夢を見ているって、すぐにわかった。気が付けば陥っていた、サムくて暗くてなにもない空間——よりも。目の前にいる子供を、視界に捉えてしまえば。
片手には愛用のボードを抱え、もう片手では首にかけた金のメダルを誇らしげに掲げ、不遜に笑っている子供。両隣にも誰かがいて、その二人は一段や二段下——といっても、真ん中の子供が幼いせいで、段差をつけられてもなお並んで立っているようにも見えてしまうけど——にいるということは、ここは表彰台か。なら——。
『ぼくに勝てるやつがいたら、いつでも挑戦受けて立つぜ!』
最も高い中央の段から昂然と叫ばれる、覚えのある声と言葉。そこが熱狂の中心となって、絶大な歓声が沸く。表彰台を崇めるようにカメラを向けるメディアが、その向こう側にいる世界中の人間が、興奮に呑まれていく。サムい夢の光景であり、虚像だとわかっているぼくでさえ、その熱を否応なしに伝えられる。いつもの冷たさと不意の熱さが身体の中でせめぎ合うから、どうしても身体と脳は混乱して——気分が悪くなる。まあ、所詮は夢なんだけど。
この子供もまた、夢を見ている。自らの絶対的な才能を証明し続け、世界の頂に至るという傲慢な夢。ぼくにとっては、もうとっくに覚めた夢。
(今回は、こういうやつか)
自身の熱に浮かされる子供のことも、それをサムがりながら見ている自分のことも、冷たく俯瞰していた。なにせ、見慣れた悪夢だ。過去の自分そのものになって記憶を追体験するときもあれば、今みたいにその記憶を外側から観ているときもある。最近は、こういう夢を見ること自体減っていたんだけどな。
後者のパターンだったことは幸運だ。否が応でも過去の自分と同化させられる前者と違って、こっちならまだ冷静でいられるし、対処法も簡単だ。持て囃す群衆と恐れ知らずの子供に背を向けて、離れるように歩けばいい。向かう先が暗闇に見える空間でも構わない。なにもなければ夢の意義さえなくなるから、自ずと現実に引き戻されることになる。
『なあ、待てよ! あんた、未来のぼくなんだろ?』
『……!』
こういうのが、悪夢の嫌なところだ。さっきまで見ていた表彰台に立っていたはずの子供が、振り向き進もうとした反対側へと音もなく移動している。
突然の非現実的な現象を目の当たりにして、反射的に一歩後ずさる。マフラーを上げれば、首が絞まる感覚がした。いつもは緩くなってしまうのに、今に限ってきつく巻かれているみたいだ。これも悪夢特有の現象だろうか。
警戒と苦しさによって生じる睨みに、子供が臆することはない。結局向こうから一歩近付かれ、辛うじて空けた距離はまた詰められてしまう。
『未来のぼくなら、アレできるよな!? クワッドコーク1440!』
『え……』
首元を彩るメダルのデザイン、つい先ほどの発言、そして、要求するトリック。——やっぱり。フリッジタウン大会で優勝して、パルデア地方開催大会の六連覇を果たしたところか。その二週間後のナッペ山大会にて、「彼」は今口にしたトリックを史上初めて成功させる。その一瞬が、スノーボーダーとしての絶頂期だろう。——頂を過ぎれば、あとは落ちるだけ。落ちるのだって、一瞬だ。
『もう絶対できるんだけどさ、コーチが『まだ不安定だから』って、今日のプログラムに入れさせてくれなかった。でも、『ぼく』ならできるよな? できるってとこ、見せてくれよ!』
『…………』
『ああ、参考にしようとか、それ見て自信つけようとか考えてるわけじゃないぜ。自信なんて、あるに決まってるだろ』だろうね、才能のあるうちはね、と心の中で呟いた。『ただ……純粋に気になるんだよ。ここからさらに上を目指すスノーボーダーとして……さらに強くなった『絶対零度トリック』を見てみたいんだ! ほら、大人になっても、どうせここですべるの好きだろ?』
『!』
暗闇に満ちていた世界が、気付けばそれが当たり前であるかのように——一面の銀世界へと変貌していた。
多少吹雪いているし、足元の所々は凍結しているようだ。それでも積もった雪は柔らかく乾いているし、数歩先からは天然の急斜面が続いていく。いかにも、この子供が好みそうなコンディションのロングコートだ。
今はジムを構えている以上、現実でも見慣れている。悪夢の舞台も大体ここ——ナッペ山だ。
『ほら、早く!』
ボードを、渡される。——受け取って、しまう。
それを掴んだ手のひらに、そしてこの身体に、心に、よく馴染む感覚。
(……のり、たい)
本能的な衝動に刺激された心臓が、どくりと高鳴る。一度浮かんでしまったその言葉が、感情が、心に火を付け支配していく。このままでは、身も心も少しずつ焼かれ、悶え苦しみ果ててしまうだろう。だったらいっそ、眼前の熱へと自分から身を投じてしまった方がいい。煩わしい靄である迷いや燻りから解放されるにはそれしかないと本能が囁く。だって、どうせ、この炎は。
『『消そうにも、消そうにも、決して消えない——』』
目の前の子供の口元が歪む。発せられた声には、別の誰かのものが重なっていた。
そうだ、つい数時間前の記憶だ。彼の口からあの人の声がする理由、彼が同じ言葉を吐く理由なんて——ぼくが、一番わかるだろう。否定したくてもできなかったその言葉が、本当は——
『……乗らない』
癪な挑発もあってはならない真実も拒むように、ボードを突き返した。
喉がヒリヒリと焼け付く痛みを訴える。やっとの思いで拒絶したんだろう、これがその証拠だ、と嘲笑うような痛みだった。
『閉ざされた夢に、しがみつくつもりはないよ』
昼間と、同じ台詞。それでいい。仮に相手の言っていることが真実で、こちらは苦しい反論だとしても、認めるわけにはいかない。
かの学園の人工庭園にて、人目を忍んでボードを持ち出したこととはわけがちがう。本物の雪山で、「あの」ナッペ山ですべってしまえば、今の自分が崩れてしまう。過去の光を追慕しながら、冷めきった闇の中でただ呼吸をしているだけの頃に戻ってしまう。過去への未練を断ち切って、「今」への決意を改めた以上、それを覆すわけには。
『……本当に?』
訝しんだ子供が、わざとらしく首を傾げる。なにもかもを見透かしているような氷色の双眸から目を逸らすことは、まるで自分から敗北を認めることを示す仕草のように思えてしまって、ただ睨み返すことしかできなかった。
『本当に、しがみついてない、未練は断ち切った……っていうならさ。……どうして、ボード捨ててないんだよ。どうして、もう乗らないって決めてたのに乗ったんだよ』
——敗北なんて、最初から決まっていた。
『あーあ、下手な嘘なんかついちゃってさ』返されたボードを抱え、子供はけらけらとせせら笑う。『……サムいな、あんた』
ひとしきり笑った後、氷柱にも似た鋭さがその目に宿った。未来に憧れる無邪気な少年の容貌はすっかり鳴りを潜めている。瞳の奥底に灯る熱は、今は希望に燃え盛るのではなく、絶望と怒りによって業火と化した。「サムい」と吐き捨てられた言葉に呼応してか、辺り一面を覆う吹雪が勢いを増す。
『なにを躊躇ってんだよ? しがみつけばいいだろ。『ぼく』がスノーボードを捨てるなんて、あり得ない。どうかしてるぜ』
『今は別の道を歩んでいる。そこからまた、一度諦めた道にのうのうと戻れって? それはサムいと思わないんだ? つくづくおめでたい子供だね』
こうなったら、あとは現実に戻れるまで、延々と侮蔑と冷笑を浴びせられるだけ。応戦するか、それすらサムく感じてやり過ごそうとするかはそのとき次第。今は冷たく威圧する声色を絞り出して、子供のときよりは伸びた身長を使って見下しながら、戦うことを選んだ。気が立っているから、ということは自覚している。
『新しい道があるとかないとか、どうだっていい。『ぼく』のくせにスノーボードの道を諦めたのも許せないけど……。諦めたフリして、前に進んでるって態度でいながら、実際はチラチラと振り返ってるのがサムいって言ってるんだよ。どうせ消えない未練なんだから、叶えろよ。そんなんで『新しい道』とやらも歩けるって思ってるのか』
『なにも知らないから、『叶えろ』なんて的外れで無責任なことを好き勝手に言えるよね。雪のように冷たい現実を知らず、綺麗な夢だけ追ってる子供の粗末なカウンセリングなんて……時代遅れで迷惑だ』
『知らないなんて決めつけるなよ。二週間後のナッペ山大会、滑走中に起きた事故に巻き込まれるんだろ?』
感心と辟易を同時に覚える。子供のくせに、未来の出来事も把握しているパターンか。
知識が子供止まりのものだったとしても、平行線の一途を辿る面倒な議論になることに変わりはない。でも、今回のように変則的な状況の方が、向こうの口撃もより多様になって厄介だ。
『それがどうしたっていうんだよ』心から滾る激怒をもって、その未来を撥ね退けようとしている。『逆境なんてものともせず、ここまで来たんだろ。なのに、一度怪我したくらいで全部なかったことにするのかよ。どんなに困難なトリックにも、強力なライバルにも怯まなかったのに、雪山の……自然の猛威に遭った途端に、あっさり折れるのか? ……ふざけるなよ』
『ほら……やっぱり、なにも知らない。知らないからそんなことが言える。自分には縁がないとでも言いたげに、挫折を一蹴できる』
呆れを示してやるために眉間を押さえ、意識的に、深くため息をつく。震えを帯びていたことには、気付かないフリをして。
『まあ仕方ないか、経験しなきゃわからないよね。あんたが今、自分が統べる庭のように思い込んでる雪山に突然裏切られて、叩き落とされる感覚はね』
『だから、それくらいで挫折するのかって言ってるんだ』
『それくらい、って……』
『『それくらい』だろ』苛立ち交じりに反芻すれば、もっと色濃い憤りによって遮られた。『史上最年少でプロ入りして、一回りも二回りも経験積んでるやつらを相手しなきゃならなくって、だけどそいつら以上の結果を出してきた。無理と言われ続けた高難度のトリックを、次々と成功させて。そうやって劣勢を覆してきたから、『絶対零度トリック』って言われるようになったのに……! その『ぼく』の人生を、逆境に立ち向かっていたスノーボーダーの『ぼく』を、あんたは裏切った!』
慟哭めいた訴えに、心打たれることはない。悪夢の中では聞き慣れた台詞だからだ。
ただ今回は、怒りを露わにする子供を眺めていて、ある納得に至っていた。これも、昼間言われた言葉についてのものだ。
『それとも、夢を奪われた理不尽さへの怒りの炎……でしょうか?』
神経を逆撫でされる心地になる一方、その言葉には引っかかりを覚えていた。
不慮の事故で選手生命を絶たれたことは確かに「理不尽」と言い表せるかもしれないけど、それは人智を超えた自然の力によるものだ。全能感に酔いしれていた子供に現実を示したそれに対し、畏怖や畏敬の念を抱きこそすれ、憤怒や憎悪を向けたことはない。当時でさえ、己の運命を嘆き狂った時間は実のところ短く、すぐに諦めへと至れたように思う。
でも、「理不尽」というのはあの日の陥穽そのものじゃなかったんだろうな。今、目の前の子供が力の限り叫んでいることが、その答えだ。彼に言わせれば、その選手生命を奪ったのは事故ではなく、終わらせるという判断を下した「ぼく」自身。ぼくが諦観に至ったことこそが、夢を追った彼にとって最大の「理不尽」であり、激怒の対象だということだ。
ぼくが、ぼくの中にいるこの子供を消し切れていないのだとしたら。あの人の言ったことは、やっぱり、正しいのかも——。
『残念だよ。未来のぼくは、こんなにサムいやつになっちゃうなんて』
子供は得意げに笑っている。ぼくが考え込み沈黙に陥ったことで、舌戦に勝ったと思い込んだらしい。心底からの呆れや軽蔑、失望が滲んだ勝利宣言は、彼からぼくへの興味が薄れていることも意味していた。つまり、この悪夢も終盤だ。そろそろ覚めるかな。
『あんたはもういい』冷たく捨てるような物言い。ぼくも、あんたにそのまま返してやりたいよ。『その代わり、アレ見せてよ』
『は? アレ……?』なんだ、まだ続くのか。今日のは長いな。
『ほら、ドンナモンジャTV!』
『……!』
『あの子なら、きっと夢を叶えてるだろ? あんたと違ってさ』
途端に、なんの指示も操作も与えていないにもかかわらず、ぼくのスマホがひとりでに浮かび上がった。そのままぼくから遠ざかって、彼の手元へと収まる。すっかり機嫌を直した子供は、我が物顔で画面を叩く。
このくらいの非現実ではもう驚かない。これも、何度か経験してきた例の一つだ。目標もライバルも失っていたボクにとって、唯一身近な人間がその配信者だったから、こうして夢に出てくるんだろう。もちろん、今までは画面越しに観ていただけだから、身近という言い方は烏滸がましいのだけれど。
『わ……! チャンネル登録者数すげえ! ぼくが知ってるのとじゃ桁いくつも違う! これもうランキング上位間違いなしだろ、やっぱり、ナンジャモはインフルエンサーになれたんだ……!』
『最近の雑談で言ってた通り、髪染めれたんだな……! ふふ、いいじゃん、似合ってる、ぜ……!』
『でも、目がなんか違うような……。……ああ、カラコンか? 派手なのに憧れてるって言ってたもんなー。……そのままの目だって、キレーだったけど……』
画面を忙しなく動かしては、興奮や関心の赴くままの新鮮な感想を述べていく。彼女が染めた髪色と奇しくも似た色をしている自身の前髪を弄りながら、雪山の中にあっても両頬を赤くする子供は、たとえ無意識でもサムいことを考えているのだとわかりやすい。この子供に初めて素直に共感できたのが、彼女の目の色についての意見になるとは。
『……? ……あれ……?』
残念ながら、スマホの音声は聴こえてこない。でも、子供がなんらかの動画を選んで見始めたということはわかった。意気揚々と下ろした指が止まり、宝箱を開けたような少年の顔が——次第に、輝きを失って、凍り付いていったから。
『なんだよ、これ!』遂にはその表情を、困惑と焦燥、悲嘆に歪める。画面から視線を上げて、泣きつくようにこちらを見た。『なんで、ドンナモンジャTV、こんなにサムくなってるんだよ……!? 視聴者数も登録者数も、こんなにいるのに……!』
『わからない? とにかく流行を押さえて大衆ウケを狙っていけば、サムくたって数字は取れるんだよ。……体張って困難に挑んでるよりも、確実にね』
『嘘だ!!』必死になって否定を叫ぶ子供の目には、薄っすらと雫が滲んでいる。『そんなこと、したくないって……! 自分のやりたい配信で、インフルエンサーになる、って……! 言ってた、のに……!』
『……残念だけど、それが現実。……彼女が語って、あんたが信じた通りの叶い方はしてないよ』
『~~~~ッ!!』
強く、強く歯噛みして、声にならない叫びを上げた彼が崩れ落ちる。今度こそ、この生意気な子供を見下せているはずなのに、胸は激しく軋んでいて、サムさは募る一方だった。
この子供の言っていることに頷くわけにはいかなかった、さっきまでの問答とはまた違うからだろう。やっと現実を理解してくれた彼の姿そのものには仄暗い安堵を覚える一方で、彼の嘆きには共感していた。
世界的な脚光を浴び、かつて焦がれた名誉を欲しいままにしているように見えるけど、それは彼女が自分の心の欠片を犠牲にして、視聴者に対しさながら道化のように尽くすことと引き換えに手に入れた名誉だ。古参のサムい妄想なんかじゃない。視聴者と配信者の関係を越えてしまった今、彼女本人に苦悩を打ち明けられたこともある。それを思えばなおさら、かつての無垢で果敢な少女を追慕せずにはいられない。せめて、彼女の望みだけは叶ってほしかったと、過ぎた願いを抱きかかえてしまう。
あれ、でも。この願いは、想いは、どこかで——。
『……だけど』
膝をついてスマホを握りしめていた子供が、ゆらりと立ち上がる。
ついさっきまで悲嘆に暮れていたというのに、今は涙の筋を頬に残しながらも薄ら笑いを漂わせていた。満足を示すその表情でスマホの画面を見つめる様子は異様ですらあって、不意に上げられる顔と、こちらに向かって歪められる口元に反射的な警戒を覚えて、本能が寒慄する。
『『あんた』より、ずっとマシだよね』
歪みは、嘲笑を纏わせた刃となる。
『な、に……』
『だってそうだろ? 彼女は、曲がりなりにも夢を叶えたんだ。夢そのものを絶って、そのくせにまだ未練がましくそれを見ているだけの、あんたとは違ってね』
裂かれた胸の傷口が熱くなる。ドロドロと半端に溶けかけて、すべるにはおおよそ適さない雪のような感触の、不愉快な熱。いっそ、熱ではなくサムさと言うべきかもしれない。
『……だったらなに。自分と彼女の差くらい、とっくにわかってるよ』
鋭く睨んでいるように見せかけているだけで、本当はやっと。喉には凍り付く痛みが走る。言い返しているようで、実際は自分の首を絞めることを言っている。
『へえ?』
この程度の視線や語気に怯むなんてことはせず、子供は愉しげに目を細める。晒されたばかりの容易く見抜ける急所に、容赦するはずがない。
『『あ、でも、昔のほうが体張ってて好きだったかな』』
子供の唇が弧を描いているのに、そこから発せられたのは大人の声だ。大人になった今、自ら彼女に告げた言葉だからだ。
彼女にそれを告げたときの自分は、彼が——子供の姿の「ぼく」が今反芻したり通り、まるでかつてと変わらない人間だったのだと、嘲られていた。
『な? 結局、あんたは吹っ切れてなんかいないんだよ』
物真似は終わったはずなのに、声の聴こえ方がおかしかった。昔と今、両方の声色が二重になって聴こえる。気持ちが悪い、サムい。
『彼女に対してはわかりやすいし、あんた自身についてもそうだよね。昔に縋ったまま。ならいっそ、昼間言われたことも含めて、いい加減認めたらどう? 今のあの子を受け入れきれず、サムくなかった頃の彼女を忘れられないなら、あんただって。偶然あって頼るしかなかった才能なんかじゃなく、本当に望んでたところに戻った方が、似合って——』
『……もう、黙って』
これ以上言われなくても、わかる。過去への気持ちを拒んでおきながら——彼女にも、同種の想いや願いを言い逃れできないくらいに抱いている。彼女へ向ける未練に覚えがあると感じたのは、今対峙する子供が、ぼく自身に訴えるものとよく似ていたからだ。
自覚できたのは一瞬で、すぐに凍らせ砕く思いでいた。心ごと砕いたから、今度は痛みが疼く。そこに伴われる熱が、子供の言葉を証明しているようで癪だった。ぼく自身の意思すら及ばないそれを鎮めるためには、ひたすらにこの子供を否定して、早く「夢」から覚めるしかない。覚め、なければ。
『ぼくは今の道に納得している。ワガママ言って邪魔しようとするのやめてくれない?』
『邪魔だなんて人聞き悪いな。ぼくは『ぼく』のために言ってるんだ』
語気を強めたぼくに対し、子供はあくまでも愉しそうに笑い、スマホを連れて悠々とぼくに近付く。自分の優勢を確信でもしているんだろう。自信ゆえの煽り癖含めてよく知ってる、と思うことさえ腹立たしい。
『邪魔って言ったの、聴こえなかった? ぼくのためになんかならないよ。ぼくが前に進むために、あんたはもういらないから』
『そこまで言うなら絶ち切ってみろよ。夢のために生き方を変えたあの子みたいに。できてないからこんな夢見てるんだろ』
『……絶ち切ってたよ。些細なことで、あんたがしぶとく出てくるんだろ……!』
募る苛立ちが声に滲み出る。わざと露わにしているんじゃなく、制御できなくなっている。
『しぶとくしてるのが、あんた……いいや、『ぼく』なんだって。そうするくらい、——』
『は……?』
こちらを見上げながら見下す子供の言葉がよく聞き取れなかった。聞き取れないまま憤懣が高まり、頭の中で警鐘が鳴る。——発せられたのが、無意識に遮断するほど致命的な言葉だったからだ。
『はは、何度でも言ってやるよ』
『夢を叶えたあの子にも相応しくて』
『『絶対零度トリック』の人生を遂げられる』
『そんな、昔の『ぼく』の……『あんた』のこと』
聴いてはいけない、聴かない方がいい。それでも身体は凍り付いて、もうぼくではない子供の口元へと、視線が釘付けにされている。
『羨ましくて、仕方がないくせに』今度こそ、その言葉に貫かれる。
『——うるさいな!!』
衝動的に、けれど力づくで無理矢理に、反撃の意思を叫んだ。
極めて感情的な響きに、追い詰められていることを思い知らされる。急速に降り積もる焦燥に埋もれていく。
「そういうのがサムいんだろ! 早く、消えて——!」
古びた鏡が、勝ち誇った笑みを浮かべている。それを、この手で払いのけてやろうとした。