「1号! ここ! ここにしよう!」
指令室を後にして自販機を目指し始めてから、2号の気分の萎えはすっかり回復した。硬貨片手に1号の元を訪ねたときと同じくらいの明るさを取り戻していた。
この状況に至った経緯は些か不本意なものとはなってしまった。だが、そのことについて思い悩んだところで生じるものなど一つもない。もう切り替えて楽しむことにしよう、そして1号にも楽しんでもらえるように——そう思ってのことだった。
2号が指差したものは、指令室に向かう前に彼が眺めていたものではなかった。今ふたりがいるのはとある休憩室で、目の前には廊下に置かれていたものとはまた違ったラインナップを要した自販機がある。
折角だから全ての設置箇所に行って、どの自販機で買うか決めよう——という、2号の提案が発端だった。あちこちの休憩室から廊下の隅々、果ては屋外のスペースに至るまで、基地内のあらゆる自販機を訪ね歩き、記念すべき初の買い物と飲料摂取に用いるものを定めた。おかげで高かった日はもう暮れようとしている。
何も飲んだことのないふたりには、飲料の味や好みを判断材料とすることはできない。2号が雰囲気と直感のみで判断して、ここに決まったのだ。
「とりあえずはお金入れなきゃな。……やる?」
「……? おまえが入れればいいだろう」
「じゃあ、お言葉に甘えて……」
細い投入口に硬貨を入れる。人間が日常的に行う些細な動作だが、人造人間ガンマにとっては初の体験で、言うなれば非日常だ。しかも、2号の傍らには1号がいる。これから1号と“お茶”をするのだ。その実感が高まって、2号の胸は大きく弾んでいる。たった一枚の五百ゼニー硬貨をマシンに差し込むことでさえ、栄光への誉れある一手のように思えた。
「あ、1号。先選んでいいぞ」
「……まだ決められていないから、おまえが先でいい。おまえは決めているのか?」
「どれも知らないものだし、気にはなるけど……今回は甘いものにしようかな。何か身近な感じがするっていうか……。ほら、博士がよく食べてるものも、『甘い』んだろ?」
「らしいな。味覚の個人差は大きいものではあるそうだが、博士のお気に入りの味となれば、『美味しい』と思える可能性も高まるはずだ」
うんうんと頷いて、2号は人差し指をボタンの上で迷わせる。甘いと思われるものとなれば自然と候補は限られてくるが、それでも一つには絞られない。
「リンゴジュースにココア……フルーツオレに……抹茶ラテも甘いのか? どれがいいんだろうな、この中で何かオススメとかあるか?」
「あるわけないだろう」
「だよなー」
当然、1号も飲食物を口にしたことはない。しかも彼との“お茶”を密かに楽しみにしていた2号と違って、味覚への関心も無に等しい。その1号に勧められる甘味飲料があるわけがないと2号も理解しているが、その上で意見を求めた。たとえ意味や生産性などなくとも、2号は1号とただ話すことを好んでいた。
1号から直接の助言を得ることはできなかったそんな2号の脳裏に、ある言葉が浮かぶ。その少しだけ前には、間接的なヒントを1号から得ていたと気付いたためだ。
「——決めた! ボクはこれにする!」
人差し指の腹を、迷いなく一つのボタンに押し付ける。ピッという高い電子音と、ガコンという下方で何かが落ちる音が同時に響く。
しゃがみ込んで受け取り口に伸ばした指先に、手のひらに、丸みを帯びた金属の感触が伝えられる。特殊な素材で織り成されたグローブ越しではあまり温度を感じることはできないが、それを掴んで握り締めた瞬間、2号は最高潮の期待に基づく心地良い冷感を錯覚していた。
「……か、買えたあ……! 買えたぞ1号!」
「……良かったな」
感動を露わにして、2号は取り出した缶を1号に見せる。
現在この休憩室にいるのは彼らのみだが、もし誰かが2号の様子を見ていたならば、欲したものを包んだプレゼントを受け取った、幼き日の自分を思い出すに違いない。
「アイスココア……か」
「ああ! ほら、1号も言ってただろ。ヘド博士のお気に入りの味なら、『美味しい』って思える可能性も高くなるって!」
ヘドが特に好んで口にしているクッキーはココア味。それを思い出したことが判断の決め手となった。
「そうだ! 折角だから、1号はこれとは違うやつにしたらどうだ?」2号は次なる名案をも思いつく。選択に悩んでいる1号の助けともなるはずのものを。「そうしたら、お互いのを一口飲み合って、二種類の飲み物を味わう……ってこともできてお得だろ。もちろん、1号もココア飲みたかったら、それでもいいけど」
「おまえが二種類飲みたいと言うなら、別のものにしよう。……二本目もおまえが選んだ方がいいんじゃないのか? 一口だけでも飲むことになるなら……」
「いやいや、それじゃダメ! あくまで1号の分なんだから、1号が選ぶんだ」
後方に回り込んだ2号に両肩を掴まれた1号が、自動販売機の前へと押し出される。投入された代金は残り三百五十ゼニー。もう一本を購入する余裕は十分にあった。
陳列棚を一瞥してすぐ、1号は赤いランプが灯った黒いボタンを押し、腰を折り曲げる。掴み出されたスチール缶は、2号が手にした赤みがかった柔らかなブラウンとは異なり、一切の光を通さない黒を纏っていた。
「コーヒーか。確か、苦いってやつだろ? ココアと飲み比べてみるのも面白いかもな」
1号の言葉とヘドの味覚を参考にしてココアを選んだ彼の中では、「美味しいものは甘いもの」という方程式が組み上がりつつあった。そのせいで、期待はどうしてもココアの方が上回ってしまう。1号は美味しいものを味わいたいという思いが薄いからコーヒーを選べたのかもしれないと、コーヒー好きの人間を敵に回しかねないことを2号は考えていた。
それでも、2号がコーヒーに対しても素直に関心と期待を向けていることもまた確かだ。自身が目論んだ、1号との“お茶”を成立させてくれる飲み物のうち一本であることに変わりはない。それに、どこか大人びた雰囲気を醸し出すコーヒーの缶は、クールな1号によく似合っている。その様が2号の高揚を掻き立て、コーヒーそのものへの期待を高めていた。
「乾杯ってやつやってみないか?」
「乾杯……ああ、分かった」
互いにココアとコーヒーの缶を軽く掲げて触れ合わせる。高く響いた軽やかな金属音が心地良かった。
この音を聴くこと——1号と乾杯をすることは、これが最初で最後になるかもしれない。——胸中に広がり始めた感傷を誤魔化しかき消すように、2号はアイスココアの缶を開封し、口に当てて傾けた。
「……!」
感じたことのない直接的な愉楽が、舌を包み、口腔を満たす。自身の理解が追い付くよりも先に、舌が、脳が、心が、喜びを自覚する。まろやかで深く優しい味わいを享受して、2号はまた一つ、人間の感覚を知ることとなった。彼の主含む者たち同様、この味に心躍らされたのだから。
「1号……! これ、すごい! これすごいぞ! 『甘い』とか『美味しい』って、こういうことなんだな!」
「おまえの口に合っていたようだな。何よりだ」
ココアの柔らかな香りと、コーヒーの玄妙な香りとが混ざり合う。目を輝かせて報告する2号に答えつつ、1号もコーヒーを味わっていた。どうやらこちらも飲めるものであるらしいと断じて、2号はコーヒーに対して抱いていた警戒心を捨てた。早く1号にもこの「甘い」という感覚を知ってほしかったし、1号が今感じているであろう味のことも知りたかった。
「1号、そっちの一口飲ませてくれよ。このココアと交換な」
「いいぞ」
優しい香りが2号から少しだけ遠ざかり、代わりにより深く複雑な香ばしさが2号の嗅覚センサーを刺激する。どうやら1号が選んだ温度はホットであったようで、2号の手にもグローブ越しにその熱が伝えられた。
先ほどまで堪能していたココアとはやはり異なるそれに、少しばかり圧倒される。それでも、期待と関心、気分の高揚が上回り、2号は恐れることなく未知の飲み物に口付けた。
——2号がコーヒーに対して抱き続けていた直感は、少なくとも彼にとって正しいものだった。
それを口に含めた瞬間。熱さの中の「苦い」というものを理解した2号の本能めいた部分が、けたたましい警鐘を鳴らす。もちろん幻聴だが、2号は無我夢中でそれに応じ、大慌てでコーヒーを呑み込んだ。一刻も早く、味覚器官がそれに包まれているという状況を脱さなければいけなかったのだ。嚥下の瞬間には一層濃い味と刺激を感じてしまうこととなったが、一心不乱に耐えた。
「2号?」
目を閉じてココアを味わっていた1号だったが、2号のただならぬ様子に気付く。目を開けば、そこには未だコーヒーの味が残る口内に新鮮な空気を取り込むべく口呼吸に及ぶ2号の姿があった。このように呼吸を繰り返すことは、ガンマにとっては尋常でない事態に見舞われていることを何より証明するものだ。
「い、1号……。……おまえ、よく、これが飲めたな……」
鈍い刺激をもたらすこの飲料に、表情一つ変えることなく口付けていた1号への感嘆。少しずつ落ち着きを取り戻した2号の中に湧き始めていた感情だった。
「無理そうか?」
「ああ……。『苦い』っていうの、ボクはちょっと無理かも……。……1号は? ココア、どうだった?」
「良かったぞ。柔らかで飲みやすい味をしているな」
「そ、そっか……! 良かった……!」
コーヒーへの反応がここまで違うのだ、自分たちは味の好みも正反対であるのかもしれない。そうなると、自分が絶賛したココアの味は、1号にとって快いものではないのでは。——感嘆の次に2号の中に浮かんだのはそんな危惧だったが、杞憂と知って安堵する。ほんの僅かに上がった1号の口角が、「美味しい」という思いを物語っていた。
「もう交換はやめて、おまえはこっちを飲んだ方がいいんじゃないか? ココアはまだ残っているぞ」
「そうさせてもらうよ……。コーヒーは頼んだ」
冷たい缶を手にして、中身を一気に呷る。濃厚な甘味が、一度苦味に打ちのめされた2号を癒してくれた。
「でも……。……すごいな、1号」
口の中に残っていた苦味は甘味に上書きれ、2号は取り戻した「美味しい」という感覚に満足する。しかし、自身が諦めたコーヒーを難なく味わい続ける1号に対する羨望だけは拭われなかった。
「味覚についての嗜好は個人差が大きいと聞く。それに、苦味への忌避は毒性を感知して拒絶するために備わっている感覚らしいな。だから、おまえの反応はおかしなものではないだろう。味覚が正常に機能していると言ってもいい」
「そうかもしれないけど……。でも、実際はコーヒーに毒なんて入ってないだろ。それをちゃんと分かっているなら飲めるはずなのに。1号ができていたみたいにさ。『苦い』ことを反射的にダメなものと思わずに、ちゃんと奥深くまで味わうことができるって……何というか、カッコよくないか?」
「……カッコいい?」
味覚一つにそんな言葉が使われるとは思っていなかった1号が面食らう。自ら口にしたその表現に納得した2号は「そうだよ、カッコいい!」とはしゃぎ出した。
「もちろん、味の好みで全てが決まっちゃうってことはないと思うけど。でもほら、酸いも甘いも噛み分ける、とか言うじゃないか。たとえ甘いものが好きでも、苦いのものもいけるって方が、絶対カッコいい!」
1号と、彼が持つコーヒー缶——今この瞬間に強く憧れているものを交互に見比べながら2号が言う。ココアとコーヒーに口を付ける前から、その組み合わせには漠然と惹かれていた。そしてコーヒーの味を理解した今、それを飲めてしまう1号の姿は、より輝かしいものとして2号の目に映っていた。
「よし、決めた! 1号、ボクもコーヒーを飲めるようになる! なってみせるからな!」
「……意気込みはいいが、どうやって味覚を変えるつもりだ?」
「それはもちろん、何度もコーヒーを飲んで慣れるんだよ。毒とかじゃないって学習できれば、きっとゴクゴク飲めるは、ず——」
高らかに計画を語る最中、2号はとある問題点に、1号に訝しまれてしまった理由に気付く。
何度もコーヒーを飲む機会など、ない。彼らの全財産五百ゼニーのうち、既に半分以上がココアとコーヒーに代えられている。缶コーヒーをもう一本買えるだけの残高はあるが、もう一本で苦手意識を克服できるかどうか。——分の悪い賭けだった。
「そ、そんなあ……! コーヒー、飲めないままなのか……!?」
嘆きの声には色濃い落胆が宿っている。嫌だ嫌だと、2号は心の中で駄々を捏ねた。何としてでも、苦いコーヒーを嗜めるカッコいいガンマ2号になりたい。代金を支払うことなくコーヒーを手にできないだろうかと、都合のいい環境を夢想する。
「——あるじゃないか! タダでコーヒーを飲める場所!」
「何だと?」
「ここに来る前に、他の休憩室も見てきただろ? ここにはないみたいだけど……一つ上のフロアのところにはあったはずなんだよ、コーヒーを淹れられるマシンがさ!」
「そういえば、兵士や研究員が使っていたな……。料金の支払いや、隊員証の提示を行っている様子もなかった」
「! だよな、やっぱりあれってタダで手に入るコーヒーだったよな!」
「……だが、それを使用することは推奨しない。あれは軍の人間たちのために開かれた設備だ、飲食や休憩を必要としない我々が、何の対価も払うことなく材料を消費するのは……」
「ちょっとくらいなら大丈夫だって! 使用率が上がれば、置いた人も喜ぶんじゃないか? コーヒー飲むために使うんだから、悪用してるわけでもないし。な、一日一回くらいならいいだろ?」
すっかりその気になっている2号は強く、生真面目な制止をされても揺らがない。
コーヒーを飲めるようになる。——そして、1号とふたりでコーヒーを飲む。新たな目標に向かって踏み出せるところまであと一歩、どうにかそれらしい理由や条件を述べて、1号の説得を試みた。
苦味をものともせず、涼しい顔で飲んでみせたガンマ1号と並び立つにふさわしい人物となるためにも、その目標を達成したかった。
「……あ、ココア飲み終わっちゃった。ごちそうさま~!」
2号は空になった缶を傍らのゴミ箱にぽいと投げ捨て、もう一度自販機の前へと向かう。取り付けられているレバーを下ろしてやれば、百ゼニー硬貨二枚と十ゼニー硬貨一枚が釣銭受け取り口に落とされた。
「もういいのか? あと一本は買えるんだろう?」
「ああ」
あと一本しか買えないからこそ、もう良かった。2号の目的は、あくまで「1号との“お茶”」。一人分の飲み物しか手に入らないというなら、今はこれ以上その目的を果たすことはできない。
この場にこだわらずとも、今度は上のフロアの休憩室に行けばいい。自分の特訓のために向かうと決めたことだが、2号は1号のことも連れて行くつもりでいた。
1号との“お茶”が最初で最後にならなかったことを思い、2号は未成長の己の味覚に感謝した。苦味への耐性のなさがあったからこそ、それを克服しようという思いが生まれ、「次」の機会を掴むための執念に繋がった。
「だけど、このお釣りどうしよう?」
「……ヘド博士にお渡ししよう。……最初からそうしていれば良かったかもしれないな……」
「いやいや、ちゃんと自販機で飲み物買うために使わないと、あの兵士のご期待には沿えなくなっちゃうぞ。それに……飲み物、美味しかったろ?」
「……そう、だな。……美味しかった。それは、認めよう」
コーヒーを飲み終えた1号が、ほんの僅かに顔を綻ばせる。
発端こそ2号の思惑からはズレてしまったが、最終的には記念すべき第一回目の“お茶”は成功した。味覚を働かせるという未知の経験を共にできて、その末に1号は柔らかな表情を浮かべたのだ。そのことに、2号の胸中はココアを堪能したとき以上に満たされていた。