『到着した』
1号がドアを開け、部屋の中へとボクを通す。
眼前に広がった空間は、本棚やマガジンラックが整然と立ち並ぶ、静穏に満ち溢れたものだった。
本棚の向こうには、テーブル席の一端が見える。そこに座った兵士たちが、手元の本に視線を落とし、黙々とページを繰り続けていた。普段は賑やかな彼ら——ヘルメットで顔を隠していることも多い人たちだから、ここにいる彼らが普段賑やかにしている人間と同じかどうかは分からないけど——でも、ここでは自分と本との世界にじっと耽っているようだ。ガンマふたりという珍しい来客に顔を上げた数人も、すぐに本へと向き直っていた。
『ここで過ごせと?』
1号に倣い、内部音声での通信を返す。この部屋にあっていい音は、出入りをしたり、本棚とテーブルを行き来するための足音と、本のページが捲られる音、それから抑え込まれた咳くらいか。ご丁寧に窓ガラスも防音仕様になっているようで、ちらと見えた飛行機の音も聴こえてこない。そんな部屋でいつも通りに喋ってしまうのはご法度というものだろう。
『そうだ』
確かに、ここでならボクは、いつものように1号にじゃれついたり、とりとめもないことを話したり、ポーズを披露したりといった行動は取れない。集中して活字を追う時間を過ごせば、普段から静かにじっとしていられるようにもなるかもしれない、というわけだ。
『やるな、1号』
ボクに対してかなり有効な作戦だ。感心してしまった。
——今後への効果の見込みを除けば。ここで一日過ごしたところで、ボクが次の日から物静かな男になることはないだろう。人格矯正の手段としてはいささか可愛らしいレベルだ。まあ、そんなこと1号だって分かっているだろうし、そこまで期待はしていないはず。最初は本気だったかもしれないけど、段々気が抜けたというか、穏やな程度に留めようと思ったんだろう。
『……って、あれ、1号帰っちゃうのか?』なるほどと唸るボクの横で、1号は踵を返してドアに近付こうとしていた。
『おまえを連れて来るために来たんだ。わたしはもう、ここに用はない』
『そんなあ。1号も一緒に本読もうよ』1号がせっかく行動してくれたんだし、ここで過ごすことについては観念したけど。せめて、1号のことも巻き込もうとした。
『は……? おまえ、ひとりで読めないのか……?』
『いや、本は別々でいいけど。……だって、ここにボクひとり残されたんじゃ、罰ゲームみたいだろ』
罰ゲームという言い方は、ここの蔵書と読書家の隊員に極めて失礼な言い方だ。ボクだってそう思っているわけじゃないし、1号にそのつもりがないということも分かる。でも、ふたりで入室したにもかかわらず、1号だけがすぐに退室して、ぽつんと残されたボク——二体のガンマのうち、明るく陽気だから、どちらかと言えば読書に縁がなさそうに見える方——がひとりで本を読んでいるという光景は、たとえ事実が違っていたとしても、そう見えてしまわなくもない——気がする。
『…………』
『せっかく来たんだからさあ。ね?』
『……仕方ないな……』
『よし! そう来なきゃな!』
声は出さないまま、笑顔になって小さくガッツポーズをする。「罰ゲーム」の懸念を、1号も感じてくれたのかもしれない。
『そうと決まれば、本を選ぶか……。何か指定は?』
『適度に時間をかけられるものがいいとは思うが、特に定めはしない。自由に選べばいい』
『オッケー! じゃあ、決まったらあっちに集合な!』
入口の位置から少し動けば見えるところにある席を指差す。向かい合う二人用の席が、丁度空いていた。
『了解した。また後で』
1号は奥の方の本棚へと進んでいく。ボクはどうしようか。
特にこれといったあてもないまま、傍らのマガジンラックに目を向けた。
『お待たせ—、1号』
ボクは手近なところから探したというのに、1号の方が早かったみたいだ。色々と目移りしちゃったし、そのせいかもな。
行儀良く座ってボクを見上げる1号の前には、1号の分であろう一冊の本が置いてある。まだ開かれていないということは、ボクが来るまで読み始めるのを待っていてくれてたってことか。律儀で優しい。そういうところも好きだ。口角が上がり切るのを抑えつつ、本を置いて、席に着く。
『……ファッション雑誌……?』
テーブルに置かれたもう一冊の本——ボクの分のものの表紙を見た1号が訝しむ。
当然の反応だ。ボクたちは今この瞬間、超カッコいいヒーローの衣装に身を包んでいる。もう既に最高のものを与えられているから、服装について一々頭を悩ませる必要も、別な何かを試す機会もまずないだろう。——だけど。
『世界を平和にした後で、一緒にお忍びで街に出かける……なんて日も、いつか来ると思わないか?』
言い訳や誤魔化しなんかじゃなく、ボクの本音——心からの希望で間違いなかった。1号と、そうやって過ごしたい。デートってやつだ!
『……思わない』
『え~!?』
遠回しな誘いはすげなく断られてしまった。でも、却下の前に少しだけ考え込んでいた。押せばいけるやつかもしれない。それに、ボクからの他愛もない申し出をとりあえず断るというのは、1号がよくやるようになったことだ。本当は嫌じゃなくても。
『そう言う1号のは……。……小説?』向かい側の本は、ボクの雑誌と比べると随分サイズが小さい。その代わり、その厚みは三倍以上にも上りそうだ。
『ああ。題名と……大体の内容はおまえも分かるだろう。有名なものだ』
1号は本を置く向きを変えて、ボクが見やすいようにしてくれた。古風で洒落たデザインが施された、キャラメルカラーを基調とした表紙が目を引く。
『ああ~……。これかあ』
そこに記された文章を、直にこの目で見たことはない。でも、予めインストールされた一般常識が、この小説のことを教えてくれる。
その、常識的な知識に含まれるほどのものだ。著名な作家の代表作の一つとして名高い大作。古典文学に分類されるものだけど、戯曲として制作されたそれは、今なお舞台の演目としても褪せない人気を誇っているとか。そのくらいすごい作品だから、1号が言うように、内容の方も知れ渡っていて——。
『……!』
あらすじを思い起こした瞬間、この物語が帯びる輝かしい名声は思考の外へと弾かれてしまった。
——これ、恋愛ものじゃないか!?
確か、身分違い——とは少し違うか。それぞれ対立する家に生まれた主人公とヒロインが恋に落ちて、実家のこととか、色んな壁を乗り越えて結ばれようとする話だったと思う。
ボクと1号は同じガンマだ。彼ら風な表現をするなら、同じ家系に属しているって言えるだろうか。そうである以上、結ばれるのを誰かに反対されることなんてない——と思いたい。なので、実家同士の諍いに隔たれている彼らとは、また違った状況にいる。だけど、1号は立場を重んじるあまり、なかなかボクの誘いに頷いてくれなかったり、何かとつれないことも多い。そういう点で言えば、ボクたちもまた生まれのために、一筋縄では結ばれない関係にいるのかな。
『い、1号……はさ、こういうの興味あるのか?」
ボクたちが彼らとどれくらい似ているのか——というのも気になるところだけど、それ以前に。1号が自分から、恋愛を主軸とした物語を選んだというのが、とても大きな衝撃だった。その行動の意味について、ちゃんと考えなければならない。
——やや短慮な考え方かもしれないけど。こういうフィクションに関心を持つのなら、現実でも、そう、なのかもしれない。1号は、恋というものが気になっているのかも——いや、もしかするともう、しているのかも。——相手、ボクだよな!? ボクしかいないよな!?
『こういうの、とは』
『……れ、恋愛もの……』
『そういえば……そんな内容だったか』ところが、1号はそのことを今思い出したような言い方をした。『……わたしは人造人間だから、その感情に関する細かな表現を全て深く理解できる自信はないな。ただ、これは世界的な名作だ。教養のために触れておくのも悪くないと思って選んだ』
『……そ、そっか。……教養のため……。そうだよな……』
急激に高まっていたぬか喜びが霧散していく。——うん。極めて短絡的な考えだった。現実はこうだってことくらい、本当はどこかで分かっていたさ。
でも、悲嘆する必要はない。これを読み終わった1号が、恋というものについて改めて思いを馳せ、そしてそこにボクを浮かべてくれる可能性に期待しておこう。
『……?』
気落ちの様子は1号にも伝わったらしい。しかしすぐに持ち直したことで、大したことではないと思われたみたいだ。ボクのことを不思議がりながら、1号は小説を手に取って読み始める。ボクも、ボクたちの将来のために選んだ雑誌を開くことにした。
——この服、いいな。こういうの着てみたいかも。
——これ、1号に似合いそうだと思ったんだけど、どうだ?
誌面を彩る写真を眺める中、何度もそんな感想が浮かんだ。それを目の前の相手に伝えたくなって、顔を上げる。——だけど。
(……やめておくか)
じっと小説のページを見つめる1号は、真剣そのものだった。没頭という言葉も使えそうなくらい、ただそれだけに集中していた。
何かに対して静かに打ち込み続けることはボクより得意だろう。性能じゃなく、性格的なものだ。そういう、元々のものもあるだろうけど——今は多分、それだけじゃない、ような。
(面白い、のかな)
ただの勘でしかないけど。1号の様子を見て、そうなんじゃないかって気がした。
普段は臆することなく1号に声をかけている。でも今は、1号が読書を楽しんでいるなら、水を差すのはできる限りやめておこう。ボクは気遣いのできる男だからな。それに、1号が恋愛もののストーリーに熱中して読み進めているというのは、ボクの密かな目論見にもつながることで、喜ばしい。
1号に話しかけたくなる度にそう思って、自分の読書を再開していた。
——だけど今回は、ページを捲った先にあるものが裏表紙だということに気付く。
『2号、もう読み終わったのか?』
『1号……』
ついさっきまで、じっと1号の方を見ていたからか。自分の本から目を離した1号が、ボクと、それからボクが読んでいた雑誌を見て言った。
『もう戻るか?』
『え……』
1号はまだ小説を読み終わっていない。間を指で押さえられ、二つに分かれたページのうち、既に読まれている方は、全体の三分の一程度だ。
ボクたちのスペックに差は存在しない。目視で得られる情報の処理速度だってそうだ。差があったのは、今それぞれが向き合っていた情報の量。ボクの雑誌は厚くはないし、大きく載せられた写真が大きな割合を占めるページばかりだ。どんなにじっくり眺めたとしても、どうしてもあまり時間はかからずに読み終わってしまう。対する1号のものは、重厚な古典文学だ。ボクの方からは見えないそのページの中には、小さな活字がびっしりと並んでいるんだろう。
物語だってまだまだ途中のはす。続き、気にならないのか? ——1号は、何だか名残惜しそうだ。
『……これはもう読み終わったけど、他にも気になるやつがあったんだ。取ってきてまたここで読みたいから、1号も、それの続き読んじゃえよ』
『……分かった。そうさせてもらう』
1号には、ぜひともこの本を読み終えてもらいたい。恋というものを、知ってほしい。ほんの少しでも、知る切っ掛けを掴んでくれたら。後で感想とか聞いてみたいな。
もちろん、ボクのそんな思惑を1号は知らないけど、1号だって読みたかったんじゃないか。読書の再開をボクに促されたとき、ちょっとだけ嬉しそうな顔してた! ボクってば、いいことしたな。1号が恋愛を題材としたこの小説を楽しんでいるというのも、とてもいい傾向だ。
席を立って、再び雑誌のコーナーへと向かう。手に持っていたものを元の位置に戻してから、別のファッション誌を一冊、それから、旅行雑誌を一冊。この雑誌も、ボクが夢見るボクたちの将来のために読むものだ。この部屋に連れてきてもらえて、この時間を作ってもらえて、良かった。
ボクが計三冊目の雑誌を読み終えたのと、1号が小説を閉じたのは、ほとんど同じタイミングだった。
柔らかな日差しに照らされていた窓は、いつの間にかカーテンで覆われていた。その隙間から、小さな星の光が見える。ボクたちは昼下がりの時間から、ずっとここで過ごしていた。
『そちらも読み終えたようだな』
『ああ! 1号こそ!』
自分の分が途中なのに、雑誌を一冊読み終えたボクのためにここを出ようとしたときとは違う。晴れやかで、充足感に満ちた雰囲気を纏って、1号は静かに椅子を引いた。
その様子だけでも、読後感が窺えるというもの。
『面白かったか?』
『ああ』確信した肯定が返される。『世間での評価を実感した。高い人気を博し、名作として語り継がれたことも頷ける。……いい作品だった』
『そっかあ! それは何より……!』
『……? おまえがそこまで喜ぶことか?』
『そ、そんなに喜んでるように見えたか~?』
図星を指す追求を躱しつつ、別々の本棚へと返却に向かう。そして、ドアの前で合流して、ふたりで廊下へと踏み出した。
「あ~、面白かった!」自動ドアが完全に閉まってから、隣を歩く1号へと話しかける。久しぶりに声を出した気分だ。「着てみたい服とか、1号に似合いそうなやつとか、あと、行ってみたい場所とか! たくさんあったんだぞ!」
「非現実的だな……」
「現実ではあるだろ!」思わず笑ってしまった。「でも……言葉で説明するのは難しいっていうか……。できなくはないけど、写真見てもらいたいなあ……。……そうだ! 次は1号も一緒に見ようぜ!」
「一緒に?」1号が首を捻る。
「そう! きっとおまえが気に入るものもあるって! ね?」
「……おまえの望む反応を返せる保証はないが。……他に、是が非でも読みたいと思うものもないからな」
「! それって、いいってことだよな! おっしゃ~!」
「おい……!」
喜ぶまま、1号に軽く飛びつく。1号に振り払われては、また向かってを繰り返す。さっきまではマナーを守って読書をしていたボクも、あの部屋から出てしまえば元通りで、いつも通りのボクたちだ。
「読書スペースに特化した休憩室があるのは知ってたけど、入るのは今日が初めてだったよ。でも案外面白かった! たまには、こうやって過ごすのもいいな」
「そうだな。おまえを静かにさせたいときでも、また行くか」
「そんなあ」
1号だってそう言いつつ、当初の目的を守り通す気なんて、もう残っていないだろう。それどころか、ボクたちの間に新たな楽しみが一つできた。いい日だったな。