
ただでさえ近未来的な技術が集められた施設。そして今は人の気配もないとなれば、いよいよ甚だ無機質な空間だ。
俺の隣にカイザーがいたとしても、その印象は変わらない。何か言葉を交わすこともなく、足音を響かせているだけだから。確かにふたりでいるのに、良い意味でひとりで歩いていると錯覚してしまいそうなくらい、雑音がない。
(……すげえ、不思議)
気まずくは、なかった。——寧ろ、その反対。何というか、今の状態に一切の違和感がなくて、心地良い、って言っていいかも。カイザーに逢うまでは胸の内であんなにも燻っていた火が、今は正しく穏やかな灯火になっている気がする。〝フランス〟戦のときの礼とか言おうかなと思い浮かべては、前向きな気持ちで口を閉ざしている。
カイザーの隣で、カイザー相手に、こんな気持ちになれるなんて。あのラストプレーのときも感じたけれど——案外、波長みたいなモノが合ったりするのか? それはそれで何か癪だな。心から認めるフットボーラーであることと、この上ないクソ野郎だという印象は両立する。それはきっと前々から感じていることだ。
ふわふわと浮つくようでありながら落ち着けてしまう、なんて雰囲気も両立させてしまえるってことは、今初めて知った。癪なんて程度の悔し紛れな気持ちは、この居心地の良さには勝てなさそうだ。だったら容易く勝ってしまった方の気持ちを、もっと知りたい。この想いに浸っていたい。
連絡通路とやらに、着かなければいいのにな。既にそれなりに歩いている分、そんなワガママも募っていく。俺が案内役だったなら、きっと遠回りの道を選んでいた。
(……俺が、案内役だったら……)
いいや。実際は、もう既になっているようなモノだ。別棟への道を知らないのは本当だけど——代わりに一つ、知っていることがある。道案内ができる代わりにそれを知らないカイザーを、この状況へと誘導していると言っても否定できないかも。
——〝イタリア〟のメンバーもまた、今日は全員外出中だ。氷織とSNSを確認していたとき、眼に入った愛空と閃堂の投稿にその旨が書かれていたのを確かに見た。けれど、イタリア棟に行くんだろと尋ねられて否定しなかったカイザーは、多分そのことを知らない。
つまりカイザーは、今完全に無駄足を踏んでいる。実のところ俺が他棟に用はないということも合わせれば、俺へのついでの親切さえ、水泡に帰すことになってしまう。——居心地の良さを勝手に感じている、俺だけが得をしている。
(どう、する……?)
足音を鳴らすごとに、迷いは膨れ上がっていく。心地良さが侵食されそうになる。
元々、カイザーの都合とか気持ちとかは考えることなく、俺の感情の整理のために、〝青い監獄〟に戻ってきたんだ。このまま黙秘を決め込んで、俺の目的を果たしきるか? それを躊躇ってしまうのは、騙しているような心苦しさのせいか? 痛むのはクソ野郎にさえ向けられる良心か?
——違う。そんな、ヤワなモノじゃない。
『どこまでクソ不平等なんだよクソ神ぉッ!!!』
俺と同じ「秀才」。傲慢な「天才」たちの踏み台にされかけた存在。だけど、カイザーがその理不尽を被ったのは、きっと一度や二度じゃない。そうじゃなきゃ、俺がただ打ちひしがれるしかなかった瞬間に、あんなふうに叫べない。あれは俺以上に純粋な絶望を知っている経験者の、悲嘆を超えた憤怒だ。
「秀才」として「天才」に勝つと誓ったから、その快感を追い求めることを欲したから、経験者たるカイザーと手を組んだ。——カイザーがどれほどムカツク相手でも、いずれ日独の代表として激突する敵同士でも、あの戦いで手に入れたエゴと契約は裏切れない、裏切りたくない。不平等の下の側に置かれながら戦うことを決めた者同士として——せめて俺くらいは、カイザーに誠実でありたい。叩き潰す未来だって、「理不尽」なものじゃなく、合理と必然性に基づいたものであってほしい。
同情とか、傷を舐め合うつもりじゃない。「秀才」であることを認め誇れるようになった俺が通すべき筋で——そう思わせてくれた存在への、ほんの少しの礼だ。
「……なあ、カイザー」
「……。ふーん。クソ金歯のイタリアに集ったヤツも遊び好きか。つくづく、似た者同士は好んで集まるらしいな」
立ち止まり、イタリア棟には誰もいないと意を決して打ち明ければ、カイザーはただ淡々とそう返してきた。
「……驚かない、のか?」
多少は狼狽えるんじゃないかと思っていた。まるで何気ない世間話を何気ないものとして流すような返事は完全に予想外で、俺の方がそれに驚かされてしまった。
「……そうだな。……世一がクソ滑稽でクソ哀れだから、そろそろ教えてやるか」
皇帝はわざとらしく片眉をつり上げ、急に俺を煽る言葉を吐いた。——嫌な予感がする。
「俺は最初から〝イタリア〟なんざ気にもしていない。〝イタリア〟以外もだ。他国の棟に用事なんてない」
「…………え?」
「言ったよな? ヒト付き合いはクソ悪いと。にもかかわらず、クソ早計で俺を量った気になれているクソ道化の姿は愉快なモノだったが……。それに合わせて驚く演技までするほど殊勝じゃないからな。……ここらへんで、許してやるとしよう」
「……な……っ!?」
じゃあ、ここまでの俺の仮説全部ゴミってことか!?
んなワケないだろ! 確かにカイザーのスマホに映っていたロレンツォのSNSなんてものは判断材料としては弱すぎたかもしれない、その失点は認める。でも、カイザーに何の予定もないのなら、この外行きの私服に着替えていることの説明は、やっぱりつかない!
「クソ、何で最初に否定しなかったんだよ……! お前の目的って、本当は何なんだ……!」
「……。……世一を送り届けた後は食堂にでも寄るか。そしてコーヒー片手に部屋に戻り、読んでいた本の続きをクソ読む」
「ああ……!? そうくるかよ……!」
明らかに何か考え込んだし、答えられた「これからの予定」は、「当初の予定」を尋ねた俺の質問に対して少しズレている。隠すための言い訳としては粗末な出来だ。わざわざスウェットから着替えたらしいその恰好の弁明くらいしてみろよ。できないんだろ。ひとりで外を散策する、とでも言っていれば、まだ納得してやったのに。
「……っ」
だけど今の俺にできる推測は、結局ここが——カイザーは目的を隠してる、ってことを見抜くことが限界だ。カイザーが黙秘を貫く限り、これ以上の情報なんて得られはしないし、正解にだって辿り着けやしない。
カイザーがこんな調子である以上、俺にも打ち明ける気は湧かない。この些細で不毛な争いも、もう潮時か。何ともスッキリとしない後味の引き分けだ。いや、俺は一時カイザーの目的を見誤るという失点をしたワケだから、どちらかと言えば俺の方が敗けなのか? うわ、嫌だな。
この状態を覆すことが無理だとしても、せめて五分にまで持っていく手は——ある。「誠実」な一手が。
「……! ……おい、カイザー」先へ進もうとするその背を、細めた眼で捉えながら呼び止める。「食堂はそっちじゃないぜ」
「あ?」怪訝そうな眼差しで振り返られる。「クソ迷子寸前の分際でケンカ売ってんのか? 明らかに今来た通路を引き返そうとしてるヤツに道説かれたくないんだが。別棟だってそっちじゃねえよ」
「誰も別棟に行きてえなんて言ってねえだろ」
「……何……!?」
俺に向けられた天色の眼に宿る訝しみが、動揺と驚愕に塗り替わっていく。
ああ、コレだよコレ。コイツの想定を超えて鼻を明かしてやったときの反応は、どうしてか本当にたまらない。
「なら……! なぜそれを黙ってここまで来た!? クソ理解できん、何がしたかったんだイカレ暇人……」
「お前だってさっき説明してくれたよな。俺が他棟に用事があるって早合点したお前を、敢えて放置してたんだよ」
「はぁ!? クソ外れ……!? あり得ない、そうじゃなきゃお前は一体……!」
嘘はついてない。俺もカイザーの勘違いを指摘しなかったというのは確かな事実だ。そして俺の勘違いをカイザーが正さずにいたのは意地の悪い理由だったかもしれないけれど、俺の理由もそれと同じ、とまでは言っていない。俺は、ただ一緒に過ごしてみたかっただけだから。
——これはこれで、ある意味意地は悪いか。俺のじゃなく、カイザーの時間を無駄にさせてしまったことに変わりはなく、無駄にさせた、ということはこれで明かしてしまったようなものだ。
何にせよ、化かし合いはこれで終わりだ。互いに謎は残しつつではあるけれど、その状態も含め、最後に五分まで持っていけてよかった。
「……はぁ。もういい。クソイカレ野郎をこれ以上詮索する気にはなれない」
深いため息一つ吐いて、カイザーは連絡通路側の方向にくるりと背を向けた。その様子をただ眺めていた俺に追いつき、一歩追い抜かして立ち止まる。
「ほら。クソ突っ立っていないでクソ戻るぞ。お互い向こうに用がないなら、これ以上進む意味はないだろ」
「……え? ……戻るぞ、って」——帰り路、一緒に来てくれるのか?
「聞くが、世一」俺の思考を見透かしたように、瞬時に鋭く睨まれた。「テメェ、自分がひとりで戻れると思ってんのか? ここまでの路を覚えているか? 歩いてる最中、覚えようとはしてなかっただろ」
「……マジか」
今のはクソ正解。全くもってその通りだ。
道案内をされている最中、俺はずっと浮かれてたし、夢見心地ですらあった。帰り路のことなんて、一切考えてなかった。俺の目的を理解できず「イカレ野郎」呼ばわりしている以上、俺の感情そのものがバレているワケではないだろうけど——俺の状態は、ここまで読まれてた。
「……よく視てんのな、お前」
「……。クソ視てない。それくらい簡単にクソ分かる」
皮肉や揶揄いのつもりはなく、純粋な感心のつもりでそう口にした。俺も人間観察とか、そうして把握した心理を利用したプレーとかするけど——するからこそ、カイザーの同じ能力の高さにはいつも眼を見張らされる。
「で、どーする? 速足で歩いて、お前を置き去りにしてもいいんだぞ」
「う……」
カイザーはプレーの質が似ていたとしても、個人技じゃまだ及ばない相手。歩行速度だってその気になられてしまえば多分勝てない。放り出されたら終わりだ。
「……頼むわ……」
「クソよろしい」
「ああ、食堂までよろしくな」
「……は?」行き先を告げたらなぜか驚かれた。「なぜそこまで着いてくる? ……ドイツ棟の中心あたりまで行ければ、あとはいいだろ」
「悪かったな、俺も食堂行きたいんだよ。そろそろ昼だろ」
「…………」
本当のことだ。カイザーとの時間を少しでも延長させたいとか、そういう気持ちもないと言えば嘘になるけど、あくまで副次的に得られる恩恵だ。そういう気持ちで決めた行動じゃない。
それに、延長を叶えてくれたのはカイザーだ。色々言い合いもしたし脅されもしたけれど、自分の時間を浪費させたはずの俺をここで置き去りにしない、という選択肢を、カイザーが取ってくれたから。
カイザーにも親切心なんてモノはあるんだろうか。いやあり得ないな。せいぜい、皇帝の気まぐれ。あるいは、打算的な責任感? 目的を勘違いして俺をここまで連れてきた手前、ここで俺を放り出すのは却ってダサい、みたいな。
(……あれ?)
俺たちは、お互いが他棟に赴くものだと思っていた。そして自分の目的がそれじゃないことを隠して着いて行ったし、連れて行った。自分の隠し事で精一杯だったせいで視えにくかったけれど——何で、カイザーはわざわざ俺に時間を割いた? 俺は、それが目的だったから、だけど。カイザーはどうしてこんなことを。
どこかに用事があったのはその服装で明白なのに、食堂寄ってから自室まで引き返すなんて、カイザーの割には無駄な行動を重ねている。やっぱりもぬけの殻のイタリア棟に用事があったことを、見栄張って隠してるだけなんじゃないのか? でも、棟の住人たちの不在にほんの少しも驚かなかった様子が嘘とも思えない。
(……あ、俺への嫌がらせのためか……)
そういえば、そんな感じのこと言ってたな。
これで納得できてしまうくらいには性悪の相手だ。——それでも、今のカイザーの装いが、やはりその結論の雑音になる。ただ〝青い監獄〟から出ずに過ごすだけなら、俺だって自室に着いた時点で動きやすいジャージやスウェットに着替えてる。それでも一男子高校生レベルの知恵を絞って選んだ——身近なモデルの雑誌掲載写真を調べて参考にするくらいはした——服に袖を通したのは、ひとえに相応の目的があったから。だからカイザーにも、何かあるはずだけど。
——うーん、分からん。
「世一? 置いて行かれたいのか」
「行かれたくない!」
今はこの、僅かな延長を満喫するしかないか。——すげー気になるけど。