舞台裏(3/3ページ)

 

 一つずつ、システムが動き始めていく。動作速度は正常値の二分の一を下回ったまま、上昇の兆しを見せない。かなり鈍い、通常通りのパフォーマンスを発揮することは難しそうだ。だが、活動だけなら可能ではあるだろうか。
 AIの中枢部分は、そんな不完全な状態を、起動準備が整ったと判断するしかなかったらしい。瞼を上げ、周囲の状況を確認するよう促してくる。
 正しい中枢とは別のところ——ただの感情は、その決定と命令を疎んじる。わたしは失態を晒したのだと理解していて、しかも、それが引き起こす結果は、わたしが恐れる事態かもしれない。極めて基礎的な行動を推奨されるのは当然だが、その先に待ち受けるもののことを考えてしまう。
 ——そんな我儘も、言ってはいられない。内からの指令が繰り返されているだけではない。外からも、望まれている。

「1号!! ……良かったあ……!」

 部屋の明かりの眩しさよりも、がばりと立ち上がってこちらを覗き込む2号の表情が、憂患に染まったものからから安堵へと変わる様が、視界の中心に映るものだった。
 ——わたしの起動を、外から望んでいたもの。両目を閉ざしていた間も、その存在を傍に感じていた。

「2、号……、っ」

 応答は喘鳴交じりのものだった。発声の苦しさだけでなく、迂闊にもその声を聴かせてしまったことに気付いて、顔を顰める。今更、不調の誤魔化しを図ったところで、意味はないかもしれないが。

「……ぅ……」

 頭部を縛り上げるような重たさは、滑らかなカバーに包まれた枕の柔らかさで、少しだけ緩和されている。熱を帯びていながら凍り付く寒さを覚えている身体は、重ねられた毛布や布団に包まれて、どうにか温められている。
 今夜の時間を、2号は——わたしたちは、楽しみにしていたから、秋晴れの午前中、それらの寝具を外に干していた。そうして完璧な状態に整えた、ふたりきりの寝台。辿り着きたかった——が、こんな形では、望んでいなかったな。わたしひとりで、横たわるはずではなかった。

「1号、覚えてるか? おまえ、この部屋の前で……」
「……ああ。……分かって、いる……」視線を逸らして答える。原因にまで記憶を遡らせれば、顔向けできなかった。「……おまえが、運んでくれたのか?」

 そこに話を持っていけば、再び視線を合わせることができる。わたしが目を覚ましたことに喜び、しかし状態が回復していないことを憂う眼差しへと。

「ああ。一度、博士のラボに連れて行ったんだけど……」
「……博士に、診せたのか……」

 この時間、博士はお休みになられて——は、いないか。だが、ご自身の研究か、別のご趣味か、とにかく何かに没頭しておられることは間違いない。夜更かしを苦としない、そういうお方だ。それを、邪魔させてしまった。——わたしが、そうさせた。
 それに、博士の手で精密な解析が行われたのであれば、この症状を引き起こしたものまで、本当に知られてしまったかもしれない。2号にはもちろんだが、博士にも明かしてはならなかったこと、なのに。

「……嫌だったか?」

 わたしの言葉に込められた思いを察した2号が、そう尋ねる。再び視線を逸らして、微かな頷きを返した。

「1号なら、博士に迷惑をかけたくないとか考えるんじゃないかって思ったよ。でも、ボクひとりじゃ限界があるからな……」
「……そう、だな。おまえは、間違っていない。その判断は、正しい」

 緊急時のため、ガンマ同士で互いのシステムに介入して、不具合に対する応急措置的な操作が行えるようにはなっている。だが、あくまでも簡易的な要因の割り出しと、臨時の対応の域には留まってしまう。優秀な人造人間が行う以上、それで間に合うケースも多いが、今回のような急激な過熱状態の全容把握となれば、開発者の目と技術が要求されるだろう。
 ——とはいえ、比較的軽症で済んではいるようだ。2号の方でも、それを判断できていたはずだ。それでも、確かに博士の元へは赴かなければならなかった。立場が逆でも、わたしはそうしていただろう。それが、彼を助けるための最も確実な方法となるからだ。自分に対してそうされることを拒んでしまうのは、ただの感情的な事情の問題だ。わたしが直情に囚われるとき、2号は理性的で正確な決断を下す。——嫌になるほどに。彼がそうできるようになったことは、喜ぶべき、だが。

「……? 2号……?」

 ベッドの傍らに立つ2号は、両の手を固く握りしめていた。俯いた表情も、どこか——悔しそうに、見えた。

「……いや。全部、ボクが何とかできたら良かったのにって思ってしまって……。……ごめんな、1号が辛いときに、こんなワガママを思いつくなんて」
「……そんな、ことは……」

 そんな顔を、そんな思いをさせたくはなかった。2号は、何も悪いことなんてしていない。
 だが——ワガママ、か。確かにこいつはワガママだったなと、何となく思い出した。そう感じた経験は豊富であるはずなのに、不思議と実感が薄い。
 今は、こんな状態に陥っているから、だろうか。陥った原因を思えば、わたしの方こそ、我儘だと思ってしまう。それとも、実は同程度という可能性もあるのだろうか。——まさかな。

「でも大丈夫!」2号は態度を一転させた。両腕を大きく広げ、輝かんばかりの明るさを露わにして。「博士曰く、症状、そこまで重くないってさ。……AIにかかる負荷の急上昇が原因のオーバーヒートだから、無理を重ねなければ時間経過で回復するだろう、って!」
「……そう、か」

 過熱の発生後すぐに気絶してしまったが、その分、負担となりかねない動作も素早く停止できたため、却って悪化を防げたのかもしれない。まあ、今よりも重篤な状態になっていたならば、わたしは今頃寝室のベッドにはいない。ラボの処置台の上に寝かされていただろう。望まぬ形とはいえ、こちらの方に来れて良かった。本当におかしな話だが、ガンマのために整えられた環境よりも、わたしたちには必要なかったはずの寝室の方が、今はわたしに安らぎをもたらしてくれる。ここが、わたしの一番好きな場所かもしれない。
 だが、安心ばかりもしていられない。「AIにかかる負荷の急上昇」という診断結果が出され、2号にも伝えられた。つまり、わたしは苦悩に苛まれた末に倒れるに至り、また倒れるほどの苦悶に陥っているのだと、博士も、2号も分かっている。再起動後、少しずつ覚悟はしていたが、いざ現実となってしまえば、堪えるものがある。何か嫌なことを考えた、程度に思ってくれていればいいが——。

「というわけで!」広げていた腕を閉じ、2号は両手のひらを勢い良く重ね合わせた。ガンマ特有の金属音が軽やかにこだまする。「1号は、しばらくここで安静に過ごすんだぞ。経過観察役に志願し、博士直々に任命されたガンマ2号からのメイレイだ」
「……仰せのままに」

 優しく穏やかな「メイレイ」に乗ってやるような言い方をすれば、2号はますます嬉しそうにする。
 何がそんなに嬉しいのか。わたしを任せられたこと? わたしの世話を焼けること? 普段とは打って変わった立場だから、新鮮であるのかもしれない。
 敢えて明るく振る舞っているだけでなく、この状況に本心から励んでいてくれていたらいい。わたしを気遣って陽気な態度を続けているとしたら、あまりにも申し訳なくて、情けなくなる。だから、この有様でも、少しは2号のためになれているのなら。わたしの不甲斐なさが消えるわけではないが、その方が。その喜びを、不謹慎とは思わない。

「じゃあ、とりあえずの確認事項として……。今の具合はどうだ? 1号的には、どんな自覚症状がある?」
「……あつい」荒さを含んだ排熱呼吸を交えながら、問診に答える。この呼吸をしていること自体も、過熱状態を示すものとなっているだろう。「だ、が……。……コアを、中心としたあたりは。冷えているような……気がする。……そこだけ、さむい」
「あ~。ニンゲンの発熱症状もそんな感じらしいけど……。ボクたちも、オーバーヒートが続くとそうなるんだよな」
「……コアに、規定以上の高熱を持たせては、いけないから、な……」 「そこだけを最優先に冷やさなくちゃ……となって、過熱に対抗するための過剰冷却が起こるから、身体は熱いのに内側は寒い、って状態になる……か」

 自分の左胸をさすりながら、2号は感心したように呟いた。
 そして何やら考え込み始めたようで、腰に両手を当てて目を瞑る。

「……オーバーヒートも、部分的な過剰冷却も、システム上の弊害、だよな。なら、つまり……時間が経つのを待つしかないってことか……」目を開けた彼は、ヘド博士が話したというものと同じ結論を導いた。
「……そう、らしい、な」

 だから博士がそう仰っていただろう——と、普段ならば指摘していたかもしれない。だが、今はする気になれなかった。高熱がもたらす気怠さのせいか。呼吸を繰り返すことで、精一杯だった。

「……なあ1号、何か欲しくないか? お粥とか、フルーツの缶詰とか、プリン……あとはゼリー……。飲み物だったら……スポーツドリンクとか?」
「は……? な、ぜ……」急に食事の話をされて狼狽えてしまう。こんな状態であるから摂取はできない——とまでは言わないが、とにかく脈略がなかった。
「これ。……ニンゲンの話だけど……」

 2号がしゃがみ込む。いつの間にか取り出していたらしいスマートフォンの画面を、こちらへと近付け見せてくれた。

「…………」

 普段よりも、視界がぼやけている気がする。意識もあまり明瞭ではないが、視認機能も低下しているのか。2号のおかげで至近距離で見れているから、判読が困難、というほどではなかったが。
 最新型の液晶に映し出されていたのは、「風邪をひいたときにおすすめの食べ物・飲み物は?(症状別)」というタイトルを冠したページだった。画面に添えられた2号の親指が上向きに動く度に、次々と食品が紹介されていく。それらは全て、先ほど2号が提案したものだった。

「……なる、ほど……」

 わたしにも、その知識はあった。ここへ招かれてから数ヶ月後、ブルマ博士のご息女が高熱に見舞われた際——父方の血統のせいか、通常の抗生剤や解熱剤は効き目が薄くなってしまうらしい——、ヘド博士が新たな特効薬を完成させるまでの間、わたしも看病を手伝っていたから。——それが今度は、わたしに向けられることになるとは想像していなかったが。
 食事を通した栄養素の摂取は、ニンゲンには欠かせない行いだ。食欲や消化器官が弱っていたとしても、さらなる体調の悪化を防ぐため、食べやすい形状や味のものを摂ることが推奨される。とはいえ、それはニンゲン、あるいは生物の療養に限った話だ。人造人間ガンマの摂食機能は博士の遊び心によって設けられたオプションにすぎない。何かを口にしたところで機能の維持や回復が起こることはなく、せいぜい、気分を紛らわすものにしかならないだろう。味覚機能も落ちているだろうか? せっかくの味も、分からないかもしれない。

「……やっぱり、ダメか?」
なんとか首を動かして頷いた瞬間、重い頭部が鈍く痛んだ。『……気持ちだけは、もらっておこう』口腔による排熱呼吸が邪魔に感じて、内部音声による通信を選択した。

 スマートフォンを引き下げた2号は、僅かに肩を落としていた。しゅん、という擬音語は、今の彼に似合っている。
 ダメか、ダメではないか、なら——ダメと言わなければいけない、といったところ、だろうか。ガンマの身体にとって何の意義もなかったとしても、2号に与えられたものであるなら、わたしは——きっと、喜んでしまう。味を感じ取れなかったとしても、柔らかく優しい甘味を錯覚してしまいそうだ。
 それが、怖い。そんな経験を重ねれば、ますます弱い存在になる。2号がいなかった頃の「わたし」に戻ることが、より難しくなる。食事自体は毒にも薬にもならないが、2号の手さえ加わってしまえば、前者へと変貌する。感情豊かで天真爛漫な2号ならともかく、わたしは、ニンゲン扱いされるべきではなかった。

「う~ん……」

 2号はその指をスマートフォンの上で忙しなく滑らせ、小休止したかと思えば首を横に振り、また画面を叩き始めることを繰り返している。食事以外の療法でも調べているのだろう。どれもニンゲン向きである以上、わたしに却下されると思ったのか。
 わたしたちには、高度の情報検索機能も備わっている。そちらの方が通信速度をはじめとした利便性に優れているから、業務上の都合以外の理由で、ニンゲン向きの携帯端末を優先する理由はほとんどない。だが、2号が今手にしているそれは、彼の就職時にわたしが買い与えたものだった。仕事で使う機会も少なくない、ブルマ博士が支給品を用意する手間も省ける、そして、CMを眺めていた彼が興味深そうにしていたから——という理由で、二度目の生を迎えて間もない彼へと贈呈した。
 わたしは業務のことしか考えていなかったが、彼はこうして、日常的な場面においてもそれを多用するようになった。自分自身に搭載されたものを忘れたかのように。贈り主であるわたしに気を遣っているのかとも考えたが、どうやらそういうわけでもないらしい。わたしがブルマ博士のボディーガードとして彼女の外出に同行し、2号が留守番を務めた翌日に、ヘド博士が話してくださった。「ガンマ2号はスマホを気に入っているのか?」と。博士と過ごした際、何か調べ物が生じる度に、2号はそれを取り出していたらしい。各種機能を含めたガンマの開発者である博士が、少し悔しそうにしておられたことをよく覚えている。
 窘めの一つでもしてやった方が、と思っていたが、できないままで、もう諦めつつある。挽回も難しい、わたしの落ち度だ。彼がその贈り物を姿を使う姿を目にする度、この胸に痛みを覚えるほど、彼への愛慕を募らせてしまう。今も、そうだ。重い瞼を下ろして視界を遮ったところで、少しも楽にならない。
 2号も、わたしと同じ想いをわたしに向けているから、使い続けているのだろうか。

「2、号」もう一度目を開けて。彼を視界に映す。2号もすぐに手を止めて、画面から顔を上げた。「……何か、したかった……のか?」
「……はは、バレた?」
「……わかりやすい」
「え!?」

 「時間経過で回復する」という、博士からの診断を聞いた。それを伝えてくれた2号も、経過観察役を誇らしげに名乗った。だから——何かをする必要など、ない。博士から直に説明を聞いたのであろう2号も、よく分かっているはず。分かった上でさらなる手段を求めてるのは、彼の個人的な、「何かをしたい」という意思があるからに他ならない。
 理解は、できる。ヒーローとは、誰かのために行動しようとする存在だ。その「誰か」が弱り果てているのなら、なおのこと。

(……いや)

 わたしは、違っていた。2号のために何かしようとしていたのは、わたしがヒーローだから、という理由だけではなかった。わたしが、2号のことを——。

「…………っ」

 良くない、な。相手が、些か未熟な面が目立つやつだったから、わたしのしたこと全てが無駄とは思わない。だが、いつの間にか、私情を覚えすぎた。それでも、行動自体は手助け程度に収まっていたというのは、わたしらしいだろうか。2号は任務さえ意に介すことなく、わたしに接していたが。
 そして、2号には——特別なことなんて、本当は何も求めていなかった。ただ、わたしの傍にいてくれれば、それで良かった。今も、昔も。
 何もかもが遅くなってから気付いたその望みは、ヒーローがヒーローへ望む願いとして、分不相応なものだった。

(……何か、あるだろうか)

 「ここにいてほしい」以外のことで、2号に頼めること。させてやれること。
 何も、「観察役」の務めを果たしてくれれば済むし、そう伝えたところで問題もなかったが——自分の過ちに気付いたせいで、言い辛くなってしまった。

『2号』
「ん?」
『……好きに過ごしてくれていい』

 結局、何も思い浮かばなかったから、そう告げるしかなかった。
 世話を焼かれた経験には乏しく、甘え方も分からない。同型機である2号のことを頼ってもいいとは分かっている。だが今のわたしは、精細な思考を——判断能力を欠いている可能性があり、そして弱くなりたくないという思いは生きている。だから下手な手を打って、それが彼への過剰な寄りかかりとなってしまう、という事態は避けたかった。

「好きに、かあ……」

 両手を腰に当てたり、時折腕を組んだりしながら、2号は首を捻る。腕を組んだ姿は珍しい気がする——と呑気なことを考えつつ、目を閉じることにした。
 視界情報程度の負荷を遮断したところで、状態が回復することはない。静かな暗闇の中で、排熱呼吸のための荒い声がよく響く。——うるさい、くるしい。いっそ意識を落としてしまうことができれば楽になれたが、復旧動作を行うシステムごと停止してしまうことになるから、数時間ずっと、過熱と悪寒をはじめとした不具合を感じ続けなければならない。わたしの至らなさが招いたことだから、甘んじて受け入れようとは思えているが。

(……2号、は……)

 まだ身を屈めて、ベッドの縁に両腕を乗せているのだろうか。すぐ傍に気配と、そしてこちらに向けられた視線を感じる。

(暇、なのか……?)

 暇ではあるだろう。寝室まで共にする同居者が臥せり、その同居者を容体を見ている「だけ」の時間を過ごさなければならないのだから。
 せめてものいとまを与えたくて「好きに過ごしてくれていい」と言ったが——そうもいかない、か。博士の診断結果を鑑みても、ここからさらに悪化するということは恐らくない——から、目を離してくれても構わない、とは思う。だが、この場から離れてしまえば、直々に観察の役目を任せたという博士のご命令に背くことになる。絶対に、ここに留まらなければならないと、2号も理解しているはずだ。彼の性には合わない任務だ、相手をしてやれないのが申し訳ない——という考えは誤りだ。2号は、わたしが思っていたよりもずっと、立派なやつだから。博士から仰せつかったやるべきことは、ちゃんとやるだろう。
 しかし、その命令の発端はわたしだ。わたしが一晩、彼にそうさせるのかと思うと、どうしても気が引けて、謝意を拭うことができない。——スマートフォンでも弄っていてくれないだろうか。そうすれば、暇を潰しながらこの場に居続けられる。
 半ば願うような気持ちで、彼の様子を窺うことにした。

(…………!?)

 2号は、悲傷に駆られた面持ちで俯いていた。

(どうして、おまえが……)

 そんな、顔を。
 普段の彼とはかけ離れ、行き場を失った子供、というたとえが浮かぶほどの様子だった。目元に湛えられた涙さえ幻視してしまった。
 ——分からない。何をそこまで悲しんでいる? わたしの容態を案じているわけではないだろう。生命の維持にかかわるものではないと、博士からも説明されているはず。だが、2号の想像力を考慮すれば、あり得ない可能性ではないのだろうか? それとも——わたしに対して、何もできずにいることを悔しがっている?

(……違う)

 それは、わたし自身に覚えがあるから、つい重ねて考えてしまうだけだ。今の2号とは、どこか違う気がする。

「……2号」

 ひとりで静養に専念しようと決め込んでいたが、思わず声をかけてしまった。——放って、おけなかった。

「! 1号……」

 その様子を見られたことは、2号にとっても想定外だったらしい。バツが悪そうに、視線をさ迷わせている。
 ——気まずい。そっとしておくべきだったか。選択を、間違えてしまったか。
 そう思って目を逸らそうとしたとき、2号にもう一度名を呼ばれる。迷子を思わせる佇まいはそのままだが、こちらを決然と見つめていた。

「1号。……おまえの傍にいてもいいか?」
「————な、」

 どう、して。そんなことを聞く。
 わたしが——諦めようとしていたことを。

「……な、ぜ。わたしは、おまえを、邪魔と、思ってなど……」

 動揺のせいで一段と上がりそうになる息を誤魔化しながら答える。まさか本当に、何も要望しなかったせいで、不安にさせたのか? 見当はつかないままだった。

「いや、それは、分かってるけど……。でも……ボクは、おまえさえいいなら、おまえの、一番近くに……」
「…………?」

 2号がここまで歯切れの悪い物言いをするのは珍しい、初めてかもしれない。たどたどしくも真剣に告げた言葉は、繕ったものではなさそう、だが。その一方で、核心にあたるものを敢えて避けている、ようで、どうにも不明瞭だ。
 ——それを口にするのは、嫌、なのか? その上で、そんな、当たり前のようなことに、今さら許可を求めてくるのは——。

(……まさか)

 わたしが倒れた原因に、思い至っているのか?。
 これ以上、2号に近付くことを喜びながら恐れて、離れたくないと思いながらも、そうしなければならないと思っていることに。
 2号は、それを恐れているのか? わたしが取ろうとしていた行動は——2号の望むものでは、ないのか?

「……2号……」

 「オレの傍にいてほしい」。——たった一言、そう言えていたら、良かった。

「……好きに、過ごしてくれていい、と言ったはずだ」

 それができない、から、代わりにこんな言い方をするしかない。
 これなら、問題にはならない。2号はもう、誤った判断を下さない。だから、2号の意に添う形にできればいい。

「そうだな。ボクは……おまえの好きにしたい」
「……は……!?」
「1号が、ボクに、いてほしいと思っているのか……そうじゃないのか……聞きたい」

 妙に食い下がるな。弱気になっている——というわけでもない、のか?

「1号。……ボクは、おまえの言うこと、ちゃんと聞くから」

 ——それが正しい言葉であれば、だろう。
 心の中で、ほんの少しだけ悪態をついた。声に出さないとしても、あまりつきたくはないな。文句を言いたいわけではないから。
 まあ、そこまで宣言されたのだから、少しだけ分かった。弱気になっているわけではなく、決意を——わたしからの直接的な言葉を得て、その通りにするという意思を固めているから、食い下がっているのだと。

「……経過観察。博士に命じられたと、言っていたな」
「ああ」
「だったら……その役目を果たしてくれ。博士のご命令を守って……博士のためになる行いをしてくれ。……わたし、は、博士の人造人間、だから……。それが……わたしの望みだ」

 すまない、2号。おまえが欲した言い方をしてしまえば、わたしはまた、崩壊へと向かってしまう。それもまた、おまえの望むものではないだろう。
 だから、ヘド博士のご命令を借りる。わたしが、最も正しいと信じ、第一にしなければならなかった方の言葉だから。その任務の下という形で、2号の問いに頷く。自分の意思を極限まで排除した応答こそが、第一のガンマには相応しい。
 決して虚飾ではない。わたしはただ、そのやり方しか知らなかった。二号機という未知の存在を前にしたところで、彼にとっての正直さを真似ることなどできなかったし、しようとも思わなかった。だが、2号は、それでもわたしの心を見つけ出した。使命に則してばかりで、何か言えたところで、遠回しなことしか言えなかったわたしの隣に、飽きることなく居続けた。だから、今も——そうしてくれたら。

「……昔、の……?」

 いつのわたしの話をしている? ずっと、おまえと共にいるのだと、無邪気に——愚かに信じていた頃のオレか? それとも、創られて間もないおまえに対し、内心を戸惑いと疑問で埋めながらも、最低限の指導をしていた頃のわたしだろうか。

(……どちらも、違う)

 後者の「わたし」になれているなら、おまえのその願いに応えてやれない今、ここまで苦しみを覚えることはなかった。この胸を、心を握り潰すような苦しみは、未だ回復の兆しを見せない過熱が引き起こすものではない。
 前者の「オレ」ならば、おまえに、そんな——悲しげな顔で、追懐させることはなかった。2号は、ずっと、楽しそうにしていた。わたしは、どんな顔をしていたのだろう。——いや、表情に出さずとも、わたしは——。
 どちからかと言えば、後者の方が近いか。前者の頃は、本当に愚かだった。結末への予想を大きく外していたから、愚かで——幸せだった。あんなふうには、もうなれない。なってはいけない。

「博士のため……か。そう言われちゃ断れないよな。……ボクは……最初から、断る気なんてなかったのに」

 博士のため。わたしたちにとっての正論が、告げた側であるはずのわたしを抉る。——本当は、同種の言葉を告げられた側であるからだ。覚えていた自分に感心する反面、2号相手に当然すぎることを言ってしまったと、少しだけ後悔する。
 そして、「断る気なんてなかった」ということは、やはりわたしの本心を察した上で、尋ねていたのか。
 その心のままの言葉を切望されたにもかかわらず、わたしはいつものように、かつてのように、それを覆い隠した。隠したものに気付いているにもかかわらず、2号はとても寂しそうだ。——わたしがそうした理由も、分かっているからか。別離の必要性を感じている、という。
 ——分からない。その結末の正しさは、おまえの方がよく分かっているはずだ。わたしへの好意との優先順位の差は、明らかになっている。なのに、なぜ、そこまでわたしにこだわる?

「でも、ありがとな。……ボクは、ここにいていいんだな。ダメだって言われていたら、ボクは出て行かなきゃならなかった」
「……不可能だ。博士のご指示に、反することになる」
「確かにそうだけど。でも……その方がおまえのためになるっていうなら、ボクはそっちを選ぶよ」

 質の悪い冗談だ。博士よりわたしの言葉を優先するなど、ガンマがするわけがない。そんな間違いに踏み切らずとも願ってしまう——ということだけでも、過去のわたしひとりで十分だ。
 冗談だとしても咎めなければならないものだったが、そのために口を開き、言葉を紡ぐことはできなかった。きっと、そのくらい弱っている。わたしだけでなく、そんな戯言を零した2号も、少なからず消耗しているのかもしれない。

「1号。そっちに……おまえの隣に行ってもいいか?」
「……構わない」

 ヘド博士にも内緒で購入したクイーンサイズのダブルベッドは、わたしたちふたりのためのもの。それをひとりで占有するのは忍びないから、2号が隣に横たわっていたいというなら、その方がいい。2号がいるから休めない——ということも、ないと思う。気にする余裕がない。

「それじゃ、失礼して……っと」

 片側の布団を捲り、2号が入り込んでくる。何となくその様子を見上げていると、普段の——一番良く知っているものとは異なる服装が目に留まった。

「おまえ……。まさか、とは思うが……。そのバスローブ姿で、博士をお訪ねした……わけじゃない、だろうな」
「……そのまさかです」

 人差し指で頬をかきながら、2号は照れくさそうに答える。——照れる場面か?

「仕方ないだろ~」訝しみの視線に気付いた2号が弁明を始める。「すっごく急いでたんだから」
「おまえの方から、簡易的なスキャンを施すことは……しなかった、のか?」ガンマ同士での緊急的な処置となれば、まずそのような操作を行うことから、と認識している。「して、いれば、重篤な状態ではないと、分かったはずだ」

 息も絶え絶えという状態で言っても説得力に欠けるかもしれないが、この状態は一時的なもので、致命的なものではない。博士がそう分析しただけではなく、わたし自身、理解できている。

「したさ。……それでも、悠長に着替えようなんて発想、浮かばなかったよ」
「……まったく……」

 慎重さが——とは、言わない。その言葉は、もう二度と告げることはできない。
 それにしても、状態について把握した上で、対応を急いだのか。2号は分かりやすいようで、よく分からないな。同じガンマである以上、過度に気を揉む必要がないということは分かるはずだ。なのになぜ、今は、そこまで——。

「そんなことより」わたしが苦言を呈すことはなかったが、2号は自身が不利となる話題を終わらせた。「そろそろ休もうか、1号。……とは言っても、いつも通りの寝たフリだけどな。まあ、あんまり色々考えて喋るのも、今は辛いんじゃないのか?」

 2号の言う通り、いつも以上に鈍い思考を動かせば、ますますAI部分に負荷がかかって、頭痛すら起こる。回復の妨げになる——とは言い切れない程度ではあるが。
 それよりも、いつも通りの寝たフリ——という言葉が、余裕のない脳を染めていった。
 活動に一時停止をかけた上で意識も落とすスリープの状態と、生物が行う睡眠は違う。生物に必須の行為である後者は、様々な効能をもって、彼らを癒す。——人造人間である我々には必要のない癒しだ。だから、わたしたちは睡眠に及ぶこともなければ、それを行うための設計も持ち合わせていない。せいぜい、「寝たフリ」という、無駄で無意味でしかない真似事が限界だ。
 無駄で、無意味。そのはずだった。——いつからか、2号と肌を寄せ合い、それを行うようになっていた。いらないと思っていたはずのベッドまで真剣に選んで。深夜から翌朝までの間、まるでニンゲンのように、ふたりで身を横たえて目を瞑っていた。
 その時間が好きだった。意識を保ったまま目を閉じて、静かな世界に浸ることによって得られる安閑——安穏は、正直なところ、二の次だ。2号と共にそうできているから、彼の腕の中で迎える安らぎだから、夜を迎える度に満たされている。ささやかなことかもしれないが、わたしにとっては十分すぎるくらいの幸福だった。以前は、こんなことをして2号は楽しいのか——とばかり思っていたが、今振り返れば、心からそう思える。
 ただ、わたしたちは仲の良いカゾク、きょうだいとして、寝台を共有していたわけではなかった。だから、「寝たフリ」の前には相応のことに及ぶ夜も少なくなかった。今夜もそうするつもりで、約束をしていた。どこか、遠くに感じてしまうが。

「それとも、話を続けた方が、気も紛れるか?」
「……分か、らない」

 比較して片方を挙げることは難しい。どちらでも、2号がここにいるのなら、わたしを救うものになるからだ。その詳細は、今のわたしが声にして語れるものではないから、伏せて非回答とする。

「じゃあ、適当でもいいから、どちらか選んでくれ。1号の案でもいいぞ」
「そんなものは、ない……。……もう、やすむ」

 休む、という表現は、ガンマにとって適切なものとは言えないだろう。あくまでたとえだとしても、口にすれば違和感を覚える。
 2号から提示された二択——どちらでも良かったが、強いて選ぶなら。
 2号の言葉は、わたしを溶かす。この心を揺さぶって、どうしようもないほどに甘く乱してくる。弱くなりたくないから、もう、あまり惑わさないでほしい。そして、わたしは、2号に彼の望む言葉をかけてやれない。先ほど、そう学んだ。だから、静かに夜を終えた方が、互いのためだろう。

「……要件ができたら、そのときは、呼んでくれ」
「りょーかい。なら、もっと……そっちに行ってもいいか?」
「……? ……ああ。好きに、してくれ。……熱いかも、しれないが」
「平気平気」

 今は寝台の中央を挟むようにして、少しだけ距離が空いていたが、いつもはその間を埋めて、密着した状態で夜を過ごしていた。2号が勝手にそうするから、わたしもそれに慣れていた。本当に、今夜は律儀だな。わたしが、臥せっているせいかもしれないが。

「……1号」

 2号がこちらに寄り、両腕を伸ばしてわたしを抱き寄せる。いつもの、こと。

(……あ——)

 いつもの、こと。——その事実が、わたしに油断をさせた。
 正常値の体温を称える2号の肌が、わたしを苛む冷却も過熱も和らげてくれる。わたしを、楽にしてくれる。——そんな、症状どころの話ではなかった。逞しい腕に包まれ、温かい胸に身体を預けた瞬間、自制も自責も融解して、鈍い身体の苦しみさえも忘れて、蕩けるような幸せと慕情だけを感じていた。感じたままで、拒めなかった。それに、飢えているから。

(……2号)

 いつもと、同じ。今はどこか気遣わしげだが、それでも離れようとする様子が全く見えない。彼に育まれてしまった、理屈を介さない感情が、その触れ方のせいで嫌でも理解してしまう。——2号は、わたしを愛していると。そして、撥ね退けることができない。その愛を、手放し難いと思ってしまう。

(情けない、な……)

 優しくしないでくれ。構わないでくれ。わたしに対して、余計なことをしなくていい。——ずっと前から、そう言えなかった。言えなくなっていた。今回に限っても、同じようなことが言える。それが当然だからと思い込んで、2号に、わたしへと触れる許可を与えてしまった。それとも、ベッドに上がり込むことを許したときから、ダメだったのだろうか。
 言えていても、許さなくても良かった。わたしは、誰に愛されなくても構わなかった。課せられた任務を果たして、ヘド博士に尽くすことさえできれば。——だが、2号が、わたしを愛した。2号に愛されること、そして彼を愛することを知って、気付いたときには、戻れなくなっていた。2号がくれたこの温もりを、どうしても、自分からは捨てられない。

(……オレの、負けだ)

 2号との幸せを享受すること。もしくは、彼の存在に対する飢えと、再びの喪失への恐れ。わたしが弱らず、強いヒーローであり続けるためには、その二つのうち、少なくとも片方を失くし、克服しなければならなかった。だが、できそうにない。
 使命を貫きながら、今もわたしを好いているらしい2号と、わたしはは違う。わたしは極端で、過重、身の程知らずの愛し方しかできないのだろう。2号といるだけで幸福を感じ、満たされ、このままでいたいと思ってしまうことを、正しくなくても覆せない。
 とはいえ、もう間違えたくはない。わたしが間違えることを、2号だって望まないだろう。だから——。

「……2号」
「ん?」

 要件ができたら呼んでくれと言っておきながら、先に呼んだのはわたしの方だった。つくづく弱いなと、内心自嘲する。

「どうした、1号?」

 なのに、2号は期待に胸を膨らませているかのよう。キラキラとした光さえ浮かんでいるかのような目を、わたしに合わせてくる。わたしに呼ばれたことが嬉しいのだろうか。わたしが惚れた男は、こんな目でわたしを見てくれるのか。

「2号。……今夜は、しないのか……?」
「…………え?」

 「オレの傍にいてほしい」とは、言えない。最も正しくないその言葉を言って困るのはわたしだが、言われるおまえも、困るだろう。いずれ、またわたしを置いていくときに。
 だから、それ以外の言い方でなら。もう2号から離れられないと自覚したから、それくらいはと思い始めている。

「抱いて、ほしい……。2号……」

 今夜は、そうしているはずだった。わたしのせいでどこか遠くへ行ってしまった約束を、飢えと渇きが収まらない心のままに手繰り寄せた。今も、寄り添えているが、もっと深く繋がれるのであれば、そうしたかった。その方が、2号も快い思いをできるはずだ。
 欲深い、だろうか。はしたないと思われても、言い逃れはできない。だが、傍にいるだけでいい——という、最も単純な願いさえ、やがて叶わなくなる。ならば、ひと時だけでも、その夢が叶ったと、強く錯覚したい。

「…………」

 返事がない——が、驚いているだけだな、これは。
 口を開けたまま微動だにしなくなってしまった2号の姿は、ヒーローからは些かかけ離れた、間の抜けたものだった。少しおかしい。ここがふたりきりの寝台の上で良かった。他の誰かには見せないでほしい、カッコよくないから。カッコよくはないが、愛おしい、と思うのも、わたしひとりでいいだろう。

「い……1号……」ようやく、2号が口を動かした。「……今夜の予定、覚えていてくれたのか?」
「覚えている。忘れて……ない……」
「そっか。……嬉しいよ。だけど……また今度、な。おまえが良くなったら」
「なん、で……。このくらい、問題、ない……。……抱いて、くれないのか……」

 2号の却下は至極真っ当なものだったが、わたしはそれを予想できていなかった。後先考えずの誘いだった。そのせいで、子供のように食い下がってしまう。
 良くない、のでは。良からぬ方向へと、進みかけているような。

「1号……。問題ないって判断しちゃうあたりがまだ問題で、大丈夫じゃないと思うぞ……」
「…………」それも正論だ。黙るしかなかった。黙れば、言葉の代わりに呼吸音を零すことになるから、2号の言ったことを一段と正しくしてしまう。
「ボクはおまえに、酷いことはしたくない」
「……そうだな」

 よく、分かっている。おまえはいつも、酷いくらいに優しい。今も、止めてくれて良かった。

「そんな顔するなよ。おまえは絶対、良くなるから、またいくらでも……。そうだ、そのときは、またボクから改めて誘わせてほしい。いいか?」
「……構わない、が……」
「せっかく、1号が初めて誘ってくれたんだ! だからボクも、ちゃんと応えたい」

 初めて、か。言われてみれば、確かにそうだ。いつも2号に任せていた。2号が積極的だからそれで済んでいたが、半ば追い詰められた状態になって、やっとわたしの方から言えたというのは、申し訳ないことだろうか。

「1号も、これからたくさん誘ってくれていいんだぞ?」
「……そう言われると、恥ずかしくなってくる……。もう、しばらく言わない……」
「え!? ウソだろ!? しばらくってどれくらい!? ねえ、せめてもう一回! 録音! させて!」
「データの無駄遣いだ……」

 2号の言葉自体は普段通り騒がしいが、声量はいくらか落としているようだ。そういうこともできるんだなと、おかしな要望を退けながら、密かに感心していた。
 取り留めもないやり取りを続けていれば、鈍重な倦怠感まで少しずつ和らいでいく。不思議と、どうにか落ち着けそうな気がしてくる。やはり、2号がわたしに選ばせた二択のうち、こちらの方が、よりわたしを甘やかすものだったな。悔しいが、こうなった以上は受け入れよう。
 2号の欲しがる言葉を、わたしは言えないままでいる。それでも、2号はわたしと言葉を交わすことを、歓迎してくれているだろうか。そうであればいいと祈りながら、少しずつ瞼を下ろしていった。
 目を開けたときには、オーバーヒートは収まっているだろうか。そうなっていてほしい。なっていれば、今度こそ、2号と身体を重ね合える。
 ただ抱擁されているだけでも、この時間がずっと続けばいいのに——とさえ思ってしまうが、それは決して叶わない。逢瀬の約束の方が、ずっと現実的だ。近いものではあるが、その約束の方が叶う未来を待つことにしよう。自分から、未来を心待ちにするというのも、わたしにとっては珍しい——初めてかもしれない。

 2号がくれる幸せを拒めない、2号を求めずにいることもできない。このままでは、わたしは今の比ではないほど、酷い有様になり果ててしまう。かつて以上に、2号を恋い慕っているから、もう一度2号がヒーローとして羽ばたいたとき、今度こそ立ち上がれなくなる。
 もう、それでいい。「立ち上がれなくなる」というのは所詮思い込みだ。そのときが来れば、どうせ絶望を引き摺ってでも立つしかなくなる。2号も、わたしにそれを望む。わたしも、2号を止めることはできない。
 「そのとき」までは、最低限の自制を忘れず、いつか終わる幸せだということを思い出しながら、2号に身も心も委ねていればいい。ずっと一緒にいれると錯覚してしまうかもしれないが、一時的なものに留まって解ける錯覚だ。
 そうして、夢と現実の間を切り裂く酷烈な溝の存在に慣れたときには。2号がわたしに隠れてしていた、愛らしい練習の本番を、受け入れることができるだろうか。それも、楽しみ、だな。それもまた、わたしを壊すひとときの幸福だが、壊れたままでも立ち続けるから。