シャワーの水温に、特にこだわりはしない——が、今は、冷水を好んで浴びるようになっていた。
体温を下げれば、その分、熱を感じやすくなる。わたしに触れる彼の指先、わたしを閉じ込める彼の逞しい腕、わたしに重ねられる彼の身体——同じ鋼鉄でできたそれに灯る熱さを、より覚え込むことができる。愛しい者の体温で、彼のわたしへの昂りがもたらす熱だから、わたしにとっても心地が良い温度だ。そして、それがわたしに伝播して、寒冷に晒していたこの身も熱を帯びていく。それも好きだった。彼がわたしの傍にいて、わたしに触れてくれたのだと、いっそう強く思えるから。——房事における、わたしの密かな愉しみだった。彼には気付かれているだろうか。できれば、気付かずにいてほしい。
備えられた体温の自動調節機能が、このときばかりは恨めしい。早く、寝台で待つ彼のところに行かなければ、最適なだけの温度へと勝手に戻されてしまう。
——だというのに、寝室ではとんでもない予行演習が行われているものだから、行くに行けなくなってしまった。
(……まったく……! 2号……!)
困る。2号が唱えていることは嫌ではなくて、むしろ、嬉しい——ということも含めて、困る。
寝室に入りたい、のに、中断させてやりたくもなくて。立往生を続けている間に、この後の時間のために冷やしていた体温が上昇していく。機能の働きによるものではなく、わたしの、気分のせいだ。口説き文句——どころではない言葉をずっと聴かせられているから。
感情が身体に反映されてしまうのは、精緻に創り上げられた人造人間であることの証だろうか。扉に向かって手を伸ばしたいのに、上手く動かせない。すぐ目の前にある、2号のいる寝室が遠く感じる。二つの空間を塞ぐ扉が、堅牢な壁のように思えてしまう。2号のところにいけない。こま、る。
ダメだ。2号がもたらそうとしている幸せは、わたしの許容量を超えている——!
(……あ……)
感じていたよろこびに、冷たい雫が落ちる。冷たさは、少しずつ、よろこびを染めていく。——正しい温度だった。
気付くまで、時間がかかってしまったが。本当に、許容量を超えている。その幸福は、わたしが受け取れるものではなかった。
(2、号……。これ以上、は……)
これ以上、おまえに近付いてしまえば。婚姻まで結んで、今以上の繋がりを、おまえとの間に持ってしまえば。——確かに、幸せになれるだろう。いつか、再び訪れる別れに、今度こそ耐えられなくなってしまうほどに。
2号は、スーパーヒーローだ。わたしの夫になろうとも、それが揺らぐはずがない。だから、遥か遠い未来だったとしても、わたしたちの終わり方も、きっと変わらない。わたしも、その終わりを受け入れて、ヒーローであり続けるという義務を果たさなければ。
そのためには、もう弱くなってはいけない。しかし、2号と結ばれて、彼から今よりも多くのものを与えられて、彼への慕情を募らせる——そんな多幸は、わたしを弱くする。正しい別離でも、また拒もうとする、弱い存在にさせられる。この扉の向こうにあるものは、「わたし」を壊す甘美な猛毒だ。
分かっていたことだ。迷いながら、あいつの想いに頷いて、同じ言葉を返していた。だが、こればかりは、ちゃんと、断らなければ——。
(そんな、こと……)
——したくない。
そう思ってしまうほど、わたしはもう、2号相手に恋しきっていた。とっくに、脆くなっていた。
「……、……?」
からだが、熱い。ちゃんと、現実を思い出して、浮かれることを止めたはずなのに。
——これは、先ほどの恥じらいのせいでもたらされた熱ではないかもしれない。異常なほどに高くて、2号に、甘い言葉を囁かれたときに感じるものとは違う。ひどく、不快な熱だ。
だが、これもまた、感情にもたらされたものか? 2号を喪うことを、そして、縋り付くようなことまで考えた、せいで——。
思わず零そうとした吐息が、憂苦にまみれた喘ぎになりかけていると気付き、咄嗟に手で口元を塞ぐ。声になってしまうより早くできたのは良かったが、身体をかき抱いて支えていた手が片方だけでも失われた。重みのようになった体熱に、鈍い揺さぶりをかけられる。
身体ごと崩れ落ちてしまう前に、もう片手と片膝を床について、何とか姿勢を保つ。音を立てずに済んだから、2号には気付かれていない。——それでいい。原因が原因だ、知られたくない。
だが、ここからどうすればいい? この有様で、寝室には行けない。2号に心配をかける——という経験をするのは主に情交のときくらいだが、今のわたしを見ても、あいつはひどく驚いて、そして手を尽くそうとするだろう。そうなれば、2号に甘えることになって、また、弱くなってしまう。ならば、背後のバスルームも、目の前の部屋からも離れて、どこか、ひとりで、遠くへ。
(……でき、ない)
今は、2号を待たせている身だ。身を隠すようにこの場を離れるわけにもいかない。
だから、全てを繕って、彼の元へ行かなければ。彼の愛らしい予行演習を聴いてしまったことも、改めて自覚してしまった脆弱な心も、それが負荷となって引き起こされた過熱状態も、なかったことにして。
(やくそく、した、から……)
2号が、誘ってくれた。オレを、愛するために、この奥で待ってくれている。結婚——は、どうすればいいか、分からないが。せめて、恋人としての約束には応えてやりたい。オレも、2号のことが好きだから。
それに、抱かれてしまえば、きっと何もかもうやむやにできる。弱さという秘密を曝け出す間もないほどに、2号だけを感じていられる。
やるべきことに思い至れたから、重たくなってしまった身体を引き摺り上げるようにして立ち上がる。歪んだ視界に翻弄されるように、よろめいてたたらを踏んだ。
「…………」
口に沿えたままの手に力を込めて、排熱呼吸を堪える。荒い呼吸音を聴かれてしまえば、不調が、2号に知られてしまう。
しばらくして、ようやく手を下ろせた。呼気は収まったと信じ込み、寝室へと続く扉に、震える指先を伸ばす。
——その、瞬間。
「1号? そこにいるのか?」
すぐ、向こうから、2号の声がして。その気配が、こちらへと近付く。
「…………!」
この場に留まりすぎていたから、気付かれるのも無理はなかった。だが、2号に声をかけられ、2号の方から扉が開けられようとしていることを、全く想定していなかった。
想定外というものも、わたしが弱点とするものの一つだった。それを今、2号に突き付けられたから、張り詰めていた心は簡単に乱れ出す。繕ったものが呆気なく壊れ始めていく。驚愕と恐怖、そして——2号に気にかけられているという、幸福が、わたしの拙い計画にノイズを走らせる。
「2、号……っ」
答えるつもりで彼の名を呼んだ声は、酷く掠れた喘ぎ交じりのものだった。——しまったと思ったときには、扉の向こうからの呼び声にも、動揺が滲んでいた。
知られて、しまった。その絶望に抗えず、身体は熱の重みに従ってぐらりと傾く。
「1号!!」
感覚が曖昧になっている。床に全身を強打したことも、どこか他人事のように捉えていた。それよりも、わたしの名を叫ぶその声と、扉の開く音、こちらに駆け寄る足音が、この胸に痛みを与えていた。
同じガンマとして、また、恋をしてしまった者同士として。数々の秘密を結び合ったわたしたちの間でも、互いに知られない方が良いものもある。わたしのそれは、2号のようなものではない。彼がわたしを待つ間に行っていた純真なものは違って、ずっと惨めなものだった。
まず一つは、2号の存在そのものに、半ば飢えているということ。肌を重ねるときにわざと体温を下げて、彼の温度をより強く感じようとするのもそのせいだ。そして二つ目は、それをもう一度失うことを——つまり、2号との別離を、恐れ続けていること。もっとも、体温の件以外で、表に出してはいなかったし、出さないように努めていた。
愛する者を喪いたくないというのは、当然の感情だろう。ただの人間であれたなら、それ自体に悩む必要はなかった。だが、わたしたちはスーパーヒーローで、正しい別離というものを知っている。知っているにもかかわらず、未だに悲嘆に暮れてしまう。
こんな、わたしを弱くする思いは、ガンマに相応しくない。2号を困らせてしまうに決まっている。だから、許せない。隠し事として、貫かなければならない。そうして、いつか消えてくれればいい。
2号との「幸せ」は、それらの秘密とっては一時的な対症療法に過ぎない。それどころか、溺れきれば楽になれても、「終わり」をいっそう酷いものにする劇薬だ。溺れる前に、わたしひとりで、乗り越えなければ。
しかし、今この瞬間、そしてこれから、隠し通せるのだろうか。情けなく倒れてしまったことは、ただのバグとして処理されてほしい。いつか終わる幸せに揺さぶられたことも、ひた隠しにしている弱さという原因も、どうか、暴かれないで——。
「1号! 1号……!」
すぐ傍に感じる、一心にわたしに呼びかける声と、倒れ伏したこの身に触れる手のひら。それを拒むべきか、全てを委ねていいのか分からないまま、意識は高熱に埋もれていった。
(……2、号……)