!! 電話のとき、一っ言も!! 『誰が』とは言ってませんね……!?」真実に辿り着いた犬は遂に崩れ落ちた。「じゃあゼリーを欲しがったのも……! カゼ引いて、寝込んでるのも……! 『看病しろ』っていう、相手も……!」
「ああ。……この家に住まわせているもうひとり、分かるだろう?」
「ク……ッ、……クソ世一~~~~ッ!」

 世一との関係及び同棲を伝えたとき——ネスにはちゃんと言っておかないと、後々クソ面倒になるかもしれないと思った——さながらの、全霊の恨みを込めた叫び。見知った反応を再現されたおかげで、また笑ってしまった。

「……っ」

 笑ってしまう理由に気付いた今では、笑う気はすぐに失せてしまう。その行為は、俺が結局逃げているだけということの表れだ。直視し難い、クソ不甲斐のないクソ事実。

「……まあまあ落ち着けよ、とりあえず入れ。玄関先の立ち話じゃクソ寒いだろ」
「~~! カイザー、言っておきますけど! 僕は、キミが倒れていると思ったから来たのであって、世一の看病とか絶対に、ぜーったいにゴメンですからね!」

 そう言っていられるのも今のうちだ。せっかくの看病役をみすみす逃がすワケないだろ。口を尖らせながらもここで俺の招きに応じた時点でそっちの負けだ。以前より多少は賢くなったかもしれないが、忠犬を言いくるめるなど造作もない。
 そんなことにばかり自信がある。つくづく、俺らしい邪曲と無力だ。

 

 

「改めて考えてみると……。意外、ですね」リビングのソファに座らせれば、ネスはようやく息を落ち着けた。「世一がカゼ引いて寝込むなんて。ほら、初めての海外経験って言ってる割に、ずっとピンピンしてたじゃないですか」
「クソ同感だ。まさか、流行りカゼにあっさりやられてしまうとは」

 純粋な実力をクラブに買われたことで国を越えたフットボーラーが、その実力外の落とし穴に嵌るというのはよくある話だ。その穴の最たる例が、言語や生活習慣、文化の違いなど既存環境とのギャップ。自分と自分を取り巻く世界の意思疎通一つままならない齟齬はストレスとなって蓄積されていくし、コンディションを崩してフィールドで実力を発揮できない、なんて事態にも繋がりかねない。
 俺は生まれ育ったベルリンから、ミュンヘンへと連れてこられた、つまり国境を越えてはいないワケだが——善意をかざすニンゲン共の集まりに放り込まれ、クソ苦労した経験はある。未知の環境を御するまでにのしかかる「不自由」の重みは理解しているつもりだ。
 俺はその「不自由」をとっくに乗り越えていたが、果たして世一はどうだろうと考えた。聞けば学校に通っていたというのに学力に乏しく、食事の好みは生粋の日本人のそれらしいじゃないか。これは遅かれ早かれ倒れてもおかしくない。そう思いつつ、偶に通訳の真似をしてやったり、温かい夕食やら要望された日本食やらを作ってやったりと世話を焼くフリをして観察していた——ハズだったが、いつの間にか世一はこの国の空気に馴染んでいた。ドイツ語は大分マシになったし、日本食をねだる頻度も落ち着いてきた。カラクリはよく分からないが、さすがの適応能力だと思うことにした。
 密かに、喜びもした。世一はこの程度の壁なんかに潰されなかった。そうでなくては。もう過度の固執をしているつもりはないが、それでもやはり、この手で正当に潰してやりたい相手なんだ。世一は、俺が——。

「……どうせブッ倒れるなら、もっと早いと思ってたのにな」

 なんで、今なんだ。俺が世一の親に逢うことを決意していた、今。
 するつもりのない決意だった。寧ろ、決してしないだろうとばかり。いくら世一が勝利のためのマシーンモノを自称したところで、生まれた世界や親の存在まで書き換わってしまうワケじゃない。だからその世界に一度足を踏み入れようものなら、変えようのない差を突き付けられる。——望まれて生まれた世一には相応しくない存在だと、自覚させられる。

『……話してくれてありがとう。お前の身の上は……よく、分かった。……けど、それで俺が怯むと思ったなら、見縊りもいいところだ』
『お前の人間性が終わってることなんてとっくに知ってる。それでも惚れてんだよこっちは』
『『ニンゲン』じゃないと言い張るなら、俺も『ニンゲン』としての幸せなんて捨ててもいい。俺は、俺のフットボールと……その理想を叶える、お前さえいればいい』

 しかしその世一は、悪意に塗れた俺に潰され消え失せることはなかった。俺の醜悪な本性から逃げなかった。
 だから、俺も逃げたくなくなった。差があってもいい、相応しくなくてもいい。下らない防衛本能をかなぐり捨て、自分からその事実を直視して、この心に思い切り傷をつけてやっても構うものか。そして傷だらけになりながら、「それでも惚れてる」と言ってみたくなった。世一が、俺に迷いなく告げたように。
 世一に、適応してみたくなった。

(……なのに)

 恐ろしい善意を含む、未知の領域への挑戦を前にした俺が弱るならまだ分かる。——ずっと健康そのものだった世一の方が、倒れた。
 世一は、俺がやっと見つけた愛のありか。それが視えない何かによって奪われた、俺には過ぎたモノが取り上げられた、なんて錯覚するには十分なタイミングだった。

(……クソゴッド)天上のソレを、久々に呪わしく思った。

「ええ! よりによって今日この日に倒れるなんて! カイザーへの迷惑行為極まりないのに、イエローカード一枚出すまでもなく退場してる倒れてるとか意味分かんねえです! だって、明日はカイザーの……!」
「……はは」的外れな罵倒で、力が抜けた。「そこはクソ心配するな。その日を祝うことは、世一にも許してねえよ。そもそも教えてない」
「そ……うですよね! カイザー、以前からお嫌いでしたよね……」

 声を萎めながら俯くネスは、叱られて項垂れる犬そのものだった。とはいえ叱ったつもりはない。その日を思い出す不快よりもおかしさが先行していたし、生憎、犬を躾けている余裕があったわけでもなかった。

「……アレ? ……迷惑、行為……?」

 と考えていた矢先に、ネスが顔を上げた。悲しげな犬のカオではもうなかった。

「あの、カイザー。つかぬことをお聞きしますが……。……看病のやり方、とか。……もしかして、知らない?」
「あ?」

 いきなり何を言い出したかと思えば。明日という日の意味も消している上、世一の世話は他人ネスに全振りしているとなれば、俺に迷惑はかかっていないんじゃないかと言いたいのか。日本に向かう予定だって、ネスは知らないハズだ。
 やっぱり、コイツもう忠犬じゃねえな。飼われた犬はこんなに賢くない。

「……うーん、そうだな。知らない、というよりも……やる気がない、と言った方がクソ妥当だな」
「はは、キミらしいです」

 恭しく頷かれた。皇帝には尽くす役ではなく、尽くされる役こそが相応しいとでも言いたげに。忠犬ではなくなったものの、忠臣のつもりはあるらしい。

「考えてもみろよ。やり方を知る知らない以前に、俺が片時も離れず世一の傍にいて、クソ甲斐甲斐しく世話を焼こうとしたとする。流行りのカゼをどこかから貰ってきた世一のな。……俺が、クソ危険だと思わないか?」
「……!! た、確かに!!」理解するや否や、がばりと身を乗り出した。「カイザーにうつされでもしたらクソ一大事です! そ……っ、そんなの、レッドカード何枚分ですか……!!」
「レッドは一枚で済むだろ……。とにかく、分かってくれたならいい。お前を呼んだのは、そのためだ」お前なら、そう言うと思っていたから。
「ええ、お任せくださいカイザー! 僕は変わらず、キミの盾ですから! 世一のためじゃなく、キミを守るためになるのなら、世一の面倒くらい喜んで見てやりますよ!」
「その言葉をクソ待ち侘びたぞ」口の端が歪んだ形につり上がるのを堪えながら称えた。「……じゃあ、よろしくなネス。共倒れにはなるなよ」
「もちろん! カイザーのご期待には応えますし、キミに迷惑をかけるようなことは決してしません! ……あ、でも」
「……何だ」

 勢いよく立ち上がり踏み出そうとしたネスが、途端に困り顔を浮かべてこちらを振り向いた。この期に及んでまだ何かあるのかと身構えてしまう。難易度の低い説得を済ませたとばかり思ってクソ油断していた。

「……世一には説明したんです? 怒ったりしません?」
「……あー……。……説明は、してない……。『俺が』看病する、とも言っていないが……」嘘はついていないだけで、誤解はさせていそうだが。

 何にせよ、魂胆なんてたちまちクソバレとなってしまう、ということだ。世一がネスの存在に気付いてしまえば、その瞬間から世一の眼に映る俺はさしずめ、高熱に魘される恋人をあろうことか他人に押し付け、安全な場所でひとり寛ごうとするクズとなるだろう。世一が快復したら、クズは正式に捨てられるかもしれないな。

(まあ、いいか……)

 俺の惨憺たる性質なんて、とっくに自覚しているクソ事実だ。今日ネスを呼ぶと決める、ずっと、ずっと前から。見限られたところで、文句なんて、言えない。

「……世一は熱出して寝込んでる。意識も朦朧としてるハズだ。だから案外、お前が部屋に入ったことにさえクソ気付かないかもしれないぞ?」

 何とか思いついた希望的観測を口にする。これから俺の身に起こり得ることを告げ、ネスを怖気付かせわけにはいかない。今の世一をひとりにさせようとも、最初から思ってなかった。ただ、俺ではその役を務められないというだけのこと。

「お前が俺のフリをしても、騙し通せたりしてな」
「無茶振り! 畏れ多いにも程があります! ならせめて、電話お繋ぎしても? 看病は僕がしますから、台詞はカイザー本人が演ってくださいよ」
「クソ断る。都度の経過報告だけ寄越せ。俺はそれを受け取るだけでいい」

 休暇らしく、ひとりになりたい気分だ。滑稽な演技をしてやる気なんて起きない。もう十分、クソ惨めだ。