【05.26サンプル】レミニセンス・ライト(3/3ページ)

 

 彼の様子も、その言葉も、ボクの胸にじわじわと熱さをもたらしてくれた。
 さっき、彼のすべりを見ていたとき、当時世間を夢中にさせたニュースを思い出していた。その印象は、やっぱり正しかった。本当に、今ボクの目の前にいるのは、冷たい現実を知った大人じゃなくて、自分の望んだ道を切り開こうとした男の子なんだ。——ボクの、叶わなかった理想。それが彼のなりたかった姿なら、やっぱり、勧めてよかった!
「……気持ちだけ、ね。ロデオは総じて甘かったし、中盤のトリプルコーク——……。……跳んだときの回転数も増やせたはず……。全体的に、ブランク響いてるな……」
「そ、そなのー……?」
 ボクに合わせて専門用語を言い直してくれた優しさが沁みる。合わせてもらったところで、ひたすら感激して見ていたボクは、彼が挙げる反省点に何一つ頷くことはできないけれど。ただ、まだ上を目指してるの、ほんとにすごいなって思うだけで。
 「昔みたい」を否定するかのように改善点を挙げ連ねていくグルーシャ氏の、ボーダーとしてのプライドは相当高いんだろう。その一方、「楽しかった」と自覚してから、滑走が完璧じゃなかったと気付いたせいで、その出来栄えを意固地になって否定しているようでもあった。多分、照れ隠しのために。
 やはりグルーシャ氏、ちょっとめんどいとこあるよね。それさえもなんだか子供っぽくて、やっぱり愛おしいし、キライじゃないぞよ。
「……ねえ、グルーシャ氏!」
 でも、ボクの感動がうやむやになっちゃうのはイヤだから。ひとりきりの反省会で終わらせないために、ちゃんと伝えよう。
「ボクはシロウトだから……キミに的確なアドバイスとか、応援とか、できないと思うけど……。……でも! さっきのキミを見て、ほんとに……昔のキミのこと思い出せたよー!」
「……⁉ なん、で……⁉ 昔の、ぼく、って……⁉」
「あ……っ! え……えーっと! ほら! テレビとかネットのニュース、で……! キミの活躍、よく出てたしー! ちゃんと追ってたわけじゃないけどー、キミの大会の映像とか、解説とか、人並み程度には知ってた……と思う!」グルーシャ氏がかなり狼狽え出したから、ボクまでしどろもどろになってしまった。「とにかく……さっきのキミは、そのときのキミにも、それから、先月のバトりのときのキミにもそっくりで……かっこよかった! 横目で見てたニュースをはっきり思い出せたくらいだし、キミがキミだったのは、絶対間違いない! だからだから、もっと自信持ちたまえ! そんなグルーシャ氏なら、ブランクなんて乗り越えちゃうよ! これから先どこまでも……なんだってやれそう!」
 言いたいこと、ちゃんと言葉にできてるかな。長年の配信で鍛えたトークスキルさえ動揺してるけど、言わずにはいられなかった。
 なんだってやれる、なんて、子供みたいな思い込みかもしれない。それでも、グルーシャ氏ならって思えた。なにせ、不可能を撥ね退けようとしていた絶対零度トリック、なんだから!
「……そ……っ、か……」
 驚愕に染まっていた表情が綻んでいく。見開かれた目が細められて、あどけない笑顔になっていく。
「先月も、それから今も……機会をくれたことも含めて……ありがとう、ナンジャモ。……他でもないあんたにそう思ってもらえるのが、一番うれしい」
「え、あ——……⁉ ほかでも、ない……⁉」
「言ったよね。大会前とか、元気もらってたって。……そのあんたに見てもらえて、応援までされるなんて……。ほんと、夢みたいだ」
 少年のような貌のままで、そんなこと言うから。全身が、一気に熱くなっていった。焦がれるって、こういうことなんだって理解した。
「……うむうむ! これからも応援してるぞよ〰、グルーシャ氏! ……」
 ——ねえ。こんな、当たり障りのないことを言う寸前、ボクがなんて言いそうになったかわかる? ——「ボクも、キミにそう言ってもらえるのが一番うれしい」「これからもキミのこと支えたい」って、心に浮かんだまま、言おうとしたんだよ。
(……やっぱり、ダメだ……)
 「誰か」じゃなく、キミの特別になれてるかもしれないってことがうれしかった。「視聴者」じゃなく、キミの夢に少しでもかかわれて、だけどそのキミがボクの一番の視聴者だってことが、たまらない。「みんな」じゃなく、キミの笑顔をもっと見ていたい、見せてほしい。画面で隔てられた視聴者の笑顔って、直に見れなくてもいいはずなのにね。
 ボクは、欲深い。だからここまでのし上がれた。だから——ダメだと思っているのに、キミに近付くのをやめられない。キミの傍で、キミの特別であり続けたいと願ってしまう。キミひとりに、今以上に、ずっと、愛されていたいと欲してしまう。 そして、欲深いの、抑えられないし、隠せない。色々と賢くなれた今でさえ、「失言」のフリして野心を零してしまう。昔はそうやって、下手に隠そうとすることさえしてなかった。この想いも、きっとすぐに誤魔化せなくなる。何もかもを忘れて、キミに縋るようになる。——既に、そうなっているのかも。
「……ねえ、グルーシャ氏……」
 キミは、ボクの強欲も、それを自分で堪えるのが本当は今でも下手だってことも、知ってるよね。だから、これからキミに、酷い役目を押し付ける。我儘な配信者で、本当にごめんね。——そんなボクを、見守ってくれてありがとう。
 キミが、ボクの配信を観てくれたひとでよかった。キミが視聴者でいてくれるから、ボクも配信者としての一線を越えずに踏み留まろうって理性が、辛うじて生きている。本当に、キミにふさわしいボクになりたいなら、そうするべきだって思える。——留まる理由さえキミになってる。はやく、今すぐ、どうにかしないと。
「……ボクのこと……。……嫌いって、言って……」
 ボクの配信を、夢を、ずっと支えてくれて、大事にしてくれてありがとう。そんなキミなら、ボクのこと、ちゃんと傷付けてくれるよね。

「……は……⁉ いきなり、なに……⁉ なにがあったの——」
 発した声は思っていたよりも大きく震えていて、動揺を自覚させられる。満面の笑顔を輝かせてはしゃいでいたさっきまでとは打って変わった彼女の様子は、それほど不意の衝撃だった。混乱と焦りを覚えながら、その理由を求めようとして——すぐに、納得した。
(…………そっか)
 紅潮した頬、潤んだ瞳、ぼくへと向けることと、逸らすことを繰り返す視線。——誰かを、乞う人間の顔だ。こんなにも、胸が締め付けられるものなんだって、初めて知った。
 わかっていた。わかっていた、はずだった。彼女がぼくを特別視していること、そしてその果てにあるものと、危うさも。わかっていて、気付かないように努めていた。楽観的になって、見逃していた。ぼくがそうやって遠ざけてきたものに、彼女も気付いたんだ。——気付かなければ、よかったのに。
「……早まらなくていいよ。……ウィンタースポーツに慣れてないと、それをやってる人間が魅力的に見えるって現象がある。……あんたのそれも、そういうサムい錯覚。だから、気にする必要は——」
「——違う‼」
 心の底から絞り出したような叫びだった。凛とした哀しい響きに、言葉の先が断ち切られた。
「……ごめんね、グルーシャ氏……。……ボクのために、言ってくれたんだよね……。でも、ごめんね……。信じてもらえるかどうかは、わからない、けど……。ボクは、ずっと……」
「いや……。……こちらこそ」
 知ってるよ。今日を迎える前からそうだった。あんたがくれた信頼だけでも、今まで誰にも向けられたことのない、固いものだった。あんたの本気だって、観てきたから、感じられる。最近では、あまり観られない一面だけど——あんたは一度決めたことをなかなか曲げないから、この程度ではぐらかされてはくれないか。なかったことにしようとしたこと自体、あんたに対する非礼だったかもしれない。
「……わかってる? 自分が、何をしようとしてるか……。……どう、なるのか……」
「……うん」
 脇に逸れた逃げ道を塞いで、険しく冷たい道に進んで、傷付こうとしている。表面上の傷を避けて、のし上がることを覚えているはずなのに。——すごいな。やっぱり、あんたは強いよ。
「……配信者としての、あんたのため?」
「うん……。……グルーシャ氏だって、イヤ、でしょう……? こんなの、バレたら……このままじゃ、ボク、やっていけなく、なるかも……」
「……そうだね」
 自分一人で結果を出せば良かった世界にいたぼくでさえ、スノーボーダーでいられなくなったときは、色々と言われた。そして彼女は、平等に愛さなければならないファンの存在を必須とする立場にある。その立場にいたまま、彼らとの間の鉄の掟を破ってしまえば、どうなるか。所詮は暗黙の掟だという正論さえ言い訳に成り下がるくらいの、そのリスクだって、わかっていたのに。
 配信業と、そしてその世界の頂点に立つことは、彼女の夢だった。夢とささやかな幸せ一つなら、どちらを取るかなんてわかりきっている。まだ叶う夢、叶えたいと心から望める夢なら、諦められるはずがない。だから、ぼくが彼女にかけるべき言葉だって、わかる。
(…………っ)
 目元から頬にかけてはっきりとついた涙痕と、色濃くなった袖。感動して泣いたと言っていたけど、きっと、それだけじゃなかった。気付いたばかりの気持ちだったとしても、どんなに短い時間だったとしても、もう十分悩んで、苦しんだはずだ。だというのに、これからもっと抉られて、苦しむことになる。——ぼくが、そうさせる。
 それでも、やらなければ。彼女と、彼女の夢のために。彼女だって、それを望んで、ぼくに託した。
「……。……あんたには、近付きすぎたね。……ぼくの落ち度だ、悪く思ってくれていい」
「ち、が……! グルーシャ氏は、悪く……!」
「悪いよ。……距離感間違えようとしてるあんたを止めずに、ここまで来たんだ。ジムリーダーになる前に、あんたの一視聴者だったくせにね。自分の立場を弁えず、良くないことを良くないって言えないのも、無責任だった」
 喉の奥に生まれた、凍てつくような痛みが増していく。彼女が息を呑む度に、胸に冷たい刃が突き刺さる感覚がする。冷淡な態度と残酷な言葉で現実を示して、相手の心を折るなんて、何度もやってきたことなのに。今はこんなにも、くるしい、さむい。
「ボクの、せいで……。ご、め……グルーシャ、氏……」
「あんたのせいじゃないし、謝罪だってしなくていい」そんな言葉、聴きたくない。言わせたくない。本当に、あんたは悪くなんてないから。「幸い、まだ問題にはなってないんだ。今から引き返せばいい」
 彼女を、砕きたくない。砕かなきゃ、いけない。はやく、終わらせたい。
「先月かな。『互いに、問題にならない範囲で』って、言ったよね」
「……うん」
「あんたのそれは、その範囲を越えようとするものだ。……立場が立場だから、ぼくは応えられないし、応えてはいけない。だから……ぼくのことなんて、忘れて」
「…………」
「……あんたには、これからも輝かしい将来があるんだ。古参一人との私事程度手放したところで、それは揺らがないよ」
 頼むから拒まないで。抵抗なんて、しないで。これ以上、傷付かないで。傷付けさせないで。
「……何が一番大事なのか、よく考えて。……考えられたから、こうしているんでしょ」
「……う、ん……。……ちゃんと、考えた……。考え、なきゃ……」
 今にも崩れてしまいそうな微笑みを浮かべた瞬間。その瞳が大きく揺れて、左目から透明な雫が零れ落ちた。そう経たないうちに、雫は両の目から溢れ始め、とめどなく彼女の貌を濡らした後で、いくつかは足元の雪へと消えていく。
「……あり……がとう、グルーシャ氏……」
「……ぼくの言ったこと、できそう?」
「……ん……」肯定か否定か、よくわからない返事だった。「……がんばる」
 下手な笑顔のままで、無理矢理なほど力強く、苦しげに頷いた。大きな袖で一度顔を拭ったところで何も変わらず、絶望とそれを覆い隠すことを、涙ながらに繰り返している。
「今日、一緒に過ごせて、楽しかった……。……ほんと、に、ありがとう……っ」しゃくり上げそうになったのを誤魔化して首を横に振ったことが、わかりやすかった。
「また、ね……グルーシャ、氏……」
 「またね」、か。別れの挨拶の中でも、「次」を予感させるもの。深い意味なんて込めずに使うのが当たり前だけど、こんなときでも使うくらい、クセになってるのか。
「……。——待って」
 振り返り去ろうとする彼女が、ぴたりと足を止める。涙を零し続ける瞳が、もう一度こちらに向けられた。——そこに滲む期待に気付いて、手を伸ばしたくなる心を凍らせて、目を瞑った。
 選んだ別れの言葉にも、捨てきれていない希望にも、触れはしない。ただ、それらが叶う可能性を潰して、あんたに託されたことをやり遂げる。それが、あんたのためなんだろ。——実際のところ、その問い掛けはどこに向けているのか、わからなくなってきた。自分に言い聞かせたかっただけかもしれない。
「……チルタリス。彼女のことを送っていって。……降りる場所はあんたが決めて。……ここから遠い方がいいな」
「……うん。……でも、また、お借りしていい、の……?」
「…………」どうせ、今回が最後だ。それに。「もうすぐ、また雪が降りそう。……だから、早く離れた方がいい」
 鉛色が濃くなる空を見上げる。新雪が積もるのはいいけど、ここから一段と冷え込むと思うと、嫌になる。
「……ふふ……にし、し……。ずるい……やさしい、なあ……」
「……どこが」
 離れろと言っているのに。雪景色の中にいてほしくないって思うのも、ぼくの単なる我儘。ぼくがあんたを助けるためにできることなんて、遠ざけることだけだ。あんたの本意に反してでも。
「……ごめんね」こんな謝罪一つで、何も変わらないだろうけど。
 青色の背中の上で、少女は寂しげに笑った。

 飛び去って行く華やかな色と、綿雲の翼を、雪上から眺めていた。点より小さくなった後も、ずっと見上げていた。
「……よかった」マフラーを握りしめ、唱えるように呟いた。
 風は冷たいだろうけど、吹雪に晒されるよりは早く、ここから逃れられる。互いがいるべきところに、戻れる。
 やるべきことはやった。ただ、彼女が必死に創り上げた結晶のような覚悟に応え、彼女がひとりでは捨てきれなかった望みを踏み躙り砕いて、拒絶できれば、彼女を進むべき道へと帰せたんだ。
 ——どんな言葉を使うかは、きっと、そこまで重要じゃなかった。そうだろ、傷付き諦められさえすればいいんだから。別に、あんたが言った、言葉じゃなくても。

『……ボクのこと……。……嫌いって、言って……』

「……言えるわけない、そんなこと……」
 あんたがどんなになっても、その気持ちだけは浮かばなかった。どれほど自分を冷たくしても、その嘘だけは、吐きたくなかった。
 どうせ拒むなら、その本音だって、あんたに言えればよかったのにな。