消えない炎

 

「————」
「あ……っ!?」

 次の瞬間、忌々しい子供を映した鏡はなくなっていて。代わりに、また昔からよく知っている少女に顔を覗き込まれていた。彩られたその目は大きく見開かれ、衝撃を受けたように揺れと固まりとを繰り返している。

「っ、ごめん、ナンジャモ!」

 さっきまで苛まれていたものとは別種の、そしてそれ以上に激しい焦りがこみ上げる。弾かれたように起き上がって、彼女の両肩を掴む。

「ケガは……!? 痛み、は……! すぐに手当を……!」
「えええ、落ち着きたまえグルーシャ氏!」ナンジャモも急に慌て始めた。「ボクはなんともないよ!? さっき、キミが起きがけに腕ガッってやったやつだよね!? 当たってないから安心してー!? ほら、どこも赤くなってないし、キミにだって手応えとかないのではー!?」
「え、あ……」

 手応え、に関しては——なんともいえない、というのが正直なところだった。さっきまで夢の中にいたせいで感覚が曖昧だ。確かに手応えはないけれど、それはあの幻覚を払えなかったせいかもしれないし。
 でも、彼女が長い両袖を使って指し示し、あるいはそれを捲って露わにする肌に、腫れや赤みは見当たらない。気遣いの演技をしているわけでもなさそうだし、本当に、空振りで終わってくれたみたいだ。

「よかっ、た……」

 ぼく自身の問題である悪夢のせいで彼女に手酷い真似をするなんて、サムいどころじゃない。実際のところ、そうならなくて良かったという安堵よりも、もう少しでそうなるところだったという恐怖の方が強くて、ほっと吐いた息は荒い震えを帯びていた。

『『あんた』より、ずっとマシだよね』

「……っ」

 ただでさえ、彼女に相応しい人間じゃないと——自覚を突き付けられたばかりなのに。

「まあまあ、なにはともあれ! 改めまして、おはこんハロチャオ—! ……グルーシャ氏、起きてくれてよかったー。すっごい魘されてたよ~……?」
「……うん」

 変な挨拶。キャッチーな響きだけど、世界規模のストリーマーを志す野望も込められた、彼女らしい挨拶。お馴染みの軽やかさと秘められた力強さに少し救われながら、また少し胸も痛んだ。

「……サムいとこ見せちゃったね。あんたが起こしてくれたの?」

 華奢な肩を掴んでいた手をひとまず下ろし、額に浮かんだ冷たい汗を拭ってから、辺りを見回す。  滞在しているホテルの部屋だ。ひとりで戻ってくるなり——元々、今日はナンジャモとは別行動で外出していた——、今腰かけているこのソファで長時間寝ていたらしい。まだ日が高い時間に戻ってきたはずなのに、窓の向こうはすっかり満天の夜景になっている。ソファはハイグレードな一品とはいえ、ずっと酷い姿勢でいたせいか、身体のあちこちに鈍い痛みが残っていた。特に首が苦しいのは、外すこともしていなかったマフラーが寝ている最中に絡まったせいか。夢の中でも時折首元が苦しくなることがあったけど、これが原因なんだろう。

「……あれ」マフラーを解きながら、あることに気付く。「あんた、どうやって入ったの? 鍵は?」

 「なくしそうだから」という理由で、ナンジャモはルームキーを携帯せず、管理をぼくに一任していた。だから、先に帰ったぼくが開けなければ、ナンジャモは部屋に戻ってこれない。——昼寝、あるいは不貞寝なんかしてる場合じゃなかった。そのはず、なんだけど。

「ニッシッシ……! ではでは聴くがよい、ボクとポケモンたちの頭脳プレー!」

 ナンジャモがボールを一つ放る。中から出てきたのは、彼女がこのパシオにおいても相棒と定めたハラバリー——ではなく、最後の切り札であるムウマージだった。

「何度ノックしたり呼びかけたり、スマホ鳴らしたりしてみても、グルーシャ氏出ないからさー。心配になったから、もう強引にでも部屋に入らねば! と思いましてー。手始めに、この子にドアをすり抜けてもらったんだ。いてよかった、ゴーストタイプのポケモン……!」
「……なるほど」
「んでんで、ムウマージはそこからキミのハルクジラと合流……したんだよね? その子がドアを開けてくれたんだよー!」
「! ハルクジラ……」

「ハルクジラも大急ぎで開けてくれたみたいな感じでさー。タダゴトじゃないと思いながら部屋に突入したら、ソファの上で倒れるように寝てたグルーシャ氏がいたってワケ! もー、ほんとにヒヤヒヤしながら起こしたよ~……! ……あり? 経緯、意外と短い? 言うほど頭脳プレーではない……?」
「……いや」得意げな顔から焦り顔、そして困り顔へと慌ただしく表情を変える彼女に、ゆっくりを首を振った。「世話になったのは、事実だから。ハルクジラも、ムウマージも……あんたも。……ごめんね」
「謝らなくていいよん!」

 ナンジャモが屈託のない笑みを浮かべ、ポケモンたちもそれに続いて鳴き声を上げる。——ありがたいし、いたたまれなくなる。

「それより、キミの方が心配だぞー」ナンジャモはムウマージをボールに戻し、二つのコイルを浮かせながら首を傾げる。「……ほんとに、辛そうだったよー。もう、大丈夫なのー……?」

 口調こそ、いつも通りの間延び気味のもの。だけど静かで優しい真情が込められた声色だった。心配されているし、気を遣われている。魘されてたと言われたけど、どれほど酷い様だったんだろう。

「…………」

 なんと答えるべきか逡巡する。今や恋人にまでなった憧れのひと相手に、これ以上情けないところを晒したくはない。でも、彼女相手に嘘をついて演技するというのも、それはそれでサムい気がする。

「……大丈夫じゃなさそうだねー」

 沈黙が長すぎたせいで、呆気なくバレてしまった。ここから誤魔化すのもできそうにないから、小さな苦笑だけを返しておく。
 ナンジャモが座りやすいように、ソファの奥へと詰めることにした。手の届く距離になったから、ようやくハルクジラを撫でる。何度か繰り返しても、ハルクジラはすぐに浮かない顔になってしまうけど。トレーナーの状態のせいだろうか。

「内容、お尋ねしてもよい?」隣にナンジャモが腰かける。髪飾りのコイルが浮いて、そっとテーブルに落ちたから、なにかに遮られることもなかった。「もちろん、無理にとは言わないけどさー。せめて、ボクの安心のための箇所だけでもー……?」
「あんたの、安心?」
「だって、さあ……?」ナンジャモの目が、潤み始める。「あんな、こわいかおでー、『消えて』なんて言ってくるしー……」
「え……っ!?」

 覚えはある。目が覚める直前、というよりも瞬間に、あの子供へと向かって叫んだ言葉だ。声に出してしまっていたのか。

「あんたに言ったんじゃない。怖がらせたなら、悪かった……」

 目が覚めた瞬間に視界に映った、驚愕し凍り付く表情を思い出す。叩かれる衝撃に硬直していたのだと思っていたけど、それは空振りに終わった。ならあれは、ぼくが言い放った暴言への反応だったのかもしれない。今浮かべている表情は嘘泣きのそれだろうけど、きっと、たとえ一瞬でも傷付けてしまった。

「ニッシッシ! ならよかった~! っていうか、わかってたから心配ご無用だぞ! グルーシャ氏だけは、ボクにヒドいことしないって!」
「……そっか」

 信頼を乗せた笑顔が眩しい。ぼくからは、弱々しい微笑みしか返せなかった。
 もちろん、彼女をイジりの対象にして消費することを覚え始めた視聴者よりはサムくない、と思いたい、けど。——ぼくだって、立派なものじゃない。

「……ナンジャモ」
「んー?」

 そんなぼくが、彼女になにを話して、なにを聴いてもらうというのだろう。
 迷う必要なんて本当はない、見ていた夢の内容を向こうから尋ねられているだけだ。それに答えればいい、けど。ぼくは、それをそのまま話してどうする気なんだろう。慰めでも期待しているのかな。

(それは、サムいな……)

 お金を乗せた赤文字のコメントを送って、彼女のひとときの関心と優しさを買って悦に浸る人間と、なにが違うんだろう。
 それに、彼女を頼って立ち直ろうとしてるなんて。——昔と同じだ。

『彼女に対してはわかりやすいし、あんた自身に対してもそうだよね。昔に縋ったまま』

 急所を的確に貫く形で、心には刃が突き刺さったまま。その痛みが絶えず冷たい残響になる。正しい冷たさだった。夢の中の言葉だけど、紛れもない現実だ。

「あの、さ……」

 これ以上、サムい思いはしたくない。彼女のためにも、そんな自分になりたくない。だから、慰め待ちの様相を呈してしまう夢の話を述べるよりも先に、言うべきことがあるんじゃないか。

『だってそうだろ? 彼女は、曲がりなりにも夢を叶えたんだ。夢そのものを絶って、そのくせにまだ未練がましくそれを見ているだけの、あんたとは違ってね』
『……だったらなに。自分と彼女の差くらい、とっくにわかってるよ』

 そうだ、わかっている。こんなぼくが、彼女の傍には——。

「グルーシャ氏……?」
「…………っ」

 ——別れ話、さえ。頭をよぎって喉まで出かかったけど——それは、やめておく。ぼくではナンジャモに釣り合わないという理由を説明するよりも早く、その話を切り出した瞬間に、愛に飢えた目の前の女の子は大いに傷付いてしまうと思ったから。彼女を悲しませてしまうのは嫌で、それに、ぼく自身にとっても苦痛になる。

『結局、あんたは吹っ切れてなんかいないんだよ』

 言われた通り。彼女には相応しくない人間かもしれないけど、彼女のことを決して忘れられない人間だ。そんな彼女との離別は、耐え難いサムさだ。
 だから情けないけど、それ以外の手段を取らなくては。彼女に相応しくないというのなら、今からでも相応しい人間になってしまえばいい。方法は二つ。一見、真逆に思える二択だけど。

『いっそ、昼間言われたことも含めて、いい加減認めたらどう? 今のあの子を受け入れきれず、サムくなかった頃の彼女を忘れられないなら、あんただって。偶然あって頼るしかなかった才能なんかじゃなく、本当に望んでたところに戻った方が、似合って——』
『そこまで言うなら絶ち切ってみろよ。夢のために生き方を変えたあの子みたいに。できてないからこんな夢見てるんだろ』

 後者は、できなかった。彼女の輝きだって、たとえ本人が忘れたって覚えていたいし、叶うことなら思い出してほしいと思わずにはいられない。
 だったら、もう一つの方を。ナンジャモに、願っている通りのものを。

『夢を叶えたあの子にも相応しくて、『絶対零度トリック』の人生を遂げられる。そんな、昔の『ぼく』の……『あんた』のこと……』

「……現役に。プロのスノーボーダーに、復帰してほしいって思う?」

 『ぼく』が、羨み望む通りのものを。
 脳裏にちらつく子供の笑顔が鮮明になった。夢の中で対峙した、嘲りに満ちたものじゃない。未来への予感に照らされたような、無邪気で純粋な笑み。もっと躊躇してしまうかもと思った問いは案外滑らかに声に出せた。この選択は他人からの受け売りなんかじゃないんだってことを、教えられた気分だった。
 そして、それがサムくないということがサムいんだという思いが遅れて滲む。覚えのある熱に惹かれてしまうぼくの腕を、別の熱が冷たい未練になって掴んでいる。
 ほんと、なにがしたいんだろう。どう動いても——どちらを取っても、サムいままなのかな。

「……あっ、あのっ、あのあのあの、グルーシャ氏~……!?」

 目を見開いて口をはくはくと動かしていたナンジャモが、ようやく声を発する。今、二つのコイルは彼女の髪から外れているけど、もし着いていたら目を星にして混乱を示していたに違いない。

「そ、そり、1000万ボルト級に重大なご決断にかかわるものでは!? ご相談の相手、ボクでよいの~!?」
「……あんただから、聴いてるんだけど……」あまりの動揺に、いつのまにか強張らせていた肩の力が抜けるのを感じた。「……そんなもんじゃない?」

 例えば、家族とか。親しい人間相手に自分の進退についての意見を求めるのは、スポーツ選手に限った行動じゃないと思う。
 もっとも、ぼくはこれが初めてかもしれない。周囲の声に耳を貸さずに引退や転向を決めきったし、挫折知らずで突き進んでいた現役時代も、誰かに打ち明けなければならないほど追い詰められたことなんてなかった。一時の敗北を喫して思い悩むこともあったけど——彼女の配信を観れば、立ち直れた。

「フヒヒ、ボクだから、か……! ボク、すご……っ!」

 驚愕から感動へ。もしかすると、長い両袖で口元を隠しながら満悦の笑みを浮かべる彼女も、今までそういう相談事の経験はなかったのかも。「リアルで仲のいい人はいなかった」「配信とお仕事がイコールにもなってきたから、リアルなんてあってないようなものだった」と言われたこともあった。
 初めて、という響きに悪い気はしない。だけど少し、気になることもある。——あの、大幅な路線変更とか。独りで下した決断なのかな。

「んでんで……! キミの、現役復帰の話だよね~……!」

 袖に覆われた手を口元から両膝へと下ろして、ナンジャモが再びぼくに向き合う。緊張のせいか僅かに声を震わせながらも、自信ありげに微笑んでいる。

「……キミがやりたいなら、ボクはいいと思うよん! 夢をふりまくインフルエンサーであるこのボクが、他でもないキミの挑戦を応援しないわけがなかろ~!?」
「……!」

 こんな相談をしていること以上に、夢みたいな状況だと思った。
 彼女が、あの配信者が、ぼくの生きたかった道を「いい」と言ってくれている。視聴者であるぼくが一方的に元気をもらうんじゃなく、彼女自らが背中を押してくれている。なんて、恵まれているんだろう。見知った悪夢の住人に自慢してやりたいくらいだ。

「……そっか……」

 なのに。これほどの幸せをもらっておきながら、どうしてか心は晴れきらない。彼女の手で熱くなって、だけど思い出したように冷たくなっての繰り返し。今を絶って過去を取り戻すことを、静かに、けれど確かに、どこかで嘆いている。
 本当は、否定してほしかった? ——それも違う。彼女に過去を拒まれたような気持ちになってしまえば、今度は別のぼくが——それこそ、未だ息をしている子供じみたぼくが、泣き喚いて狂いそうだ。彼女の過去を好いているのなら、この子供の機嫌だって取るべきだ。わかっているし、そうしたい、けど。

「…………」

 過去と現在にわかれて、自分がふたりいるような感覚が気持ち悪い、サムい——。

「……キミがやりたいなら、ね」
「……!」

 オーバーなリアクションで配信を盛り上げる声色とはまた違う。彼女本来の芯の強さが、繰り返された響きに込められていた。
 ——迷っているって、気付かれた。

「グルーシャ氏、やっぱり……。復帰したい! って心の底から思ってるわけじゃないよねー。……誰かに、なんか言われたとか?」
「……なんで、そう思うの」そこまで当たっていることに内心驚きながらも、質問を返す。
「なんとなーく、似てるなーって。……配信、テコ入れしようかどうか迷って、当時の皆の者にアンケート取って……その結果に従って、ドンナモンジャTVのスタイルを一新したときのボクにね」
「そんなことしてたんだ」
「!! ……あー……。そのアンケ自体も、もう消しちゃってるしねぇ……」

 昔の動画だって、もう消えてる。それを覚えているぼくに知らないものがあるということが心底意外であると、大きく見開かれたナンジャモの瞳が主張した。——けれど次の瞬間には、気まずそうに視線をさ迷わせる。

(……なるほど)

 もう、七年くらい経ったのかな。病室で目を覚ましてから、変わり果てたドンナモンジャTVを目の当たりにした。チャンネル運営の転換——そしてそれを左右したアンケートが、ぼくが雪の中、あるいは緊急手術室や病室で眠っていた間に行われていたということだ。失言したとばかりに静かに焦るナンジャモもそれに気付いたんだろう。当時の大きなニュースになっていたみたいだし、思い出すのも無理ないか。

「気を遣わなくていいよ」
「め、面目ない~……」
「ううん。……こっちの台詞」

 そのアンケートに票を入れ、コメントの一つでも書き添えることができていたなら。今頃、なにか変わっていただろうか。——あんたのことを、救えていただろうか。たらればなんて意味がないけど、服を強く掴むようにして拳を作った。
 それに、あんたに似てるなんて、驕慢にも程がある。ぼくが似ているのはむしろ、実際にあんたを自分に都合よく導いた人たちであり、捨てたはずの過去を呼び起こさせようとした、あの人であり——。

「……誰のせい、とかじゃない。……さっき見ていた夢の中で、『ぼく』自身にも言われたくらいだ」
「キミ、自身?」
「そう。……だから、自分自身の感情」

 眉間を押さえながら告げていた。——夢のこと、とうとう言ってしまった。
 そうするしかなかった。ナンジャモは、ぼくの輝かしい過去にさらなる光を添える存在だ。その光を——あの日の自分が魅かれた彼女のことを追慕しておきながら、自分が後ろを振り返った原因をあの人に求めるというのは、筋が通らなくてサムい転嫁だ。夢の中では子供の姿形まで呼び起こして、自ら後ろを向いている。——認めるしかなかったそれも、サムい事実だ。

「キミ自身に『も』ってことは、さー……」さりげなさを装おうとしているのか、ナンジャモがほんの少しだけこちらに近付いた。「やっぱり……他の人にも言われてる、よね」
「え? う、うん……」

 いつになく重々しい口調と真剣な眼差しに込められた心配に気圧されて、する気のなかった肯定をまたしてしまう。言ってしまったという疚しさもあるけど、ナンジャモのことも気がかりだった。鋭いし、そこに妙にこだわっているような。嫉妬、ともまた違っている感じがするけど。

「グルーシャ氏」ナンジャモの目が、いっそう据わる。「ケンカ売られてるよ、それ」
「け、ケンカ?」昼間の出来事を、そう捉えてはいなかった。「そう、だね……。そうなの、かな……」

 言われてみれば。客観的に考えてみれば。その表現に納得はできる。スノーボードへの残熱を指摘されたとき、確かに怒りのようなものは覚えていた。だけど、それは反射的で瞬間的な感情で——図星を突かれたせいで湧いたものだと、もうわかってしまっている。

「ケンカだよー!」ぼくとは対照的に、ナンジャモはとうとう鬱憤を爆発させるように叫ぶ。「キミのご意向に障る形で、今のキミを否定してきたんだよ!? グルーシャ氏も、そんなかいでんぱ受けた状態で決断しちゃダメだって……! っていうか! そんな目に遭ったならやっぱり心配! ホントに大丈夫!? バトりには勝った!?」
「いや、してない……」

 反対側を振り向けば、そこにいたハルクジラが首を横に振り、次いで眼差しを鋭くしながら鳴き声を上げる。この子にやる気があるのなら、あの場で勝負を申し出ていればよかったのかな。今の道を進みたいと思っているのなら、なおのこと。

(……いや)

 昼間は終ぞ反論できないままで、戦うべきだったかもしれないとここで気付いている時点で。実際にやっていたとしても、サムい結果になっていたのは明白だ。こんな状態のトレーナーの下で戦わせるというのも、ハルクジラに申し訳ない。
 ——また、子供の冷蔑が聴こえたような気がした。戦いを避けなきゃならないなんて、「絶対零度トリック」らしくない、と。

「だったら、ボクが! ボクとドンナモンジャTVの威信を懸けてでもー!」ナンジャモの方が、こんなに憤れているっていうのに。
「……それは、やめて」

 ぼくが負うべきだったリスクだ。それに、ただ四天王の立場にあるトレーナーに挑戦するという目的なら背中を押せたかもしれないけど、彼女をあの人と敵対させたくはなかった。向こうが報道機関の人間だから、というのもなくはない。でも——どうにも引っかかる。二つの公職を兼任しているようなトレーナーが、仮にも、他の地方の公人である人間を易々と挑発できる? あの人、一体なんなんだろう。アナウンサー兼四天王——本当に、それだけ?
 正体不明の恐ろしさに思考を割いてばかりいるのもサムい。今は、それより。

「落ち着いて、ナンジャモ」
「落ち着いてられないよー!」

 さすがに憤りすぎだと思う。いつもの徹底されたリスク管理を投げ打つようなことまで口走っているくらいだ。なんで、ナンジャモがここまで真剣に怒るんだろう。
 ——言われる側の気持ちを、過去に触れられ執着されることのサムさを、知っているから?

『あ、でも、昔のほうが体張ってて好きだったかな』

 スノーボーダーへの復帰を促され、未練を逆撫でされることが、怒りに足るというのならば。ぼくだって、彼女に同種の不躾を働いている。だから、怒りを向けられるべきは、あの人では、なく。

「ボクのグルーシャ氏がアレコレ言われてるのに、指くわえて耐えてるだけなんてできるかー! 大切なひとのことくらい、譲れないぞよ!」
「……ナンジャモ……」

 あんたに、そこまで言ってもらえるような人間じゃない。それどころか、あんたに許されるような存在でもないんだ。今の姿を素直に認めずにいる、未練がましい古参なんて。

「……怒らなくていいよ。夢に出てきた『自分』も言ってたって、話したよね。だから、その人の言ったこと……。スノーボーダーとしての気持ちとか、夢を、奪われた理不尽さへの、怒り、とか……。間違いでも、ないから……」
「だとしたって、さあ……!」
「……?」

 だとしたって? 焚きつけを的外れなものだと思って怒っているわけでもないのか? よく、わからない、けど。

「ほんとに、心配しないで。間違いでもないけど、完全に認めたわけでもないし。過去のこと、ちゃんと……絶ち切りたいって、思ってる。絶ち切って、消して、ジムリーダー、ちゃんとやろうって、決めてる……」

 ナンジャモを宥めたくて言っているのに、言い訳じみた響きになる。言葉を重ねれば重ねるほど、心も指先も麻痺したようになって、唇が震える。震えを止めたくて噛もうとすれば、そこに滲んでいた冷たさに気付かされる。
 ——当たり前だ。全く遂げられずにいる、空虚な決意を掲げようとしているんだから。しかもそれを述べている相手は、絶ち切り消せていない古い記憶の一つの象徴であるひとだ。そのせいで、説得力のなさに拍車がかかる。
 無理、なのかも、しれない。この葛藤も、サムさも、ずっと。

「……ごめん、ナンジャモ」

 ぼくなんかのために真情を燃やす目を見ているのも憚られて、俯くことを選ぶ。それでも彼女の脚や膝は視界に映るから、瞼を下ろして暗闇に変える。こんなにも彼女の近くにいるということに罪悪感を覚えてしまうから、せめて、その距離を感じないように。

「もう、わかるだろ……。結局、ぼく自身が揺らいでる。忘れられなくて、右往左往してるって。昔の、一度諦めた道なのに、執着するのを……夢に見ることを、やめられてない……。夢から覚めきれていないから、現実の道でもこうやって、ふらついて……。……サムいよね……」

 堰を切って、懺悔が吹雪く。こんな吐露だってサムい、困らせてしまうだけ。なんでもないフリを装わなければならなかったのに。昔に縋ってなんかいないって、言わなきゃいけないのに。

「……グルーシャ氏」
「あんたにだって、サムいことしてる」吐いてしまうのは、真逆の真実ばかり。「あんたは、夢を叶えて進もうとしてるのに……その『今』じゃなく、『昔』のほうが好き、なんて……。……未練がましいサムい価値観に、あんたを巻き込んでる。なのに吹っ切れたフリだけしてるんだから、煽られて、当然……」
「……ったくもー、わかってないなあ? ……その人も、キミも」
「……え——」

 冷えた両頬に、指先で触れられる。そこから伝わる体温が肌に灯る。咄嗟に目を開けば、長袖が捲られ隠されることのなくなった、見知った手が視界の端に映った。あってはいけないと思い込んでいた距離を、また近くに感じてしまう。だけど自分から遠ざかることも、退かすためでもその手に触れることだってできなくて、凍え震えるように固まった。その感覚さえ、頬に伝わる熱に溶かされて、視界の揺らぎだけが残りそうになる。

「ボクはね、グルーシャ氏。……キミの、そういうところが好きだよ」
「——は、あ……!?」

 思いもよらない、そして理解もできない言葉。想定外に弾かれて顔を上げてしまえば、驚愕した自分をナンジャモの瞳に映すことになる。イタズラの成功に満足したかのように、飾られたその目が変わらない笑顔を作った。

「グルーシャ氏が、未練がましいひとでよかった!」ナンジャモが力強く微笑んで、意味のわからないことを繰り返す。「もしもキミが、過去から未来へとカンタンにフォルムチェンジしちゃうようなひとだったさー、『今』のドンナモンジャTVなんてとっくにチャンネル登録解除して、ボクのこと見限っちゃうでしょ? それとも、変わらず応援してくれてるー? ……キミとは解釈違いらしい、皆の者と一緒に」
「……それは」

 嫌だ、と思う。あんたの夢の成就を支える人たち。だけど、あんたを好き勝手に浪費する人たち。あんなふうにはなりたくない。だからといって、潔く視聴をやめることもできなかった。

「ね? キミは、そのどっちにもならないでくれた! 『ボク』のこと、忘れないまま、流されないで、好きでい続けてくれた! ボクは、そんなキミに……キミが向けてくれた未練に、救われたんだよ」
「……う、そ……そん、な……」
「ホントだぞー!」両腕を大きく広げてみせる。今でもよくやる仕草だけど、すっかり特徴的なものになった袖は捲られているから、懐かしささえあった。「さっきだって、ボク、ひっさびさに怒ったよ! ずっと前から『ボク』を知った上で好いてくれるキミがいてくれないと、ボクはもう、画面に映せない気持ちなんて、ひとりでいるときでさえ出せないの!」

 やめて。ぼくは、そんな大層な人間じゃない。あんたにそこまでの想いを向けられていい存在じゃない。
 そう弁明したくても、動揺と——必死に抑えつけ消している、こみ上げる熱のせいで、言葉を発することができない。怒りを思い出したように詰められることにも圧倒されて、ただ瞬きを繰り返す。

「だからさ、キミの未練がいけないことみたいに扱われるの、やだなー! 向こうはキミの弱点突いてやったとでも思ってそうなのも腹立つー!」

 いけないことじゃ、ないの? それがあると、足取りが重くなって、視線が後ろに向いて、余計な思考が増えて、前に進めなくなる。未練って、そういうサムいものじゃ、ないの?

「弱点なんかじゃないのにー! ボクの好きなグルーシャ氏に指差されたの、悔しすぎるよ……!」

 それが、怒りの理由? まるで、あんたのファンに辟易しているぼくみたいな言い方、を。

「キミはキミのままでいいんだからさ、ムリヤリ変えようとしないでよー!」

 ——ぼくが、あんたに向けている感情そのものの言葉、を。

「……待って。——それは違う、ナンジャモ!」

 耐えきれなくなって、やっと口を開くことができた。熱さを覚えていく胸の内の感情が溢れることは堪えて。やるべき否定だけに集中するために、両目に痛いくらいの力を込めて。

「ちが、う……! あんたが、ぼくなんかのために怒るのは、やっぱりおかしい……!」

 彼女じゃなく、彼女の瞳の中の、揺らぐ自分を睨む。荒く冷たい息を絶え絶えにして、曇る思考さえ放棄して叫ぶ。彼女相手に声を荒げているという事実を遅れて認識して、サムさを募らせる。

「あんたのほうこそ、わかってない! あんたのファンや、あの人……あんたを好いていながら好き勝手な望みで傷付けている人たちと、今あんたが散々言ってる相手と……! あんたにとってのぼくは、同じのはずだ! 自分の価値観と好感と記憶を押し付けて、あんたの『今』を否定して! いるだけで、あんたの腕を掴んで、過去に引き戻しかねない……! あんたが堂々と前に進むための、あんたの未来の、邪魔にしかならない! そんな、サムい存在の一人なのに、なんで、許容するの……!」
「ぐ、グルーシャ氏の自己評価がカイデンの涙にー……。……でも、そうだなー。確かにボクも、削除したはずの動画を初対面のファンに持ち出されて、『もうこういう企画やらないの』って冗談半分くらいに聞かれたら、確かにビミョーな気持ちになるかもー?」
「だったら、なんで!」
「——面白がって煽ってるだけか……ほんとに、『ボク』を愛してくれているかの違い。……そのくらい、すぐにわかるよ」

 露わになった腕が伸ばされる。指先の熱がまた頬を撫で、次いで背中へと回される。距離は完全になくなって、衣服越しの肌と肌との境が曖昧になることを錯覚する。背中に触れていた手が、無意識に固く握りしめていた拳へと落とされれば、その指はたちまち綻び解けていく。——彼女の言葉は、否定しようがなかったから。
 だから、冷たい指の一つ一つに、同じ数の体温を絡められることも。——震えた唇に、同じ柔らかさを重ねられることも。その重なりを深くされることも。拒ま、なかった。

「っ、ふぁ……あ、んん……っ」
「……っ」

 直接交わす温度の感覚は、時に言葉以上に饒舌になる。微かに零れる甘い声だって、最近の配信みたいな演技らしいものだったら、断るくらいできていたのに。虚飾なんかじゃないって、長年かけて積み上がった記憶のせいで、感覚的に、本能的にわかってしまう。あの子に、求められている。
 抱えた迷い全て、その想い一つに溶かしてしまいたくなる。そうして、唯一の感情を向け合う情熱に身を投じられるような人間だったなら、どれほどよかっただろう。情熱と表裏一体になった引け目があって、脳の奥から響く、自分自身に対する嘲笑は止んでくれない。彼女が、あれほど言葉も想いも尽くしてくれたのに。葛藤を生む二律背反、そのどちらに対しても、未練めいたものを抱いてしまう人間なのかもしれない。
 だけど、それでも。彼女から向けられるそれを——彼女の望みを、欲されているということを、拒めるわけがない。ずっと、前から——。

「……愛してるよ、ナンジャモ……『————』」

 自分から唇を離したせいで、いっそうの申し訳なさが募る。それを埋めるためにも、彼女の本名まで呼んで告げた。告げたかった。彼女の望みは叶ってほしいと願う形で、その想いを向け続けていたから。

「サムくて、苦しくて、情けなくても……あんたのこと、好きでいるの、やめられない……。……ごめんね」
「謝らないでよ、グルーシャ氏。……そのままで、いて」

 満足そうに微笑んだかと思えば、すぐに口の端を物欲しげにつり上げて、挑戦的な色をその目に宿す。不遜で傲慢なあの日の子供の心を、未だに捕え続ける笑顔。焦がれる心が昂ぶり、痛む。罪責が痛みを加速させる。

「あんたのこと、好きだから……。あんたが望んでくれるなら、応えたい。……でも、今は……。ちゃんと、あんたに尽くせるかどうか、わからない……。……ごめん、まだ、サムくて……」
「ニッシッシ! ご心配不要! 最初っから、このボクがシビれさせてあげるつもりだったから!」楽しげに笑って身体を左右に揺らすという無邪気な仕草をしながらも、その頬は艶やかな紅色に染まっている。「……悪い夢を見たなら、その分ボクに甘えたまえ! もちろん、ボクの愛は現実ぞよー!」
「……贅沢、だな……」

 任せきりというのも性に合わない。この先に進んでしまえば、きっとまたサムさに苛まれる。だからなおさら、差し伸べられた手の温もりを欲してしまう。己の才能一つを信じていたぼくが、たったひとり、自分を救うことを許した少女のものだから。
 悪い夢とはいうけど、あの人の煽動も、あの子供の挑発と悲憤も、全部現実だ。どうにもならないそれを前にして、また彼女に縋ろうとする。——やっぱり、昔と同じ。

『消そうにも、消そうにも、決して消えない炎……』

(……出て、こないで)

 頭を横に振って、くすぶる言葉を消す。もう、言われなくても認めるから、繰り返さないでほしい。
 彼女が望み許してくれるというのなら。ほんの少しでいいから、変わらず与えてくれるその炎に触れていたい。冷たい風に晒されて尽きてしまうものだとしても、どうか、今だけは。一瞬の甘く熱い夢から覚めた後は、このサムさをなくせるようにするから。
 懇願を込めて、一度自分から手を伸ばそうと思って——やめた。目を見開いて口角を上げ、けれどすぐに肩を落としたナンジャモには悪いけど、彼女の他にも、謝っておきたい相手がいる。

「……ごめん、ハルクジラ」

 振り向いた先には、気まずそうに視線を漂わせるハルクジラがいた。目が合えば、普段の勇ましさがすっかり潜み、アルクジラだった頃みたいな声で鳴かれた。
 まだ、キスくらいしか——それだって、触れただけのものではなかった——してないけど、気まずい思いをさせてしまった。羞恥によってこみ上げられる熱なんて、心地良くもなんともない。
 思えば、昼間の一件以降、苦労をかけてばかりだ。後でたくさん構おう。それから、ぼくについてきてくれるこの子のためにも、迷いを晴らすことができたらいい。——今はまだ想像もできない浮揚まで願ってしまった心苦しさを感じながら、ハルクジラをボールに戻した。

「……ナンジャモ?」
「ア、アワワワワ……」

 向き直れば、ナンジャモがぼく以上に恥じらっていた。さっきのハルクジラ以上に慌ただしく動く視線に、混乱すると目が回るんだということを、呑気にも実感させられる。さっきまではほのかに色付くようだった頬が、いっそう赤色を濃くしていた。

「ぐ、グルーシャ氏のハルクジラの目の前で、ボクからイチャつきに及んでしまったぁ……! フシダラなオンナって思われちゃったかなあ……!? そ、そんなボクなんかにキミは任せられないって思ったらどうしよう~~!」
「いや、そんなこと考えてないと思うよ……。考えてたとしたら、自分でボールから出てきてるんじゃないかな……」
「ほんとー!? いやもー、キミに夢中になりすぎちゃったあ……!」

 元々ドジを踏むことが多かったけど、いつしか計算して踏むようになっていった。今のは——多分、計算じゃない。今述べたような不安に、好き好んで陥りたくはないだろうし。

「……夢中、って……」

 背を向ける形で座っていたぼくと違って、ナンジャモからはハルクジラは見えやすかったはずなのに。間違いなく見えてはいたはずの巨体を思考から外してしまうほど、ぼくのこと、を。
 自惚れも甚だしいけれど。——おかしくて、うれしくて。ほんの少しだけ、笑ってしまった。微笑みを返してくれた彼女を映す視界が滲み、両目にこもる透明な熱が溢れることは、やっとの思いで堪えていた。