公園よりも人目につきにくい。良からぬ輩も屯しているが、俺ならクソどうにかなる。そんな理由でひとまずの行き先として選んだのは、迷路のような路地裏の行き止まりだった。
それなりの広さがある空間だから、ボールも蹴れる。先客がいようが問題ない、一睨みすればいなくなる。母譲りの顔立ちは何とも有用だった。可憐な愛くるしさなんかじゃなく、視た者を圧倒し平伏させるほどの美貌は。
しかし持て余すこととなる暇ごと潰すように蹴り飛ばしたボール——家出の際に持ち出した私物で、俺にとって自分以外で最初の〝クソ物〟——は、コンクリートの壁に当たっても跳ね返ることなく、壁を伝って墜落した。駆け寄って抱え上げれば、かつて貼り付けた補修用のテープが破れていて、悪化して露わになった傷口が眼に入った。
「俺も……クソ愚か」
一度俺で割られて鋭利になった酒瓶がコレに突き立てられようとしたとき、必死になって抵抗したのにな。結局俺は、壊すことしかできない。こういうところは、つくづく父親似だ。
だとしても、クソ物にだって非はあるぞ。どんなふうに扱おうとも、平気で俺の元に戻ってくるところを気に入っていたというのに。新しいテープなんて今持ってるわけないだろ。仕方がない、剥がれたやつをどうにか貼り直すしかないか。
「……、はは、上手くいくわけないか……っ」
悪い癖。幼い頃の思い出のせいか、コレを弄っていると意味もなく涙が零れそうになる。それとも、弱い自分そのものみたいで情けなくなるんだろうか。あーあ、どうせ壊してしまうなら、世一に託しておけばよかった。
「……世、一……」
壊れて、その場に墜ちたクソ物のことを、悪くは言えない。俺だって、世一の元へ帰れない。フィールドを降りれば腑抜けてしまうが、それでもあいつは俺に一番の悪意をくれる。そんな相手の元へ戻ることができないなんて、今の俺も、こいつも——クソ物未満になってしまった、のか?
(そんなはず、ない……)
可能かどうかの話じゃなく、帰るわけにはいかない、から。
世一と俺は、フィールドで相まみえればいいし、それ以外など無い。あの戦場でなら、ふたりのストライカーとして、同じ野望と帝王学の下潰し合える。しかしそこから出てしまえば、世一はニンゲンで、俺はニンゲンのフリをしたクソ物という事実が浮き彫りになる。休む間もなくあいつの悪意を浴びたい、そしてこの精神をより堅牢なものへ——という思いで軽率に同じ空気を吸い続ければ、断絶された価値観と本性が明るみに出て、勝手にあいつを殺してしまう。 そう、しそうになった。
既に理想的な相手への高望みだが——世一が、俺みたいなヤツだったら良かったのな。
「俺、みたいな……」
これから、俺は——そんな存在のところへ、戻るしかないのだろうか。
いるじゃないか。「クソ物」ではなくとも、クソ瓜二つが。まだあそこに住んでいるのか? ミュンヘンからはやや遠いが。相変わらず、安酒とギャンブルに溺れているのだろうか。虐げられる我が子がいなくなって、寂しい思いをしてはいないだろうか。数年振りに顔を見せてやったら喜ぶだろうか。——愛して、くれるだろうか?
「ッ! がッ、ぅぐッ、ぁ゙~~~~ッ!」
その思い出をなぞるように、両手で首を締め上げる。濁った悲鳴と骨の軋む音が、暗い夜空と狭い世界に谺する。
——戻りたくない! あいつにただ支配される日々にだけは、もう二度と! あんな、モノ、愛なんかじゃ、ない——。
「あ゙、ぁ゙、ゔ……ッ」
居場所なら、あるだろう。世一との家でも、クソ実家でもない。あの戦場——存分に球を蹴れるフィールドこそが、俺がやっと手に入れた居城。どれほどのプライドを払ってでも、絶対に奪われてはならない領域。
城を守り、そして己の庭園を広げるための武器ならここに。首を絞めるため両手を離したおかげで、今は足元に侍り佇んでいる。この右脚がもう一度振るわれる瞬間を待ち望んでいる。
そうだ。俺には俺自身にも等しい、こいつさえあればいい。有象無象のクソ警官共を蹴り飛ばしたように、これがあれば余計なモノ全て薙ぎ払える!
「————ッ!」
一度も呼ばれたことのない、あってないような名ではなく、強き両親の血に相応しいファミリーネームを冠した、世界一の武器。これさえ、あれば!
「……あ——」
蹴り弾いたのは、本物の戦場の中を飛び交う弾丸とは違う。——無残な、クソ物。
宙を裂く一瞬で、また傷口が開く。壁から跳ね返る力も失って、またしても、惨めに地に伏した。——その姿に、己の本質が指差されたような気が、して。
「あ、……ッ、ア゙ア゙ァ゙ア゙〰〰〰〰——ッ゙‼」
クソ物らしく気管を圧し潰し、クソ物同様膝をつこうとした——そのとき、だった。
——潰れたと思っていた球が、俺の元へと返ってきたのは。
「っ、……⁉」
体勢を瞬時に立て直してトラップする。被っていた黒いフードがその拍子に脱げて、ふわりと舞った青い髪が視界に入った。
このパスを知っている。片手で足りるほどの共闘の中で、あいつから受け取ったもの。このまま決勝点を決めて、主役の座を勝ち取ってやりたい衝動を思い出して——また撃った。
ボールは当然のように、今度こそ撃墜してしまう。——だけど、相対していたストライカーが、拾い上げた。
「さすがに、お前のを何度も受け止めるのはできなかったけど……。俺の蹴撃一回くらいなら、どうにかなったな」
「……さっきのが、シュートのつもりなわけないだろ。——クソ、世一」
「シュート性のパスで偽装してやったこと、覚えてねえ?」
暗く淀む世界の中で、その瞳が——もう一つの青色が、不敵に瞬いていた。
「な、ぜ……どうやって、ここが分かった? いや、そもそもお前、ここまで来て、無事、なのか……⁉」
ここは俺が人払いをしてあるが、道中は酷い有様だろう。クソ迷惑な酔っ払いに、悪質な物乞い、飢えた暴漢——そんな奴らが集う場所だ。かつての俺が通っていたところによく似ている。齢が十に達する頃にはもう慣れてしまった俺ならともかく、お前みたいな童顔の日本人が。〝青い監獄〟のエース、日本サッカーの変革者——俺の宿敵が、余計なところでクソ危険な真似をするな!
「お前が俺に仕掛けた隠れんぼを真似しただけだ。試合中にしかしないような眼の使い方だけど……アマチュア以下の奴らを超越るのは、お前の思考を読むよりも簡単だった」
「っ、は……っ、だろう、なぁ……」
こんなことで、お前に共感する日が来ようとはな。
お前は、知らなくて良かったんだ。こんなところに、来なくたって。
「じゃあ……なぜ、俺がここにいると分かった? この俺が、こんなゴミの巣窟のような場所にいると……。……ああ、寧ろお似合いと思ったか?」
「違えよ。……あー……、その……。……ロレンツォ、が……」
「⁉ は、はぁ⁉ クソ金歯ぁ⁉」予想だにしなかった名前に、思わずリアクション役の道化のように叫んでしまった。世一が言い淀んだ理由も察した。
「お前なら、きっとこういうところにいるって……」
「だからって、お前……! あいつの言うことを真に受けたのか⁉ クッソ屈辱!」
クソうぜぇ、俺の世一に余計なこと吹き込みやがって! まさか以前俺に直接言ってきたみたいに、「同類」だなんだとか言って、勝手な憶測まで全部話したんじゃねえだろうな! CLだろうと国際試合だろうと覚えてろよ、絶対にハットトリック決めて、お前の名声奪ってやるからな!
「ただ従っただけじゃねえよ!」俺が取り乱したせいか、世一も必死に否定した。「可能性として、高いなって……俺が判断しただけだ」
「……?」
「ネスが言ってたんだ」嘘だろこいつ、この件ネスにも言ったのか。よく殺されずに生きてるな。「お前は、『孤高』で、『神聖』で、『不可侵』だって」
「……あいつらしいな」
「神聖」とは言い得て妙じゃないか。あいつは俺に、宗教に突き落とされたようなものだからな。嫌いだと語っていた実家が信奉しているらしい「科学」に屈してしまうよりは、あいつも本望だろう。俺の宗教も、心理学という「科学」に基づくものだが。
「だから、その逆をついた。『孤独』で、『卑俗』で、無法の『可侵』領域。……ここって、そういう場所だろ」
「お似合いと思ったか」と尋ねたときは「違え」と言ってなかったか? 今度は相当な侮辱をしやがって。——それでも、真っ直ぐに向けられた眼差しのせいで、悪い気がしなかった。
「ネスが言ったのは、いつものお前だ。……でも、自分で割ったグラスを自分で片付けて、あんな書き置きまで残したお前が、いつものお前のわけがないからな」
「…………」
心の乱れが宿敵にバレるとは。屈辱極まりないが、そこまで考えた世一のことを、褒めてやってもいいとは思う。
「だが、ここに辿り着くのは骨だったんじゃないのか?」
「いや、迷ったけど……」笑う気にはなれなかったが、気まずそうに目を逸らす世一は、何だかおかしかった。「……運かもな、これは」
「運?」
「偶然、近かったんだろうけど……。お前のシュートの音が聴こえた。それを辿ったんだ。二回くらい撃ってただろ?」
「——。……そうか、お前は耳も良かったなぁ……」
ボールをいたずらに破壊してしまっただけだと思っていた。——その行動に、意味があったのだと思えてしまった。
クソおかしいな、世一に見つかりたくはなかった、はず、なのに。でも、きっと、世一にしか見つけられなかった。
「……! ……っ」
「? カイザー?」
球が風を切る音を拾って近付いてきたということは——俺が上げた苦悶の声も、慟哭も、全部聴かれたな。居心地が悪くなって、世一から目を反らした。
後者はまだいい。情けなくも世一に負けたときはよくやってしまうし、世一だって俺に負けるとやるからお互い様だ。だが、前者は良くないな。あれが人に見せられるようなものではないということくらい、さすがに理解している。
今、それを言及せずシュートの話に留めるのは、世一の善意か? クソ気色悪い。世一じゃなければ許してない。
「もういいか? 俺も、お前に聴きたいことがあるんだけど」
「……何だ? フットボールへのアドバイスなら、フィールドの上でしてやる」
「とぼけんな。今尋ねることがあるんだ」急拵えの逃げ道は、簡単に潰されてしまう。
「……お前、なんで逃げた? お前ほどのやつが、俺に酒かけたくらいで、あんなにしおらしく謝った?」
——酒かけた「くらい」。「くらい」、か。
「…………」
なぜか浮つきかけていた心が、元通りの常闇に墜ちてていった。
あれを「くらい」と言えるのは、その異常性を理解していないか、受け入れているかのどちらかだ。クソ親父と俺が後者で、お前は前者。
やはり、お前と俺は違う。お前は理解しなくていいし、理解できるはずがない。元よりフィールドでも敵同士。同じ世界では、決して生きていけない。
「……世一。いい言葉を教えてやろう」
青色を靡かせ、世一へと近付く。告白を受けたときのような、緊張を煽る演出の意図も、妖艶な微笑みもない。
「クソ物、という」
世一が両手で抱えたサッカーボールに、人差し指をそっと乗せた。
「クソ……ブツ?」
「……ああ」
世一の声でそれが反芻されて、心臓と、首とが痛みを錯覚する。自分が言われているような気分になる。
「まあ、造語だ。だから辞書には載っていないぞ」俺の造語ではないがな。
「……どういう、意味なんだ」
「うーん、そうだな。定義はいくつかあるが……。……イラついて殴っても、思いっきり蹴飛ばしても、怒らないし、泣かない……。そんな、都合良く扱っても良い存在を指す」
「…………」
「俺は長らく、そんな物を視て、相手にしてきた」嘘は言ってない。鏡越しの自分相手に何度語りかけたか。「フットボールの敵なら、フィールドで潰せばそれで済む。……だが世一、お前は無謀にも、フィールドの外にまで着いてきた」
「だから、俺に手を上げそうになった……ってことか?」
「上げそうになった」んじゃなく、「上げた」んだ。クソ平和ボケが。
「……今回は、酒をかけた『くらい』で済んだかもしれないが……次はどうなるか分からん。……だから、世一」
意味も分からず生まれかけた声の震えを抑える意識を自覚する。演技の技術を今更のように思い出す。
それでも最悪の事態を避けれることを思い描けば、心から微笑める気がした。
「俺はお前から『逃げた』んじゃない。『離れてやった』んだ。……悪いことは言わない。もう、俺から手を引け。命と心が、惜しければな」
「——。……はっ、何を言い出すかと思えば。クソ皇帝様ともあろうお前の割には、珍しくお優しいな」
「……⁉」
——この俺の、最大限の警告を。世一は一笑に付してみせた。
「退くという選択肢を残したまま近付くほど、お前を侮ってなんかいない。また組み直せる心くらい、何度だって壊してやるよ」
——イカレてる。やっぱり、解り合えない。
心がそうでも、壊れた「物」は元に戻らない、常識だろうが。今お前が持つクソ物が、補修の下で生傷だらけであるように。俺が、ニンゲンを演ずるクソ物であるように。
「それに、こんなところで殺されたって死んでたまるか。俺がお前に殺されるとすれば、フィールドの上でしかない。それも、W杯の決勝くらいのな。それ以外なら、殺されたとしても、死んでたまるか」
「はぁ……⁉ 根拠のないクソ自信だろ……⁉」
「根拠の半分は俺の気概だから、信じてもらえなくても仕方ないけど。……もう半分はお前だ、カイザー」
「あ? ……俺?」
「お前だって、フィールドで俺を殺したいはずだ。こんなところで俺を殺したくはないんだろ? だから慎ましく身を引いてまで、俺を『クソ物』と思わないようにした。……違うか?」
「は……っ、……ははははは! 見誤ったなぁ! クソ自惚れがすぎるぞ、世一!」
あの女が演じた悪女のように笑おうとした。役を意識していないと、どうにかなってしまいそうだった。
「残念だったなぁ、俺にとってはフィールドの内も外も地続きで、大して変わらない! フットボールはお前みたいなヤツを潰して、欲を満たすための手段にすぎない!」こう言えば、生粋のフットボーラーであるお前は怒ってくれるだろうか。「クソ勘違いをしているようだが、俺は何も、意に反した衝動に抗っているわけじゃない。自分の意思で! ニンゲン共を潰している! だから……お前の苦痛に歪む顔は、さぞかし見ごたえがあるだろうなぁ……?」
演技も本音も綯い交ぜにして、境目も分からなくなるまま舌なめずりをしてみせる。心と本能が一つに重なり、予感だけで背筋に甘い痺れが迸る、気がした。
「何も、今この場で……お前を縊り殺してやってもいいんだぞ。俺は、ニンゲンを絶望させられるなら……それでいい」
「いや、お前……」
——命を脅されているにもかかわらず、世一は呑気に呆れていた。
「フットボールが欲のための手段、はいくら何でも無理あるだろ……。その程度の認識でいるなら、こんなボールを捨てずに持ってるわけがない」
「……っ! それ、は——!」
「そこ以外は……まあ、本当かもしれないけど。でも、俺が言ったことだって、本当のはずだ。……どっちも、本当なんだろ」
「どち、らも……。……!」
突如伸ばされた世一の左手が、俺の右の手首を掴む。世一がどんな意図でそうしたかは知らないが——掴まれた手の指先は、もう少しで自分の首に触れるところだった。殺してやる、と言ってやったが、世一の首の代わりに、自分のを絞めようとしていた。
世一の、言った通り。——ここで、世一を殺せなかった。
「な?」得意げな世一の笑顔が、憎たらしいほど眩しい。「俺は信じてる。フットボーラーのミヒャエル・カイザーを。俺が追い駆ける天才、世界一までの宿敵と定めたお前を。そんなお前なら、どれほど俺を憎んでも、戦場の外で『クソ物』にはしない」
「っ、信じてる、だと……」
善意を煮詰めたような、気色悪い言葉。だが、世一のは違う。世一が本当に信じているのは、そんな俺を踏み潰し、自分が〝世界一〟へと至る未来だ。
そんな、お前だから、俺は——。
「それと」
世一が左手を下ろす。それに掴まれたままの右手のひらは、傷だらけのボールへと添えられた。
「お前も、『クソ物』呼ばわりされるような存在じゃない」
「————」
なん、で。なんで、そんなこと、を。
クソ、クソクソクソ! なにも、なにも知らないくせに! その言葉の意味だって、さっき知ったばかりのくせに! 俺がその、クソ物だってことを、知らないくせに! 大間違いにも程がある、クソ道化が!
——心から涙を流していた、弱く惨めな子供が、求めるような否定を!
「……遅いぞ、世一」
「それはごめん! ここ、家からけっこう離れてるし、俺も……大分迷ったし……」
もっと早く、お前に出逢えていたら。絶望に染まる前に、お前とフットボールができていたら。——何か、変わっただろうか。病的なまでに心地良い加虐欲に苛まれることも、「不自由」を必要とする被虐者の立場に拘ることもなく、ただお前と、胸の高鳴る闘争心のままに、〝世界一〟の座を奪い合えただろうか。
少しだけ、ほんの、少しだけ——羨ましく、なってしまった、が。
(……クッソ御免だ)
経験則だ。お前を想えば想うほど、きっと余計な衝動まで募らせる。不本意に堕落して傷付ける。今回だってそうだ。
だから世一、お前との理想の関係なんて叶わない。「クソ物」は「ニンゲン」にはなれないから、俺はとっくに、お前の何かになんて、なってはいけないんだ。そんなの、クソ高望み。
「……ほら、帰るぞ」
ボールを持つ右手は下げて、俺の手は握ったまま。俺が何も言わなくなったから、さぞ勝利宣言でもしている気分なんだろうな。俺が考えていることなんて分かってないくせに。クソムカツク。
「一緒に過ごしてて、なんだこいつって思うことなんてたくさんある。酒の件もお前が100%悪いと思ってる。でも、お前がいない世界に比べたら、ずっとマシだ。だから、一緒に帰るぞ」
「……イカれてる……」
帰るぞ、という言葉に頷きさえ返していないのに、やはり世一は勝ちを確信しているようで、俺の右腕を離してしまった。いいのか? 自由になった両手でお前を突き飛ばしてやっても。
「……」
動いたのは、左腕だけ。数多の悪意を刻み込んだ、美しく悍ましい肌。
世一は何の躊躇いもなく、こちらに手を伸ばし返す。また動けなくなった手首は、簡単に掴まれてしまった。
——少しだけ、懐かしい?
「相変わらず、手汗クソ酷いな」
「な……っ! わ、悪かったな! あのときも今も、全力で走ってやっとここまで来てんだよ! 言っとくけど、ハンカチーフ差し出してくれる召使は、ここにいないからな!」
「はは……別に、いい」
「え……⁉」
少し殊勝な態度に出てやれば、世一は眼を丸くした。お前俺を何だと思ってるんだ。ろくでもないヤツだと思っているならクソ正しい印象だが、この場で他の男を探すなんて真似はする気にもなれない。
「なあ、カイザー」
世一が破顔して見上げてくる。手を繋げた——というわけではないが、世一に触れられることを俺が良しとしたのが余程嬉しいらしい。
「お前、もうとっくにブッ壊れてるのかもしれないけどさ。……壊れたら、また新しく生まれ変われるよ」
「……簡単に、言ってくれるな」
「戦場ではお前も得意だろ、そーいう思考。……人格全部作り直せとは言わねーよ、いいヤツのお前とか想像できないし。……でも、フットボーラーに……ストライカーに、なれよ」
もうなっているだろう、という返答はクソ無粋。——俺は、自分たちは、「クソ物」じゃない。世一は、そう言いたがっている。
(……分かってない、な……)
世一。クソ物のもう一つの定義は、教えていなかったな。
——何をしても、返ってくる。どんなときでも、そばにいてくれる。
(……そうだ)
何度俺に負けても立ち向かってくるお前は。ここまで、俺を連れ戻しに来たお前は。——愛おしいクソ物以外の、何だと言うんだ。
そして、何度もお前を喰らおうとしている俺も。お前の手を受け入れて帰ろうとする俺も。お前以下のクソ物だよ。
どれほど変化を遂げようとも、原初のアイデンティティは変わらない。この身に刻んだ王冠も茨も青薔薇も、決して消えはしない。このままでは、いつかまた必ず、衝動に駆られてお前を虐げる。 ——それは、嫌、だから。
「……世一。帰ったら抱け」
お前を、俺と同じにはしない。立場の差を、忘れさせはしない。
お前を虐げる「いつか」は、本当に「同じ」と思い込んでしまったときだ。「クソ物」同士なら傷付け合っていいのだと、勢いよく跳ね返ってきた球から教わってきた。
「はぁっ⁉ 今の時間分かってんのか⁉ 朝の四時! そんで、今日はオフじゃない!」
「もうそんな時間なのか。……まあ、ランニングは免除でいいだろ。ここまで、クソ随分と走り込んでくれたみたいだしな」
「だとしたって、ちょっとは寝て休まないと……! ……抱く、のは、夜でいいだろ……」
「仕方がないな……」
ちゃんと「ニンゲン」として、物扱いしてほしかったんだが。次の夜こそはやってくれるのか?
「……なら、この後は一時間だけ、特別に添い寝でもしてやろう」
「え、すんなり受け入れてくれるの珍しいな……! お前、エグい要求しかしてこないのに……!」
免れない決裂の訪れは、少しでも遅れたらいい。お前と過ごす時間が、少しでも長くなればいいな。
理想はお前のお望み通り、W杯の決勝まで保てばいい、が。アレは年単位の遠い未来だから——クソ不可能。俺が、きっとそれまで耐えられない。叶えてやれない。だから、「ごめんなさい」と書き記したのは正解だった。
せめて祈ろう、そして力を尽くそう。お前を守るため、ヒトから外れた最も醜い本性は、二度と晒してしまわぬよう。そう遠くはない未来に待ち受ける最期はフィールドで、フットボーラーの〝カイザー〟によって迎えられるよう。
——潔世一。俺の、愛しい宿敵。どうか、〝クソ物〟なんかになるなよ。〝クソ物〟なんかに、敗けるなよ。