「……完っ全に、徒労だったな」
独りきりになった空間で、凶器となってしまったグラス相手に語りかける。当然、物は何も言い返さない。
他の男のところに泊まり込んでまで行った治療実験は、成功を収めることなく終わっていた。俺はいつものようにアレを躾けて、アレがいつものように従った後で、失敗に気付く。刻一刻と進化を迫られる戦場にいるときとは違って、何も変わることができなかった。
それでも世一のところへ帰った。実験は世一相手に成功させればそれでいいのだと信じて。衝動が頭を擡げようとする度に、首に刻んだ「不可能」に触れ、この挑戦を遂げるのだと言い聞かせた。そうやって、醜悪な本能に耐えて耐えて耐えて耐えてきたのに。
(やって、しまった)
怪我や後遺症を与えるようなものじゃなくて、本当に良かった。だが、あいつは五感が鋭いらしいから、これはこれで堪えただろう。そして暴挙というものは、一度やってしまえば完全に癖になる。二度目以降は悪化しかねない。いいや、二度目なんて迎える前に、世一は賢明な判断を下し、俺を捨てるかも。
何か、暴挙を選ぶ意思やきっかけがあったわけじゃなかった。世一の論に本気で呆れたわけでも。強いて原因を求めるなら、気の緩みといったところだろうか。穏やかな時間の中で、自然な挙動として及んでしまった。 ニンゲンを見返し陥れるための悪意として振るったのではなく、むしろ——。
「……気が、緩んで?」
この、俺が、世一相手に?
世一に呑まれないだけの心が欲しくて、この恋愛劇に乗ったというのに。これじゃあ——何もかも失敗している、敗けている! ただでさえ、衝動に勝てず、あるべき戦場の外で世一を傷付けたのに!
「…………」
震え始めた手が、空のグラスへと伸びていく。
透明で美しいはずの器が、あの薄汚い酒瓶に見えた。そこに映る貌が歪み、肥えた男へと変わって。
『だがお前はそれ以下だ……』
『俺のヘドロとあの女の強欲の残りカスから生まれた……人間以下のゴミ!』
『何もできない……! 役に立たない……‼ お前は動物以下……汚物以下の……』
声が、聴こえた。
——そうだ、こんな物が、あるから!
握りしめ振り上げ投げた器は、カーテン越しの窓に当たって、敗けた。子供の鳴き声のように、高く耳障りな音を立てて砕けた。上質なソファから立ち上がって、そのゴミの元へと赴く。
ある日から、傷だらけのサッカーボールに己を重ねていた。ボロボロになっても持ち主のところに返ってくる様が、絶対的な父と、無力な俺の関係によく似ていた。だが今は、足元に散らばる鋭い破片の方が、相応しいと思う。どれほど美しく繕っても、本質はどこまでも他者を脅かす有害物。望む望まないにかかわらず、傍にいるものを傷付ける。
「……クソ潮時」
戦場で潰し合うのだと言外に誓った世一の傍には、置いておけない。
「カイザー‼ どこだ、返事しろ! ……! やっぱり、グラス……! 怪我とかしてないだろうな……!」
案の定、割れ物の音を聴き付けて戻ってきた。髪くらいちゃんと乾かせよ、床も絨毯も濡れる一方だろ。後で後悔するのはお前ひとりだぞ。
「カイザー! まだいるんだろ!」割れたばかりのガラスを睨み付け、テーブルの上に置かれたままのスマホを振り返る。「頼むから出てこいって! それとも、まさか外に……!」
世一の声がすぐ傍まで近付いて——遠ざかる。慌ただしい足音を伴って、リビングルームを抜け出していった。この程度離れたところで、俺を呼ぶ声は依然として家中に響き、この耳に届く。
あれじゃあ、自分の位置を知らせているようなもの。かの監獄での〝鬼ごっこ〟の話を聴いたことはあったが、隠れんぼは下手のようだ。
(クソ素人が)
——世一が開け放っていたドアの影から、息を殺したまま一歩踏み出す。
あいつは〝超越視界〟なんて名前を付けていたか。俺同様、眼の良い使い方を知っているヤツだが、所詮はサッカーボールだけ追い駆けてきたようなニンゲンだ。生きるために培った俺の力との間には、アマチュアとプロくらいの差がある。試合中の技巧としてならともかく、こういうときに使うという発想ができない時点でなぁ?
さて、しばらくは戻ってこないだろう。ならばとりあえず、散らばったままのゴミ掃除でもするか。温室育ちの世一には任せられない。その点、俺は慣れているし、ドジも踏まずに手早く済ませられる。
その次はクローゼットだ。こんなガウンじゃどこにも行けないから、暗い影に身を隠せる色をした、フード付きのパーカーに着替えたい。
そうだ、警察に届け出でも出されたらクソ面倒だな。何か一言くらい残しておこう。だが「クソ捜すな」では少々味気ないな。これが最後なら、思いの丈を込めて、I LOVE YOU? それとも、I HATE YOU? ——迷っている時間もないから、ここは潔く第三の案といこう。
一番信じてもらえない言葉かもしれないが、紛れもない本心だ。