念には念を。その精神の下、結局三日三晩熟考を重ねた。苦慮の末に「ヘド博士の研究が実を結びますように」という、十全の案を編み出した。勝る候補もないから、これにしようと思えた。
しかし、走らせようとしたペンの先は、短冊に触れる寸前で止まってしまった。——三日前のロビーで思い浮かんだ一番最初の案だけが、まだわたしの中に残っていたからだ。後ろから服の裾を引っ張られて引き留められている——実際、あいつにはよくそんなことをされていた——ようで、きっぱりと断念することができなかった。
どう考えても博士の研究の成功を願う方が真っ当で現実的であり、もう片方の「捨てきれない」という採用理由など及ぶべくもない。しかし、「捨てきれない」が薄れてくれることはなく、研究のことを書いてしまおうとする度、喉が詰まったような違和感を覚えてしまう。
——直感を優先してしまうなど。本当に、わたしらしくもないのだが。
昇り始めたばかりの朝日が差すメインロビーに鎮座する笹の葉は、既に多くの短冊で彩られていた。ブルマ博士はかなりの人数を募ったらしい。当日の朝まで、という余裕を設けた目標は達成できたのだが、この中でわたしは遅い方となってしまった。
それでも、大きく広げられた葉にはまだ余裕があった。その場所に紐を使って括り付ければ、黄色い短冊が翻る。
『2号の願いが叶いますように』
ここに記したその男に、綺麗だと言われたことのある手書きの文字でそう綴った。こうでもしなければ、わたしの中の何かが納得してくれなかった。
だが、他の願い事も目に入る今では、どうしても冷静になってしまう。2号の願いについて、誰かに尋ねられたらどう答えれば良いのか。大胆不敵なヒーローとして生涯を閉じた彼が抱いた恐れを、わたしの口から他の誰かに告げてしまいたくはない。——やはり、これを書いたのは軽率だったかもしれない。部屋に戻って、予備の短冊を使ってしまおう。
笹に掲げてから数分も経過していないが、その紐を解いてしまうことにした。
「……!?」
黄色いカードをもう一度手の中に収めた瞬間、わたしの中にアラート音が響く。鳴らしているのは、同期させた建物内のセキュリティシステムだ。
この研究所が開かれていない朝四時半という時間に、システムに未承認の存在が一人、建物内を闊歩している。明らかな異常だ。即急に対処すべく、手に持ったままだった短冊を首元の青の中へと忍ばせる。書き損じのものであるというのに、皺がつかないようにと気を配りながら。
反応の示す場所は四階、わたしの部屋があるフロアだ。そこから一階へ降りる途中で、不審な人影や気配を感じることも、生体スコープやセキュリティシステムで捉えることもなかった。本当に、急に現れた。どうやって入り込んだ? 各所のロックは万全なはずだ。それをこじ開けたとして、その時点で警報音が鳴らないこともおかしい。
——尽きない疑義に思考を巡らせるのは後だ。急ぎ、不審人物を捕らえなければ。皆はまだ自室で眠っているだろう、そんなところに侵入されてしまったら!
「!? ……こちらに接近している……!?」
丁度わたしの部屋の手前でしばらく立ち止まった後、反応は真っ直ぐな移動を再開した。早歩きと言っていいスピードで他の部屋に立ち寄る素振りを見せることなく——エレベーターに乗った、らしい。エレベーターのシステムにアクセスすると、ここを——一階を目指していると示された。
ヘド博士やブルマ博士たちに対し、すぐに危害を加える意図はなさそうだ。その点についてひとまずの安堵は覚えたが、油断はできない。こちらもエレベーターに駆け寄り身構える。インジケーターに点灯した下向きの矢印が、やはりここの階を狙っているのだと宣告していた。その狙いが届くまで、あと三、二、一——。
緊迫した状況には少し似合わない、軽やかな音が到着を告げる。鉄の扉がおもむろに滑って動き始める。それが開き切るよりも速く、向こう側へと光線銃を突きつけた。
「止まれっ——」
「1号!!」
その声で、その呼び方だけで。武器を構えていたにもかかわらず、不意を突かれて先手を打たれた。
「な……っ、あ……!?」
エレベーターから駆け出すなりの突進と——抱擁を受けてよろめいてしまう。
その重さ、服と肌の感触、わたしを抱きしめる強さ。遠い過去の思い出として受け入れていたはずのものが、今ここに、鮮明に蘇っている。
「2……号……!?」
質の悪い冗談と一蹴して引き剥がし、敵意と共に再び銃口を向ける方が、正常な判断だ。だが、呼んで、しまった。懐かしい、そのひとの名前を。
——呼んでも、いいだろう。彼は偽物でも幻覚でもない。他の誰が分からなくとも、オレが間違えるはずがない。
本物、だ。あの日まで、ずっと一緒に、ふたりきりで過ごしてきた、もうひとりのガンマそのもの。この感触も、呼び起こされる感情も、彼だけに与えられてきたものだ。紛い物に惑わされ陶酔してしまう程度の想いしか重ねられないような日々ではなかった。
「おまえにとっては一年と二十六日振りか? じゃあ久しぶりだな、1号」
「わたしに、とっては……? どういうことだ……?」
「あっ、そうだな。まずはお礼を言わなくちゃな」
分からないことだらけだ。話も噛み合っていない。ひとりで合点している2号は抱擁を解いて、改めてわたしを真っ直ぐに見つめた。所々に傷や汚れのついてしまった顔は、最後の記憶と違わない。しかしこの瞬間に確かに生きている、きらきらとした表情だ。
「ボクの願いを叶えてくれてありがとう、1号! おまえのおかげで、ボクはずっとおまえと一緒にいれた! 一日たりとも、離れずにな」
2号の指先が、わたしの首元に触れる。彼のものであった青を通して、愛おしげに撫でる。
「……そう、か……」
これは、2号のために着けたもの。せめてこんな形でも、2号がわたしと離れずに済むように。「一年に一度」すら厭った2号のために、毎日、ずっと。
「……これで、良かったんだな」
「ああ、もちろん!」
ちゃんと、守れていた。大切なひとの遺言を。
「それに、これも」
2号は青色と襟の間に手を滑り込ませる。そしてすぐに、わたしがその中に潜ませたものを探り当てて引き抜いてしまった。わたしに文面が見えるよう、得意げにひらひらと靡かせている。
「あ……っ!」
「2号の願いが叶いますように」と。彼のことを書いた短冊を、本人に見られてしまうのは些か気恥ずかしい。
「返せ!」
「嬉しいからやだ」
わたしの反抗は予想されていたようで、2号はくるりとエレベーターの方を向いてしまう。その背に、はためく青色はなかった。
「まさか、それが叶ったとでも言うのか?」取り合いをしても埒が明かないため、話を進めることにした。「……生きたかった、のか?」
「まあ……そうなるのかな」わたしが奪取を諦めたため、また2号もこちらを向く。「1号と離れたくないっていう、ボクの願いはもう叶えてもらっていたから……他のものとなると、『1号の願いを叶えたい』になる。生き返りはそのために必要なことだな」
「……? わたしの?」
自分のために何かを願った覚えなどない。だから短冊一つへの記入にも時間が掛かってしまった。
「1号は嘘つかないけど、ほんとに素直な気持ちを話したことがあるのはボクにくらいだろ。だから短冊にも書けない」
2号が再び語り出す方が、わたしが反論するよりも早かった。わたしの考えていることなどお見通しとでも言うように。
2号らしい。2号はよく、わたしを先読みしようとして。少しずつその精度を上げていった。
「言ってたじゃないか、ボクに一年に一度会えれば、幸せだって。ボクはおまえと毎日一緒にいた気分でいたけど、だったら今度は、それを叶えてくれたおまえの幸せも叶えなきゃな」
「…………!」
一年と三十日前、ふたりきりの空間でそんな話をした。
実際にわたしたちを隔てた別れは、伝承の男女以上に覆しようがないもので。それを受け入れて、わたしの中で古い記憶と化していた「一年に一度」を、2号は生かしてくれていたのか。
「毎日」を願った2号の言葉を、オレが遺言として守ったように。2号も、オレの言葉を。
「……いいのか? オレが、そんな……」
「いいに決まってるだろ、すごいカミサマに仕えてる人だって、大事な人とただ一緒に過ごしていい日なんだぞ。そのための、ガンマ2号の華麗なる大復活だ!」
ホログラムを駆使した相変わらずのポーズが決められる。新作だ。——少し、いいかもしれない。
「ま、一年後に丁度再会、ってことにはならなかったけど……。1号が一年に一度でいいとも言ってたし、七夕に合わせてみるのもロマンティックだろ?」
「だが……。大体、おまえ……どうやって生き返ったんだ? 死者を蘇らせるすべもあると、ここへ来てから知ったが……おまえがそれを施されたという話も聞いていない」
「そんなのあるのか!? ボクもそれはされてない……けど、まあいいじゃないか! おまえのために頑張って、奇跡を起こしたんだ。天の川なんていくつでも越えてやるさ!」
2号がわたしの隣に移動して、肩と肩とをコツンと軽く触れ合わせ、それを何度も繰り返す。褒めて褒めてと言わんばかりだ。かつてのように——いつものように、戯れの一環として振り払ってしまうことは簡単だ。
『1号は嘘つかないけど、ほんとに素直な気持ちを話したことがあるのはボクにくらいだろ』
だが、そう言ってくれたから。今は、戯れ以上に、素直に。
「……2号」
「ん? ……わっ!?」
自分から2号の腕を組んで、その肩へともたれかかる。2号がやってくれたように、正面から身体ごと抱きしめることは、まだ、恥ずかしい。だからこれが、今のオレの精一杯だった。
「ありがとう、2号……。またおまえに会えて、嬉しい……!」
こんなに温かな感情を覚えたのは、いつ以来だろうか。ひどく懐かしくて、やっと、取り戻せたような思いだ。
「……ボクもだ、1号。おまえの言ったこと、ボクの手で叶えて、喜んでもらえた……!」
空いた方の腕で、2号がオレの背を抱いた。オレの愛しいひとが確かにここにいるのだと、示してくれた。
「……そうだ、1号は、どこか行きたいところとかないか?」
「……は? 行きたいところ?」
質問が唐突すぎて面食らう。単純な内容であったため、すぐに「ない」と答えることはできたが。
「ないなら、とりあえず散歩とかしてみるか。ほら行こうぜ1号」
「さ、散歩……!? なぜ……!? 今からか!?」
「今日休みだろ。一年に一度のチャンスなんだから、存分に楽しまなきゃ。ボクもちゃんと彦星するから1号も織姫しろよ、今日七夕だぞ?」
確かに、今日は元々休日だった。だが自室に留まるだけでなく、自分と一緒に一日遊んで過ごせ、ということだろうか。天上に浮かぶ、彼らのように。
「……おまえは、一年働いて一日織姫に会う彦星とは真逆な気もするが。毎日オレと一緒にいたつもりなんだろう? それに、ずっと不真面目だったのに、一日だけカッコよくなった」
「それはそうかも……。……え!? 1号、今ボクのことカッコいいって言ったか!?」
本音交じりの軽口など、2号相手にしか叩けない。ガンマ1号らしからぬことがまたできてしまったことも、2号がそれを咎めるどころか喜んでくれたことも嬉しくて、心が弾む。
「待て2号、その姿で外に出るつもりか? 顔にも服にも傷が……」
「そうは言っても、こればかりは仕方なくないか?」
「……アップデートされた自動補修のプログラムを送信する。これを使えば良くなるはずだ」
「! おお……! ここまでなってたのか! すっごいバージョン進んでるな!」
「服、は……。……オレのを貸すしかないか」
「いいのか!? 1号の服、ちょっとシンプルだけどカッコいいよな! それじゃ、一旦1号の部屋に戻るか!」
「まだ皆寝ている。静かにな」
今日が休みであることも、着る機会がほとんどなかったオレの私服を知っていることも、不思議で仕方がないのだが。——まあ、今日くらいは、奇跡を受け入れよう。2号は本当に、毎日オレと一緒にいたのだと思ってしまおう。折角こうして、会いに来てくれたのだから。
案内など必要なさそうにすいすいと廊下を進む2号の隣で、「今日は一日出かけています」とヘド博士の端末宛てにメッセージを綴っていた。