非実現(4/6ページ)

 

「1号、1号」

 僅かに点灯された機器だけが光源となる、真夜中の指令室。そこに、ボクの声と、それから2号用のものの右隣に位置した装置を叩く音が響く。真っ暗と言ってもいい空間も、装置内で待機しなければならない時間帯も、意に介すことはない。装置を叩く拳とは別の手で握った本が、ボクにそうさせている。

「2号……?」

 外側の有事に速やかに気付いて対処することができるよう、装置は声音を通しやすい造りになっている。呼びかけとノックの回数がそう重ならないうちに、1号が起動状態に移るのが見えた。続けざまに装置が開く。コツ、と軍靴と床とが触れ合う音が鳴る。

「2号、何かあったのか?」

 動揺が滲んだ表情と声色で、1号が尋ねる。何かなかったら、まずこんな時間に起こさない——って考えるだろう。ボクの態度を見ても、イタズラなんかじゃないって分かるはずだ。
 実際は、傍目からすれば些細以外の何物でもないことなんだろう。でも、どうしてもすぐに伝えなければならなかった。伝えたかった。
 そんな前置きを、口で説明する気も——その余裕もなかった。

「……!? おまえ、それは……! 持ち出してきたのか……!?」

 ボクの片手にある本に1号が気付く。1号にとっても、見覚えのあるものだ。
 本をかざし、「貸し出しのサービスがあるみたいだ」と手短に答える。——早く、示したかった。

「1号。ボク、この話好きじゃない」

 昨日からこの夜までの間、歓迎していた物語を、真っ直ぐに、そして心から拒絶する意思を。

「……。……なぜだ?」

 1号は顔を顰めたものの、すぐに理由を尋ねてくれた。そんなことを言うためにわざわざこの時間に起動したのか、という真っ当な指摘を、ボクの様子を見て、呑み込むことにしたんだろう。

「語彙の選択、文章表現、物語の展開……。いずれも評判に違わない、上質なものだったと感じた。おまえは、何が不満なんだ」
「そうだな。読んでいる最中、何度も感心させられた。感情移入もできて、ドキドキした。いい小説だったよ。……ラストシーンまでは、な」
「…………」

 浮かれたボクが失念していた、物語のラスト。それは——残酷な争いに巻き込まれる中でも愛を貫こうともがくふたりを、救いのない終わりに陥れるものだった。ボクが夢見たような「恋愛もの」なんかじゃなく——悲恋、だった。この戯曲は、悲劇文学の傑作として、脚光を浴びていた。
 家に決められてしまった、第三者との望まぬ婚姻。そこから逃れるべく、主人公とヒロインは駆け落ちを図った。ヒロインは仮死薬の服用によって己の死を偽装し、その身を霊廟に安置されることで家から離れ、その後で迎えに来た主人公と共に都を発つという、命がけの計画を立てて。しかしその計画は、既にその都から追放されていた主人公に上手く伝わっていなかった。霊廟に駆け付け、ヒロインが死んでしまったと思い込んだ主人公は、その場で自らの命を絶つ。仮死から目覚め、そして傍らで事切れている彼を目にしたヒロインもまた、彼の後を追って——。

「……なん、で……」思い出しただけで、痛みを覚えるほど歯噛みしてしまう。「……分からない。なんで……こんな……悲しい話が、こんなに……」
「……高評を博しているか、か?」

 1号の言葉に、俯くように頷く。
 悪は挫かれ、正義は栄え、そして良い人たちは報われる。「良い人たち」は、立ちはだかる困難を乗り越えて、幸せになれる。それが当然で、そして誰もが夢見て信じるストーリーだと思ってきた。——この話は違った。主人公とヒロインは、ただ運命に翻弄されたように、報われることのない最期を迎えてしまった。
 理解できなかった。ボクがヒーローだからなのか。それとも、もっと根本的な、ただの性格の問題だろうか。この話の結末は、良いものだとは到底思えない。だけど、そうやってボクが首を横に振る傍らで、この話は賛辞の対象になった。

「2号。……おまえの憤りも、間違いではない。やるせない思いを抱いてしまうのも、仕方ないだろう」
「だったら、何で……!」
「……そこまで、感情を揺さぶられるものだったんだろう。読者を……そうさせるほどの力を秘めていた物語だったということだ。終わり方がどうであれ……名著となるには、それで十分なのではないのか。……時にはこういった類のものに触れて……涙を流すことも、人間には必要だと……聞いたこともある」

 ——それは、分かっていた。どんなに好きになれなくても、これが大作であることは、認めざるを得ない。どんなに共感できなくても、これに心を掴まれて、たとえ悲しくても好きだと感じる人がいるということも、否定はできない。カタルシス効果とやらの存在にも気付いている。
 ボクが本当に聞きたかったのは、そんな、世間の人間たちからの評価を概括したような説明じゃなかった。それもまた、納得はできても同意ができなくて、思わず疑問を投げかけてしまうようなことではある。でも、今一番分からなくて、知りたいのは。

「おまえは……どう思っているんだ、1号」

 顔を上げて、真っ直ぐに前を見つめる。
 この視界の中心に映る、1号自身の、感想。今こそ、詳細なそれを聞き出したかった。聞き出さなきゃならないという思いに駆られていた。
 不安と焦り。——それらが、結末への嘆きと憤り以上に、今のボクの中にある感情だった。1号の考えが分からないことが、ボクにそれを与えていた。もしも昨日、1号がボクの前でこれを読み終えた後、今のボクと同じくらい——ではなくても、せめて、それに近いくらいの反応を、同種の感情を見せてくれていたとしたら。ボクは今、こんなことにはなっていない。そういえばそういう話だったらしいなと思い出して、ひどいよな、とふたりで話をして、それで終わっていた。
 ——そうはならなかった。読了直後の1号は、怒りも悲しみも見せることなく、この物語を 称えていた。そのことを思えば、1号の考えはが全く分からないわけじゃない——予感めいたものは、生まれてしまう。

「……2号」困ったように、1号が視線を落とす。「……今の、おまえの状態は……思考プロセスが正常に稼働している証拠でもあるのだろう。……おまえらしい、豊かな感情の発現が起きているから、そうやって、この物語について深く考え込もうとする」

 いつもは落ち着けとか余計なことを考えるなとか鋭く言ってくるくせに、今は、ボクの感情の肯定から入ろうとする。1号は分かっているんだ。ボクが、追い詰められているってことが。だから慎重に言葉を選ぼうとしている。

「だが……今は、忘れた方がいい。おまえの、その人格を……心を、失くせとまでは言わない。しかし……強すぎる感情は、良くも悪くも自身に影響を及ぼす。今のおまえのそれは……良くはない。おまえを苦しめ続けかねないものだ。だから……」
「ボクなら平気だ……! ……何も、これ以上引き摺ったりしないさ。……今は、おまえの話を聞かせてほしい」その返答次第では、引き摺るかもしれないけど。
「……っ」

 一度目の問いかけの後、1号はそれに答えずに、ボクにこの話を終えるよう勧めてきた。ボクを心配してくれているのは分かる。そして、自分の答えがボクに何をもたらすのかということを、1号はきっと知っている。
 再度尋ねた今、1号は唇を噛んで、ボクから目線を逸らした。——分かってしまう。ボクを前にして告げるには、言い辛い答えなんだって。

「もういいだろう、2号……。わたしのこと、は……」
「良くない……! ボクの気持ちを伝えたかっただけじゃなくて、おまえの思いも知りたくて、話をしに来たんだ……! 頼むから、教えてくれよ……!」

 元々、1号は自分自身の考えを口に出すことがあまり得意じゃない。でも、ちゃんと尋ねれば案外素直に答えてくれることも、増えてきたと思う。その1号が、ここまで拒んでいる。無理に聞き出すなんてしたくないし、普段なら引き下がっていたと思う。だけど、今だけは——。

「いちごう……!」願い乞うようにして目を固く瞑る。そうして出した声は縋るようなものだった。
「…………」

 1号が、ゆっくりと顔を上げてこちらを向く。ボクと目を合わせる。何もかもを覚悟したような、悲愴という言葉すら思わせる目を。
 その眼差しを、ボクは知っている気がした。見たことはない。想像したことがある。——つい、最近のことだ。閉ざされた暗い空間で、終盤のページを捲ったとき——。

「……オレは、あの結末を責められない。彼らの決断は……理解できる」

 聞き出した答えは、最も望まなかった言葉となって紡がれた。

 想像、できていた答えだった。ボクを駆り立てていた焦燥は、その想像があったから生まれたものだ。それくらい、とっくに予感できていた。——なのに。

「なん……って、こと……。……なんてこと言うんだ!!」

 ほとんど、衝動的に。両手を伸ばして1号の両肩を掴んでいた。
 その拍子に本を落とす感覚がする。はっとして僅かに視線を下げれば、床を叩くことなく、1号の手に収まった——1号が咄嗟に掴んでくれたんだと分かって、ひとかけらだけ残っていた冷静な部分が安堵する。
 たかが、一冊の本の感想の違い。それくらいでこんなに激情を覚えて、それのままの行動を起こすなんて、馬鹿げている。——だけど。

「……おまえが最も嫌悪したのは……そこか?」暴挙に抵抗することのない1号が、どこか悲しげな視線をもって尋ねる。
「……ああ。そうだ」

 1号が察した通りだ。よりにもよって、「そこ」を。「彼ら」——つまり、主人公とヒロインが自ら選んだ最期を。一番、認めてほしくなかったところだった。
 ふたりを追い詰めた家同士の諍いとか、心無い大人たちとか。腹立たしいものは他にもあった。でも、一番の悲劇を挙げるとするなら、やっぱり彼らの命そのものの結末だ。
 人が自ら命を絶つ様を嘆き悲しむのは、当然の感性だと思う。一方で1号のように、彼らの選択に一定の納得を覚えることだってできるだろう。確かにボクも、愛しいひとがいなくなった世界で生きていたくはないと思う。でも、そのひとにまで全く同じ姿勢を望みたくはない。絶望に苛まれたとしても、あんな行動は絶対にしてほしくない。
 当然の感性、だけじゃなかった。ボクがここまでそのラストを嫌うのは、ボクひとりの私情によるところが大きい。——その最期の在り方が、似ているかもしれないと思ってしまった、という。そう思ったからこそ、不安になった。1号に否定してほしかった。
 恋人の命が懸かっていることだっていうのに、仮死状態を見抜くことも、そのための努力もできず、早合点して次の自分の行動を——彼女の本当の死を招く行いをした主人公。それだけ偽装の質が高かったのだとしても、その——ある意味での軽率な姿を目の当たりにしたとき、指を指されたような感覚を味わった。「今のおまえでは、愛する者を守れない」とでも言われた気がして、全身が凍り付く思いをした。

 それから、もうひとり。思えば彼女は、駆け落ちを決行する時点でどこか危うかった。恋人のための作戦とはいえ、本物の死と隣り合わせになる状態を受け入れた。恐怖があっても、それを上回る覚悟をもって。主人公のために命を投げ出す決意なんて、とうにしていた人物だった。その姿に込められた献身的な信念は、強固な忠義心にも良く似ている。ボクはそれを向けられる対象じゃないけど、でも——1号は、その終わり方に理解を示した!

「1号……! ボクたちは、あんなふうになっちゃダメだ……!」縋り付いたまま、無我夢中で叫んでいた。
「2号……?」
「嫌……絶対に、嫌だ……! おまえには、ああなってほしくない! させたく、ない……!」
「…………」

 恋人同士である彼らに自分たちを重ねて、すっかり似ていると思い込んだままの言い方をするなんて。これじゃあ、ボクが1号とどんな関係になりたいかと思っていることが分かってしまう。こんな形で告白するつもりはなかったのに。でも、遠回しな告白だから、気付かずに終わってくれるかな。

「……ごめん」本の内容とは別のことを考えたせいか、少し頭が冷えた。ようやくその言葉を告げて、1号を解放する。「怒鳴ったり、掴みかかったり、無理に感想聞き出したり、面倒な質問したり……こんな時間に叩き起こしたり……。あと、ボクが堕とした本、掴んでくれてありがとう……」

 「感想一つに文句言ったり」とは、敢えて言わなかった。馬鹿なことと思っているのは、感情に任せて1号の身体を抑え込んで、喚いてしまったことだ。1号の死なんて、たとえ博士や——ボクのためだったとしても、決して願わない。願うはずがない。1号を愛するひとりの存在として、1号がこの物語に向けたその感想は、絶対に否定したかった。それだけは譲れない。

「……オレの方こそ、すまない」あれこれとやらかしの内容を挙げ連ねたというのに、1号は一つも非難しなかった。それどころか、なぜか謝ってきた。「……おまえの力になれなかった。このようなときは……おまえの望む答えを言ってやるべきだった。そう、できていたら……」
「いいって、そんなこと。気にするな」

 そういう器用さも、別に最初から望んでいない。1号とはいつだって、互いに正直な関係でいたいから。——ボクは不手際を誤魔化そうとすることがよくあるけど、1号はいつも気付いてくれるから、ノーカウントってことで。

「明日以降、博士のご都合さえ合えば……メンテナンスを受けることを勧める」1号の面持ちには暗い影が落ちている。まだ申し訳なさそうだ。「もしくは……。……博士は、心理学や精神分析学も修めたと仰っていたな。相談事や、打ち明けたい内心があるのなら……相手はオレではなく、博士の方が適任だろう」
「いやいや、ほんとに大丈夫。あと、博士は頭いいから学んだだけで、実際に人の話をじっくり聞くこととか、嫌がると思わないか?」
「そんなことは……」

 そう言いつつ、1号はボクとともに苦笑した。実際には、ご自身の最高傑作の話になら、喜んで耳を傾けてくださるとは思うけど。
 1号はとても珍しく、そして妙なほど弱気になっていた。ボクがそうさせちゃったのか。ボクだって、あんな感じで取り乱すことなんて今までなかったから、驚かせてしまったかも。冗談言ったら笑ってくれたから、そう深刻なものではないと思うけど。元気になってほしい——なんて、1号をそうさせた張本人かつ、ついさっきまで全く元気のなかったボクが言える立場だろうか。やっぱり、今のままじゃダメかもしれないな。
 だけど、その珍しい姿は、ボクのことを真剣に想ってくれたということの証だ。好きなひとを弱らせておいて喜ぶのはどうかと思うけど、1号に大切にしてもらえるのは、とても嬉しい。また何か悩むことがあったら、次も1号に相談しようと思う。

「これ、返してくるよ」1号が持ったままだった件の小説を、再び手に取る。休憩室は二十四時間開かれていて、それはあの読書スペースも例外じゃなかった。「次は一緒に雑誌読もうな」
「……それだけでいいのか?」
「おっ!? ボクと旅行行ってくれる気になったか!?」
「…………」
「何でそこで黙るんだよー!」

 いつも通りの軽いやり取りができるようになってきた。仲直りも無事完了だ。仲違いしたつもりもないけれど。

「……それじゃあな、1号。もう日付変わってるし、あと二時間くらいでいつもの起動時刻だけど……オヤスミ。また明日」
「……ああ」