ガラスの水

Novel/BLL-潔カイ

mirrors(全4ページ/2ページ目)

 足取りは依然として重い。けれど嫌な重さじゃない。氷織のアシストのおかげで、覚悟が緊張を上回ってくれた、ような気がする。だからこれはそういう、戦場に赴くときの重圧と高揚にも似た重さだ。そう思っておく。
 道に迷うことだってない。——俺はこのドイツ棟に入寮してからずっと、カイザーの部屋の位置を正確に把握し決して忘れないようにしていた。絶対に近付きたくなかったからだ。その一心で選び続けてきた道と、今は正反対の道を進んでいる。そのおかげか、危険なことをしている気分にさせられる。心臓の音が増していく。これまでの俺とは全く違う行動を取っているんだから、スリルめいたものを感じてしまうのは当たり前だ。大丈夫、こういう感覚は、寧ろ得意なハズだろ。

(……着いた……!)

 眼前の扉の見た目は、他の部屋のものと何ら変わりない。のに、ひときわ威圧的な重厚感を放っていると錯覚してしまう。それこそ、どこぞの王城の一室に繋がっているんじゃないかってくらいに。
 扉の前で姿勢を正して深呼吸をする。やりすぎると肩に力が入りすぎてしまいそうだから、三回くらいに留めつつ、謁見の意を示すために左手を掲げる。ぎゅっと握った拳は視線と扉との間で小刻みに震えていて、滲み始めた汗が指の腹を濡らした。

「……」

 扉に触れる寸前で、拳は震えたまま止まってしまう。
 状況は、何も変わっていなかった。皇帝に逢うという気持ちだけ強くなって、逢い方も話し方も決まっていない。——そもそも、カイザーが取り合ってくれるかどうかだって。
 今までのことを考えたら、門前払いを喰らう方が自然な結末なんじゃないのか。俺がカイザーならそうするんじゃないか? だってあり得ないだろ、不倶戴天の敵同士であり続けたし、それ自体はこれからもきっと変わらないのに、あのラストプレー一つでこんな気持ちまで芽生えさせてしまってるとか。

(……いや!)

 今までのことを考えるなら、俺がカイザー相手に臆することこそ一番ない。
 躊躇うな潔世一。天と地ほどの実力差があった頃から、あの皇帝に挑んできたんだろ。一要素でも上回って勝とうとしてきただろ。そんな「今まで」があるから、俺は〝新英雄大戦〟の中で成長できて、勝ち抜けて、そしてアイツに近付こうとしている「今」があるんだ。「謁見」なんて表現なんか相応しくない。俺はアイツと並び立ったし、並び立てる。同じ目線を重ねて、話ができる!

「——……!?」

 ドアを叩くべく降ろした拳は——そこに触れることなく空を切った。触れようとした瞬間、内側からの操作で開かれたからだ。
 隔てるものがなくなったから、危うく真正面に立つ人物に触れてしまうところだった。とはいえ、頭で何か考えるまでもなく手は止まった。反射的な静止をするには、十分すぎるほどの衝撃だった。

「……世一……!?」
「……カイザー……!」

 ほんとに、いた。
 手と共に思わず止めてしまっていた息をようやく呑み込む。それでも思考は白いまま。皇帝の名を呟くことが精一杯だった。
 驚愕しているのは向こうも同じようで、大きく見開いた眼に俺を映したまま、カイザーは二歩ほど後ずさった。その眼は戦慄くように震えていて、驚きを超えて怯えてるくらいの反応だ。
 ——まあ、無理もないか。俺だし。殺意さえ向けた相手に自分から逢いに来るとか、またイカれたと思われるか、もしくは遂に実行の意思を固めたと思われてもおかしくないかも。フザけんな、フィールドの外で、サッカー以外でどうこうしようとするほど落ちぶれてないし、そんなことしたって意味ないだろ。

「……何しにきた」
「あ、えっと……」

 中途半端な位置で止まっていた手はとりあえず降ろしておく。もちろん殴りかかろうとしていたワケじゃなく、ノックをしようとしていただけの手だ。それくらいは多分カイザーも分かってくれていると思うけれど。

「……お前こそ、出かけるところ、だった?」

 目的をストレートに口にすることには失敗してしまった。でも、会話を広げられる言葉は返せた。
 監獄仕様のスウェット姿だったと氷織は言っていたけれど、氷織が目撃してから俺が訪ねるまでの間に着替えていたんだろう。今眼の前にいるカイザーもまた、新鮮な私服姿だ。下手に飾りを入れないシンプルなデザインとモノトーンの配色で纏められた衣装が、それを纏う素材のレベルの高さを際立たせている。鳥の尾羽を思わせる特徴的な長髪こそハーフアップに結わえられて落ち着いた雰囲気になっているけど、青いグラデーションの鮮やかさは健在だ。ファッション誌の表紙を飾っていても違和感ないほどの佇まい。フィールドを出て休暇を迎えてしまえば一高校生になってしまう俺と同世代とは思えないくらいの完成度の高さ。俺だって気合い入れて私服選んできたのに。

(ってか……!)

 ——カイザーって、こんなにキレイだったのか!? 
 何度も相対して、喰らうべく睨み続けていたはずなのに、今更のように気付いた。眩くて眼を逸らしたくなるのに、その意思に反して視線は奪われ尽くす。
 今までは気付かないように、認めないようにしていたのかもしれない。大体、容姿だけで捉えられるような存在でもなかった。ムカツク態度と合理的だからこその鮮烈なプレーの方が、ずっと印象的だ。今は俺の気持ちに少しの変化と余裕が生まれたから、ようやく認められたってことなんだろう、きっと。

「……。……だったら何だ」
「何だ、って……」

 俺は俺で惚けていたわけだけれど、カイザーの返答もやや遅かったような。惚けていた俺の様子でも窺っていたのかもしれない。
 それにしても険のある言い方だ。完全に警戒されてる。なら、俺はここからどうするべきだ? カイザーが外に出るなら、いつまでもここに立って道を塞ぐのも変だよな。

「……人探しなら他を当たれ。この部屋には俺以外いないし……出払っている他のヤツらの行き先もクソ知らん」

 あれ。取り合ってはくれる、のか? てっきり、二言目には「クソ邪魔」とか言われるんじゃないかとばかり思っていた。それと——。

「……行き先知らねえってことは、アイツらに合流するワケじゃないんだな?」少し、ホッとした。

 俺だって混ざろうと思えば混ざれる。だからカイザーもそこに加わるなら、それはそれで好都合だったかもしれない。でも、そういう賑やかな場も悪くはないけど——カイザーとは、ふたりで過ごしてみたかった。

「あ?」
「ほら、コレ」

 今度は自分のスマホでSNSを開く。黒名が投稿している写真——また何枚か更新されていた——のうち一枚を選んで画面一杯に表示させ、カイザーへと向ける。

「……は? コイツら、なんで一緒に……」

 あ、俺と同じ感想! やっぱり驚くよな。
 暫くして画面から顔を上げたカイザーは、少し困ったような表情をして、首をゆっくりと横に振った。

「合流するも何も、クソ誘われてない」
「……え!?」

 確かに、行き先も知らないっていうならそういうコト、なのか? ——いや、そんなコトあるか!? だって、カイザーって既存のバスタード・ミュンヘンU20のボスみたいな存在だろ。断られること前提でも一声くらい掛けないか? 高嶺の花みたいな存在ならまだしも、常に付き従ってた側近だっていたわけだし。

「……俺はヒト付き合いがクソ悪いんだ。部屋の中で、ひとりで過ごす方が性に合っている。……あの犬も、ようやく気付いたんだろ」
「ふ、ふーん……」

 そういえば、〝フランス〟戦の間にネスとは色々あったみたいだ。なら、おかしな話でもない、のか。——ネスたちの名誉を守ったかのようにも聴こえるカイザーの説明は、俺が抱いた困惑や疑問を全部見抜いたかのようだった。
 感心してばかりもいられないか。この状況で「人付き合いが悪い」「ひとりで過ごす方が性に合っている」と明かすのは、俺にもこの場を退くことを暗に要求してるってコトかもしれないわけで。

「で、さっきから何なんだクソ世一。アイツらの行き先を既に知っているというなら、他に誰を探してこんなところまで来たんだ」
「…………」

 核心に迫る質問をされ、答えが眼の前の相手であるせいで言葉に詰まる——というより、唖然としてしまった。何でさっきはすげえ察しが良かったクセにそこ気付かねえんだよ。他人の心理を見抜いて操るプレー得意じゃなかったのかよ。もしかしてわざとか?

(……面白え)

 わざとだろうとそうじゃなかろうと。乗ってやろうじゃねえか。俺だって、聞き出したいことはあるんだ。
 何せ、今のお前の行動と、ついさっき述べられた言葉は矛盾してるからな。折角のひとりの時間を邪魔して悪いけど、恨むなら自分の矛盾を恨めよな。

「そっちこそ。皆が外出してるってことは知ってたんだよな? つまり、お前だってアイツらを探そうとしてるワケじゃなくて、他に何か目的があって、部屋の外に出たんだろ? 『ひとりで過ごす』以上の目的が」
「…………」

 例えば食堂まで食事や飲み物を取りに行くだけなら、わざわざスウェットから着替える必要はない。特徴的な髪型を隠すように結わえている様はどう考えても余所行き。まず間違いなくカイザーは監獄の外に出ようとしているか——休暇に相応しい装いで、誰かの元を訪ねようとしている。
 沈黙が長い。これは図星だな。

「……世一、自己開示は対人関係の基本だぞ? それとも、隠すほどの目的があるのか? さぞ御大層な人物に逢いに行くようだな」
「その言葉、そっくりそのまま返してやるよ。お前だって質問に質問でしか返してねえだろ。大体、俺は誰かを探してるなんて一言も言ってない」

「何だ、違うのか? まさか世一は、オフの日にわざわざクソめかしこんでおきながら、クソお仲間の輪に加わることもなく慣れ切った獄中をただうろつくつもりでいたのか? クソ変人だな。散歩する場所くらい、もう少し選んだらどうだ?」
「う゛……っ。……いや、お前それ鏡見ながら言えよ! お前だって私服に着替えてるくせに!」

 ——なんでこうなっちゃうんだろ。腹の探り合いはある意味俺たちらしいのかもしれないけど、こんなやり取りをするためにここまで来たわけじゃないのに。せめて建設的で合理的な話ができないものか。そっちの方がもっと俺たちらしいだろ。何でお互い意地張ってるんだ?
 俺が最初からまごついてしまったのは認めるけれど、カイザーもカイザーで、明らかに何か隠してるし。お互い探らせず明かさずの堂々巡りで、決着がつく気配は一向に見えない。

「……チッ」

 何度かの応酬の末、カイザーは言葉じゃなく舌打ち一つを返してきた。——顔を顰め俯いてのそれは、俺に返してきたものというより、この論戦自体に向けているかのようだった。言い争いの不毛さをカイザーも感じてくれたのかもしれない。
 だよな、お前だってバカじゃない。寧ろ賢明な判断ができるヤツだ。

「まあいい。世一がどこへ行って誰と逢おうがクソ興味ない。こんなところで油を売っていないで、さっさとお目当てがいる棟に行ってきたらどうだ。連絡通路はクソ反対側だろ」
「棟……? ……連絡通路?」
「世一の探し人が今不在にしている〝ドイツ〟の連中じゃないのなら、他のチームにいるヤツらだろ」
「……」

 この誤解はまだ解けていなかった。俺が解いてないから当たり前だ。いや、お前なんだけどな——と素直に告げて解いてしまいたいと思う一方、カイザーだってまだ何も明かしていないだろという思いに起因する蟠りめいたものに遮られる。
 でも、そろそろ解かないとマズいんじゃないだろうか。いよいよ追い返されそうな流れになってきている。それに、追い返されたところで。

「……連絡通路……?」
「おい、まさか知らないのか?」

 ここばかりは素直に頷く。若干の情けなさや無力感を自覚しながら。
 〝新英雄大戦〟期間中、選手は所属する各国チームごとに分かれた棟で過ごす。でも、事前に申請を通しておけば他棟との行き来も可能。その制度を利用して、蜂楽や千切がここに来てくれたこともあった。國神も交えて四人で行ったトレーニングのおかげで、俺もストライカーとして大きく飛躍できた。
 けれど思い返せば、俺の方から他棟に出向いたことは一度としてなかった。研究したい選手や参考にしたいプレーの確認は、全部モニタールームで済ませていた。俺が把握していたのは宛がわれた四人部屋と、各種トレーニングルームとモニタールーム、ノアに助言を求めて赴いたマスターストライカールーム——そしてこの皇帝の部屋だけだ。

『國神に逢いに来たんだ』
『それと潔にもね!』

 そう話した千切・蜂楽二人は、ただ単に俺や國神のプレーを視たかった、トレーニングの相手が欲しかった、というワケじゃないんだろう。縁深い好敵手——しかも國神は変わり果てた様子だったから、気にもなるだろう——と実際に逢って得れる刺激とか、激闘の感想を直に言葉で伝えたい衝動とか、きっとそういうのがあった。

(俺が、蜂楽や千切みたいな行動を起こさなかったのは……)

 刺激や衝動を一番くれた存在が、同じドイツ棟にいたからか。
 もっとも、俺や國神に逢いにと言ってここまで来てくれた蜂楽たちと違って、俺は今までソイツ——カイザーを徹底的に避けようとしていたのだけれど。

「……ったく」ため息一つ零して、眼の前のソイツは一歩踏み出す。正面を塞いでいる俺を避け、横へとすり抜けるように。
「何だよ」
「仕方がないから、案内くらいはしてやる。それとも、迷子になってお相手を待たせたいのか?」
「——……ッ!!」
「おい、世一……?」

 マジかよ!! と叫びたくなるのを必死に堪えた。
 カイザーがここを通り過ぎるように前に出た瞬間、正直終わりだと思った。脳をフルに動かして、引き留める言い訳を急造しようとしてた。——でも、違った。カイザーは俺を避けるように移動したんじゃなくて、俺の隣に来たんだ。

(カイザーと、ふたりで過ごせる!)

 何たる幸運。俺が〝新英雄大戦〟中ドイツ棟に留まり続けたという些細なことで生じた無知が、こんな形で結実するなんて。そのときからずっと俺の〝目標〟であり続けたのがカイザーだったからだと思うと、因果めいた幸運かもしれない。何にせよ、この好機を逃す手はない。

「……何でもない! じゃあ頼むわ、よろしくな」
「…………」

 本当は、他棟に用事なんてない。でも、いい。その目的地に至るまでの、お前といる道こそが、俺の「目的」になってくれるから。

「……あ。待てよカイザー」

 礼を言われても全く嬉しくなさそうな無表情で先へ進もうとする皇帝を呼び止める。別にその態度が気に障ったとかではなく。

「スマホ落としてるぞ」俺に遭遇して驚いたときに手放しでもしたんだろうか。

 上向きに転がっているそれの画面は点いたままだから本人に任せた方が良いとは思ったけれど、閉まり始めた自動ドアに危うく挟まれてしまいそうな位置にあったから、慌てて拾い上げた。
 その拍子に、画面が少しだけ、視界に入ってしまう。

「ん」

 カイザーは特に気にする素振りもなく手を差し出す。まあ、プライベートな画面を出していたわけでもないしな。——俺がさっき見せたような、公的なSNSの画面だった。

「何だ」渡すと同時に出した声は、思っていたよりも渇いていた。「お前も行き先一緒なんじゃん。……イタリア棟に行くんだろ」
「あ?」

 決着つかずの応酬も随分と呆気ない。明らかに他所行の恰好をしている皇帝の行き先は、表示させていたSNSの内容で何となく察せてしまった。
 そのSNSのアカウント主はロレンツォ。強敵とはいえ、俺にとってはまだ一試合戦っただけの相手だから詳しいワケじゃないけど、豪遊気質の人物らしい。オフ初日から〝イタリア〟のメンバーたち——あの王様馬狼まで含めて——と共に遊んでいる様子の投稿は、俺も眼に留めていた。
 気難しい王様とも上手くやっていける陽気さと——そして俺たちと戦ったとき、カイザーに親し気に接していたことを思い出す。

(……そっか)
「世一……?」

 腑に落ちた。俺が誰かを探していると半ば決めつけていたのも、その誰かが〝ドイツ〟のメンバーじゃないと推測していたのも——カイザー自身がそうだったから、ってコトなのかもしれない。

「……何でもない。……行こーぜ」

 俺の行き先も目的たる人物にも興味はないとカイザーは言った。俺だってそうだ。今から別棟に辿り着くまでの時間さえあれば、それでいい。その後でカイザーがどこで何をしようが、構わない。
 ただ——カイザーにとっては、乗る舟が偶然同じだったって話に過ぎない。カイザーは、わざわざ俺を別棟まで連れていってくれるワケじゃない。その自惚れは、ちゃんと捨てておかなきゃな。