「ほら、これ」
ミネラルウォーターのペットボトル。キャップを軽く捻って音を鳴らしてから、ベッドに横たわるナンジャモへと差し出した。
ホテルのサービスとして用意されたそれには、よく目にするお馴染みの商品——「おいしいみず」と銘打たれた——とは異なるラベルが巻かれている。金箔すら含まれたデザインは、いかにもこのホテルらしい。オーナーの趣味だろうか。派手なのはキライじゃないぼくでも、あと一段豪華だったらサムかったと思ってしまうほどの内装。そのラインを越えずにいてくれて助かる。——恋人と滞在する場所だから、サムいと困る。
「ありがと~。……フヒヒ、グルーシャ氏、いつも優しいよねー」
ナンジャモが腕を伸ばしてボトルを受け取る。上半身を起こし、中身を口に含んでから、その表情を綻ばせた。ナイトテーブルに置かれた暖色のライトを唯一の光源とした空間でも、頬に灯る色がわかる。
「……これくらい」
当たり前の気遣いだ。ぼくのせいで彼女が喉を傷めて配信に支障をきたすとか、サムすぎる。
——さっきまでは脳に浮かぶことのなかった「サムい」という言葉が、徐々に蘇りつつある。一度シャワーの冷水を浴びてしまったせいだ。身も心も満たす熱の記憶が薄れきってしまわないうちに眠ってしまいたい。眠ったら朝になるから、それもそれで気が進まないけれど。
テーブルにボトルを乗せ、再びベッドに身を預けた彼女に倣って、布団の端を捲り潜り込む。滑らかなシーツには微かに温度が残っているけれど、満足には程遠い。だからといって——熱くなりすぎたという自覚はあったから、彼女の体温に手を伸ばすことも躊躇われて。
悶々と悩んだ末、こちらに向かって流れる髪の一房に触れることにした。元々の色と合わせたツートーンカラーにしたいと言って入れ始めたパステルブルー。昨晩、「ここのシャンプー良すぎ!」と喜んでいたことも思い出す。
「…………」
いつもの夜とは異なる香り。どこかエキゾチックで——官能的という言葉すらよぎるほどの濃厚な甘さは、子供の頃に出会った女の子とはギャップがあるように感じられる一方で、彼女が秘め続ける不遜な魅力と、案外合っていなくもないのではとも思えてくる。二つの答えの狭間に陥り惑わされ、酩酊しかける。——今はあまり、考えないでおこう。まだ、この夜にいたいと思ってしまいそうになるから。
「ニッシシ」人の気を知ってか知らずか、ナンジャモはまたイタズラっぽく笑った。「グルーシャ氏、ボクの髪好きだよねー。こっちは、キミとお揃いの色だから?」そう言って、ぼくの髪へと手を伸ばす。
「悪いけど、元々こういう色。あんたを追って染めたとかじゃ……」
「知ってるぞよー。ボクよりキミの方が、有名人になるのは早かったから。……そんなキミにあやかって、この色にした……って言ったらどうする?」
「……さすがに冗談だろ」そう思っておくしかない。深く意識してしまえば絶対寝れない。
「フヒヒ、どうかなー?」
試すような声色を楽しげに響かせて、距離を詰める。密着されてしまえば、その背に空いた方の腕を回して応えるしかなくなる。こっちは寝ようとしてたのに、ほんと、ずるい。
だとしても、触れ合いはこのくらいに留めておかなくては。サムい思いをしてまで、冷たいシャワーを浴びた意味がなくなる。
「ほら、早く寝なよ」華奢な背に添わせた手に力を込めることなく、何度かそこを叩く。「明日も配信やるんでしょ」
「えー!?」明らかに不満げな、抗議の声だった。「折角の旅行なんだからさあ、夜更かしの一つや二つくらい~! ボクは平気だぞー!」
「せめて、次の日に時間の決まった予定がないときにして。今朝、寝坊しかけた挙句に寝癖治らないって慌ててたこと、もう忘れたの?」
「う゛……っ」
彼女が自ら告知した時間に遅刻するのはまずい。プロとして云々——というよりも、遅刻の理由を邪推されてしまうから。「匂わせ」なんてやってしまった日の翌日ならなおのこと。同行してパシオに来たことだけならともかく、この部屋での過ごし方まで窺わせるつもりはない。——引き下がってくれそうな彼女だって、そう思うだろう。
「……んじゃさー、寝る前に一つだけ聴かせてよ! 今日のドンナモンジャTVについて、まだキミに尋ねてないことがあったから!」
「え、なに……?」
この寝室とは隔てられたソファの上で過ごしていたときに、けっこう話した気がする。それこそ、駄々を捏ねる子供みたいなことだって。まだ、なにか求められることがあるだろうか。——強欲なところ、好きだけど。
「ほら、動画の終盤……キミに出てもらった直前くらいにさ、『今すぐパシオにいきたい!! ってビリビリっとキタ人は~? チャンネル登録よっろしっくね~!』って言ったじゃん?」
「……そうだね」彼女に指示された場所に立って、街を見物するフリをしていたときだ。あのときは画面越しじゃなく、背後の肉声としてそれを聴いていた。
「グルーシャ氏的には、そこらへんどうだった? もちろん、キミはボクと一緒にパシオに来てくれたワケだけど……もしボクが先にパシオに行って、キミはパルデアから配信を観てくれてたとしても、今日のドンナモンジャTVを観て『パシオいきたい』って気持ちになったと思う?」
「…………」
長丁場の配信の場面一つ一つを思い起こす。——簡単に出せる答えが、一つだけ。
「……あんたが行ってた氷山地帯。……ぼくのポケモンたちも気に入りそうだから、ちょっと、興味湧いた」
嘘じゃないけど、言い訳だ。本当は、ぼく自身も惹かれている。長年治っていないクセのせいで、もっとちゃんと見たい、直に行って観察したいなとか思ってしまう。——ボード、乗れるかな、とかも。
「……ニッシッシ! さっすがー、目聡い!」
「……あんた、まさか」
そこまで意外な答えというわけでもないはずなのに、なぜか——意味ありげに、嬉しそうに笑う理由。
自惚れだと言い聞かせる自制も弱っている。だって、二回も前例を経たばかりだから。
「バレちゃー仕方ない! 準備期間中、ゲストのみんなから数多くの映えスポットを集ったんだけどねー、あのさむさむ場所を選んだのは、ひとえのキミのため! ……これでグルーシャ氏は、ボクからの『匂わせ』探しコンプリートだぞ! フヒヒ、おめでとー!」
「……っ」
口を開こうとして、やめて。言葉に詰まっているから、ただそれを繰り返す。この頬の熱のせいだ。実際にこの足で行けるまでの間、アーカイブでそのシーンをもう一度観ようと思っていたのに、どんな顔で観ればいいの。
「……ゲストの人たちのことは、本当に理解ができなかったけど」やっと発せた言葉は、苦し紛れの照れ隠しだった。「なんでみんな薄着なの」
「それー! ボクも驚いちゃった! こおりタイプつかい……ボクの身近にもいるけど、そのひとはいつも厚着だからさー?」寝衣越しに肌を突かれた。今着ているのは厚手とはいえガウンだから、普段着よりは薄いけど。「……あ! でもでも、キミがそれを気にする必要はないよー!? なんていうか、その、キミはキミで……!」
「お気遣いどーも」
確かに、寒がりのくせにこおりタイプのジムリーダーやってるやつなんて、ぼくくらいかもしれない。そこに関しては、あの人たちには負けてしまうな。——勝負の方では、負けたくないな。
「……でも、今思いつくのはそれくらい」必死に言葉を探し始めたナンジャモを助けるためにも、話題を戻した。「今日、あんたが主に宣伝したのは、この地に集ってパシオを彩り賑わせている各界の著名人。あとはさっき言ったみたいな、自然さながらの人工島の景観と、それを作り上げた技術力とか。……ぼくはあんたをみたくてドンナモンジャTVを観てるから、そういうので熱くはならない。だから、せいぜい……あんたがいるなら行くか、くらいの感想になるんじゃないかな」
「——。……褒められてないのに、ものすっごいコロし文句を言われてる気がする……危うく召されそう……」
おずおずと引っ込めた両手を組み、顔を真っ赤にしたナンジャモが俯く。サムがるところじゃないの? あんたひとりを追って、はるばる遠出するなんて真似。
挙句、今サムがられなかったから、今度はそれ以上のことを言おうとしてる。
「あんたの配信がどうであろうと、ぼくはきっと、この島に来てたよ。遅かれ、早かれ」
手を退かれてしまったのもなんだかつまらなかったから、代わりにこちらから、彼女の髪に触れている指を動かした。といっても、軽く梳いてるだけだけど。それでも、彼女は心地よさそうに目を細める。
「そなのー? なぜなぜー?」
「ジムリーダー、もう少しちゃんとやろうって思ったから。研鑽を積む機会になるかなって。今回は、あんたと……こういう関係になれて、そのあんたから誘ってもらえたから、こうして一緒に来られたけど。もしもあんたが先にここへ行っていたとしたら、ぼくも、その機会を早めていただろうね。……心配、だから」
「心配……ボクのことが? ……フヒヒ、まあ、たしかにボクはうっかりやかもしれないしー……?」
旅行と配信を堪能する彼女に水を差したくなかったから、言うかどうか迷っていた。でも、「匂わせ」を重ねるくらい浮かれているようで、心配されていることを喜ぶくらいだから、言った方がいいな。無警戒でいることのリスクの方が、ずっと重大だ。
「……今は、もう落ち着いたみたいだけど。去年まではけっこう大変だったみたい。いくつかの地方の犯罪組織が流入して、何件も事件を起こしてた。窃盗、恫喝、抗争……テロ行為に、ポケモンを暴走させての天変地異まで」
「ひ、ひえ、こわ~……! 他の地方って、そんな物騒な人たち抱えてたのー!?」
「あんたのこと、怖がらせたいわけじゃないけど……。……連中の中には、過去に地方の放送局を占拠した輩もいる。……影響力のあるところを利用して、乗っ取ったそれを行使しようと考える輩もいるってこと」
「そ……っ! それって、世界的インフルエンサーのボクもアブナイってことなのでは~~!? アワ、アワワワワ……!」
希望より、不安を先に覚える人間になってしまったから。パシオに行きたいとナンジャモが言い出したとき、見聞きしたニュースの記憶も蘇って、真っ先に彼女の安全への危惧を覚えた。ただでさえ、好き勝手に彼女を浪費する「皆の者」には辟易しているっていうのに、彼ら以上の悪が彼女に触れようとすることなんて、絶対に、許容できるわけがない。
「……だから」
可能性の想像にも、耐えきれなくなって。両腕を伸ばして、震える身体を抱き寄せた。
だから、気を付けて——なんて、無責任でサムい忠告を吐くつもりはない。
「サムくてもいいから、配信はやって、ナンジャモ。出番が食われて……ほしくはないけど、あんたの声と姿はちゃんと映して。……なにかあったら、助けに行くから」
それが、ぼくのためだけじゃなく、彼女に合わせる形でここへ来た理由だ。
「匂わせ」のための出演を承諾したことにも、それが含まれている。たとえぼく好みじゃなかったとしても、ナンジャモのパシオ初配信は何事もなく成功してほしかったから。
「……フヒヒ、やっぱり、コロし文句!」腕の中の身体は、震えることをやめていた。「なら、ボクは大丈夫! めんどい古参ファン兼、頼もしいボディーガード兼……恋人がついててくれるならね!」
「油断は、しないでほしいんだけど……」自分の言った内容を反芻された物言いをされて、羞恥が湧いてくる。
「わかってるよん! せっかくキミと同じジムリなのに、キミに頼りきりでいるのもなんだかなーって感じだし、ヘマやらかして視察を待たずにジムリから降格! っていうのもゴメンだからね~。……そうだっ、ひらめき豆電球~! ジムリにふさわしいボクの強さを示して、キミにも安心してもらうために……明日はいよいよ本気バトり、やっちまおうかな~!」
「——え」
今はもう、めったにみれない、彼女の本気。その配信を支えに、いつも憂鬱だった実戦形式の視察を凌いでいたっけ。今ならもっと、晴れやかな気持ちで画面へと臨めるだろうか。
「ニッシッシ! 古参ファン、わかりやすいぞ~!」記憶、そして未来への予感に浸っていれば、自信に満ちた笑みが響く。「『観たい』って、顔に書いてある!」
「……当然」
オモダカさんに新チャンピオン——本気を出す相手がいつも強力すぎるせいで「皆の者」に舐められがちなナンジャモだけど、彼女が成長して手にしていった強さを、ぼくはよく知ってる。それが存分に、惜しげもなく披露される瞬間を、昔も今も望んでいる。
「素直なコメント、ありがと~! んじゃもー、そのつもりで企画立てちゃうぞ! ボクもパシオのチーム戦、練習しておくからさー、視聴者のグルーシャ氏はそれ観てお勉強ね」
しばらくの間、無闇にホテルの外へ出れそうにはないから。勝負回という教材を提供されるのはありがたい。
「そんでそんでー! グルーシャ氏の自主謹慎が明けたらさー! ……ボクと組んでよ!」カラーコンタクトの力を借りるまでもなくキラキラと輝いている瞳に、真っ直ぐに見つめられる。「パルデア最強のジムリで……それ以上に、ボクを誰よりもわかってくれてるキミと一緒ならさ、激シビれまくり必至のバトりができること、間違いナシだと思うんだ~!」
輝きとは、熱を伴うもの。——その温度に、彼女が湛える自信と期待に、昔から弱い。
「……さっき、『練習』って」
「そう、本気の練習! キミが外に出るまでのバトりはねー! ……つまり、パシオ版ドンナモンジャTVでの『匂わせ』四回目ってことになるかなー!?」
「まったく……」呆れを滲ませたはずのため息は、柔らかい響きになっていた。「……配信も……あんたの隣で戦えることも、楽しみにしてる。あんた直々のご指名までいただいたんだから、ぼくも本気で臨まなきゃね」
「うん、うん……! それでこそだよねー! ……明日からも、ヨロシクね!」
この温もりを感じていられる夜は、手放し難いけど。彼女が言うように、存外サムくない明日だって、期待してもいいのかもしれない。一度そう思えば、簡単に煽られた心は澄んだまま逸ってくれる。
彼女はぼくに、そう思わせてくれる存在だ。時が経とうとも、場所が変わろうとも。——なにが、あっても。