「……う、うう……」
1号に向けてひらひら振っていた手のひらで、痛む頭を抑え込む。次第に耐えきれなくなって、その場に蹲る。
この呻き声も、膝をついたことで立ててしまった音も、1号には聞こえていないといい。1号が去ってしばらく経っているから、その心配はない、と思うけど。もし聞こえてしまったら、1号は戻ってくるかな。入口の傍で俯いてしゃがみ込んでいるところなんて見られたら、どう言い訳すればいいのか。今度こそボクが何を嫌がっているのかバレるかもしれないし、そうなったら色々と情けないな。でも、1号がボクのことを心配して、様子を見に来てくれるなら、きっと喜んでしまう。
現実にはならない妄想をして、ちょっとだけ気分を上向かせた。のろのろと立ち上がり、重い足取りで奥のソファへと向かう。好きなひとに心配されるのもいいけど、ボクは男で、ヒーローだから、一番見てほしいのは余裕溢れるカッコいい姿だ。何でもない顔をして1号を出迎えよう。
だけど、今日戻ってきてくれるかどうかは分からないか。もうすぐ夜の七時。1号が業務を終えるときは、一日の活動終了時刻を迎えるのも間もなくという頃になっていそうだ。ここには立ち寄らずにエネルギー補給装置に入ってしまうかも。
「……はあ……」
ソファの肘掛け部分に顎を乗せる姿勢で倒れ込む。重厚な金属の身体を乗せたせいで、ボロボロのソファが大きく軋んだ。まずい、と焦りを覚えたものの、大事には至っていないとすぐに分かって安心する。ガンマの身長を収められるほどのサイズはないから、足は空中にはみ出てしまう。「だらしない」と1号に言われてしまう寛ぎ方だけど、その1号は今いない。それに、寛ぐという気分でもなかった。
寝返りを打つことのできない狭さへの不快感が押し寄せてくる。いつもは気にならないことなのに、という困惑が転じた苛立ちも不愉快を助長する。せめて、もっと広いところで横になれたら。
——ベッド、欲しいなあ。キングサイズの立派なやつじゃなきゃ嫌だとは言わない。医務室にあるやつでいいから。でも、1号は一緒に寝てくれないよな。ボクの片想いだし。そしてもうすぐ、当たり前のようにボクひとりと一緒に過ごしてくれることもなくなるんだ。だったら、意味がないな。どんな家具も、この部屋も。
適度な広さの空き倉庫を見つけ出して、軍のあちこちで集めた廃棄寸前のインテリアを持ち込んで、それらしく仕上げたガンマの部屋。何も、ボクひとりのために手に入れようと決めた空間じゃない。1号とふたりで、ふたりきりで過ごしたくて作り上げた、ボクたちだけの秘密基地だ。ニンゲンが暮らすような家や部屋に比べれば、きっとまだまだ物足りないけど、頑張ったんだ。あれこれ手に入れるため、話の分かる軍の人たちと交わした交渉もそうだけど、何より、1号をここに招くことを。
倉庫を使って部屋を作ってみたい。そう最初に相談したときには、「必要のない勝手な行いをするな」と一蹴された。それでも、諦めることなく、少しずつ、少しずつ。任務のことしか考えていなかった1号の手を引いた。1号は鋼鉄の心の奥の柔らかいところを、ボクに見せてくれるようになった。そうして、やっと。まるでニンゲンみたいな穏やかな時間を、ここで、共にできるようになった。
嬉しかった。ボクは1号のことが好きだから。1号とふたりきりでいられるのが好きだから。ヘド博士の最高傑作たる人造人間ガンマがボクと1号だけだということも、率直に言ってしまえばそれはもう、大変気に入っていた。ボクだけが、こんなに素敵なひとと同じ立場の、同じ力の持ち主だ。博士に忠実に尽くし、博士の属するこの軍にも恭順に従う1号が、ボクだけには対等な目線で接してくれる。生憎、恋人という甘い関係にはまだ至れていないけど、もう既に、他の誰もが真似したくても不可能な、唯一の関係を築いているんだ。そういう意味でも、「ふたりきり」だ。
「……ふっ、はは、ははははは……」
思わず零した笑い声は乾いていた。笑いたくもなるだろ。
1号と同じ立場、同じ力を持っているのは、ボクだけじゃなくなる。これから創られる、ボクの知らない誰かのことを、1号はボクへと向けるものと同じ眼差しで見つめることになる。「ふたりきり」なんて、所詮はボクの見た都合のいい夢で、とんだ自惚れだったんだ。
三号機? それとも一気に五号機くらいまでできる? いや、ヘド博士は「ヒーローは多ければ多い方がいい」と仰っていたって、1号が言ってたな。だったら一気に二十体くらい増えちゃうかも。ボクの大事な「ふたりきり」に、ボクに断りもせず踏み入ろうとする彼らはどんなやつなんだろう。ボクと気が合いそうな陽気なやつかな。そうだとしたら、1号は軍にも慣れてきたボクよりそいつのことを優先するようになるかもしれない。それとも、1号の言うことにうんうんと頷けるようなお堅いやつ? ボクよりもそいつの方が、1号に信頼してもらえるかもしれないな。
「……嫌だ…………! 嫌だ……ッ‼」
どうして、どうして! ボクには1号だけなのに! 1号さえいれば良かったのに! ボクが最高のヒーローと認めて憧れたのは、完璧な姿の中にひた隠しにした純粋な一面まで好きになったのは、1号だけなのに! たとえ同じガンマでも、今更、1号以外の誰かをここまで好きになることなんて、できない!
だから、その誰かが——後続機たちがボクを差し置いて、当たり前のように1号の隣に立っていたら、ボクはきっと歯軋りするどころじゃ済まないだろう。1号の一番近くというボクの居場所に、1号のことを何も知らないようなやつが割って入ってきたら、ボクはそいつのことを許せなくて突き飛ばしてしまうかもしれない。ボクと1号のこの部屋にも入って来ようとするんだろうか。嫌だ嫌だ、入れたくない。ここはボクと1号だけの空間なんだ、他のやつのことなんて一切考えずに作ったのに!
「——何だ……? ……ボク、何を考えているんだ……?」
その思いは——いずれ迎えるかもしれない光景への恐れと怒りは、同型機たちにとって、あまりにも理不尽で不条理なものだ。ボクはここまで子供じみていたのか? こんなにも排他的になってしまうような、嫌なやつだったのか?
ボクとも、1号とも同じガンマなんだ。その後続機たちが1号に近付いて仲良くなるのは、全く、悪いことなんかじゃない。ボクが今そうできているように、彼らにだってそうする権利はあって、ボクにそれを拒む権利はない。考えなくても分かることなのに、こんな——嫌だとか、許すか許さないかとか、そんな発想をしてしまうなんて、おかしい。
ボクだけが1号の傍にいるという「ふたりきり」の現状は、偶然のものだ。たまたま、ガンマの製造が二体目のボクで一時停止となっただけ。だから、1号にとって対等な同型機がボクひとりであることも、ただの偶然。しかも、そう遠くない将来に消える偶然だ。ボクは、1号の頼れる仲間たち、そのひとりに過ぎない存在となる。どれほどボクが1号を特別に思っていたところで、ガンマはヘド博士の前にすべからく平等だ。至極当然で嘆くようなことでも何でもない。
増えたきょうだいが1号に焦がれ近付いて、1号がそいつを受け入れたとしても、何もおかしくはない。あの1号が誰かに心を許せるようになっているのは寧ろ喜ぶべきで。たとえ、その相手がボクじゃなくても。
だって、その相手とボクに差なんてないから。彼らより先に、1号と距離を縮めることができていたとしても、ボクと1号はただの同型機同士で、それ以上でも以下でもないから。ボクが大切にしている1号との関係は、これから創られる誰かも持っていて、真似できるものだから。
「あ、あああ……うわああああああああっ‼」
自分自身で言い聞かせたことにすら反発して絶叫する。叫んだ拍子に動いた身体はソファの狭さと強烈な絶望感に阻まれ、癇癪を起した子供のように暴れることもできない。遂には、ソファの前に置かれた古びたローテーブルの角に、頭を強打しながら呆気なく床に落ちた。起き上がらなきゃとどこかで思っても、それに従えない。何もかも億劫がで、嫌だった。
嫌だ。ボクには1号だけであるように、1号にもきっとボクだけなんだって、バカみたいに疑わず信じていたことが崩されたのも。ヘド博士が望んだ最高傑作たちを逆恨みしていることも。この嫌なことがあるだけで、何もかもどうでもよくなってくる。世界って、こんなにつまらなかったんだ。
後続機たちに向けているこの感情は初めて覚えた。怒りや憤りという言葉が近い気はするけれど、それよりももっと、泥のように粘ついていて暗い。正当性の欠片もない、極めて一方的な恨みや憎しみだ。
——そうか。これがきっと、嫉妬ってやつなんだ。それもまだ見ぬ存在に対してしているなんて、ボクも1号のことをとやかく言えないくらい、心配性なのかもしれない。でも、1号が向けてくれる純粋な心配とは違う。この嫉妬というものは思っていた以上に酷くドロドロとしていて、ヒーローにはとても似合わない。
そうだ、似合わない。相応しくない。理想のヒーロー——1号の澄み切った清らかさとは大違いだ。1号の隣に立つもうひとりのヒーローが、胸に抱えていいような思いじゃない。こんなんじゃ本当に、新たなきょうだいたちに負けてしまう。ボクがスーパーヒーローでなくなって、後続のガンマの方が、ボク以上に1号に相応しい存在になって——ボクは、1号と、一緒にいさせてもらえなくなる。
「ぐっ……。うう……っ」
別離が頭をよぎった瞬間、まるで殴りかかってくるかのような、うるさくて煩わしいアラーム音がボクの中に響く。
——幻聴じゃない。本当にエラーが出ている。
「……くそっ、こんなことあるのか……」
出所は人格AIだ。思考処理に精神的な苦痛が伴っていたせいで、AIシステムに強圧の負荷がかかっている。自己スキャンの結果と合わせて考えれば、多分そんなところだろう。今すぐに手を打たないと、他のシステムにも不具合が伝播したり、バグという名の後遺症が遺ったりしてしまうかもしれない。
すぐにヘド博士に連絡して、緊急のメンテナンスを受けにいく——というのが最も適切な選択だ。でも、この程度ならちょっと時間をかけてクールダウンした後に、再起動をすれば済むはず。——それに、博士に頼ったところで、この苦しみの理由から逃れることはできない。ガンマの増産は、他でもないヘド博士がお望みになったことだ。博士のガンマであるにもかかわらず、その計画を嫌だと思ってしまった負い目もある。今は正直、顔を合わせたくなかった。エラーの原因を調べられたり尋ねられたりでもしたら、いよいよボクはお終いだ。だから、自力でできる応急処置的な操作だけでいい。
割れそうな意識を何とか保ちながら、ガンマ2号の各機能を適切な手順でオフにしていく。ここで人知れず休止と再起動を果たしたところで、ヘド博士のご意向も、ボクたちを取り巻く状況も、何もかも変わらない。そう思うと、処置が間に合い無事快方に向かっていくであろうボクのバイタルさえどうでも良くなる。指令室の充填装置に戻らなきゃいけない時間も迫っているけど構うもんか。不貞寝に入るように、起動状態を停止した。