Novel/BLL-潔カイ
患者と演者(全5ページ/3ページ目)
ヒトの気配のない部屋は、俺の休日に相応しい空間。室内にも確かに満ちる冬の空気もクソ良き。無粋な暖房なんて、下手に付けない方が快適だ。しんと冷えた空気の方が肌に馴染むし、思考も明瞭にしてくれる。日が短いおかげで、夜の訪れが早いのもクソありがたい。——ギャンブルに赴くクソ親父の背を思い出す。夜は束の間の僅かな自由が許される、クソ物好みの時間帯だった。
「…………」
だというのに読みたかった本のページをどれだけ捲っても、新鮮で刺激的なハズの知識の羅列は、脳に宿ってくれなかった。読了してからもう一度開いたところで、同じことの繰り替えし。一秒一瞬を無駄にしている感覚に、静謐な時間に似合わない苛立ちを覚えそうになってしまう。
「! ネス……!」
覚えかけたところで、いつも傍らのスマホが通知音を鳴らしていた。——ネスに命じた経過報告。
苛立ちはそれを合図にたちまち霧散する。開いていたページにスピンを挟むことも忘れ、本を置きスマホを手に取った。
<世一、やっと起きましたよ>
「……!」
ここまでは毎回「世一はまだ寝てます」とばかり言われてきた。状況が大きく変わったことを示すそれに、思わず息を呑む。ネスの言葉を待つ。
<カイザーのフリなんてできませんよ やっぱりちょっと怒られちゃいました 世一の分際で生意気ですね>
「そ、れは……」
どういう、怒りだ? 思わぬ存在が看病役に就いていたことへの落胆による八つ当たりか? いいや、いくらクソエゴイストとはいえ、その横暴の質は自分の世話を焼いてくれたヤツを無下にするようなものとは違う。なら——やはり、世一を放っている俺への蔑みか。きっとそうだ、そうに決まってる。覚悟だってしていたはずだ。ネスの言葉なんて促さずとも、待つまでもなく分かる。俺は、それくらい酷いことを——。
<熱、下がってきたかもしれません!>
<食欲も少し出てきたみたいですけど、ゼリー多すぎって言われました ホントワガママ>
最新のメッセージに添えられた体温計の写真を拡大する。一つ前に送られてきたものと比べれば、数字の差自体は微々たるもの——だが、今日初めて38.5度を切った。今朝、この眼で最後に視た数字よりも1度ほど下がっている。
これまでにも数回送られてきた写真の数字から予測を立てるなら、このまま順調に下がって終わり、ということにはならず、また数度程の上下を不安定に繰り返しはするだろう。それでも、今朝のことを思えば確実に快方に向かっている。怒れるほどの意識と気力があるのがクソ証拠。——朝の世一は、らしくないほど沈んでいた。
「……そうか……」メッセージが届いてからずっと止めていた息を、ようやく吐き出せたような心地だった。
ネスは、よくやってくれている。結果がそれを示している。
今だって、<タオル洗って、それからハーブティーを淹れようと思うので、キッチンお借りしますね>と、まともな案を実行する旨を伝えてきた。今朝の俺はつい薬を探したが、カモミールやホルンダー、リンデンあたりの方がクソ手軽かつ効きやすいらしいなと、他人事のように、そして初めて知るように、感心した。
「……クソ……ッ」
看病のやり方を知らないんじゃないのかと、ネスは俺にそう尋ねた。
——知るワケ、ないだろ。吐く勢いでどれほど咳き込もうが、背を擦られる代わりに足蹴にされた。高熱に苛まれた肌は清拭される代わりに、消費期限の切れた牛乳を浴びせられた。自分を楽にしてくれるかもしれない芳しい茶葉の代わりに、新しい牛乳と父好みの安酒を求めて「働いた」。こんな人生の一体どこに、それを知る機会があったって言うんだよ。
あー、でもあのときは確か牛乳を一本しか盗めなくて、怒り狂ったクソ親父にはあの薔薇の花以外の貴重品なんて判断できないから、その牛乳をまた俺に——。
「ぅ、ぐ……っ」
鼻と口に掌を圧し当て、記憶からこみ上げてくる臭いと吐き気をどうにか潰した。
ったく、余計なコト思い出した。クソ親父は今関係ないだろ。今はただ、ネスの手腕と俺との差について考えていたんだろ。
そのネスだって、家族から冷遇されていたのだと以前語っていた。俺たちの前提条件が、ある程度同じであるならば。
(……そうだ)
やはり、親父は関係ない。あの男に植え付けられた惨めさなんて言い訳でしかない。俺はその惨めさに甘んじることなく、悪を振るう側になることを選んだ。ネスとの差なんてクソ簡単。俺なんかに騙されたネスよりもずっと、俺という存在が悪意に満ちていたという話だ。
本当は、カゼに効く飲み物くらい——看病のやり方くらい、分かっていた。ニンゲンのフリをするために、寝る間も惜しんでヤツらを、ニンゲンの心理も行動原理も何もかもあらゆることを学んでいたときから知っていた。
(分かって、いて……)
世一相手にやらなかっただけ。もし世一以外の誰かの世話を余儀なくされていたのなら、かつての父のように優れた台本を用意して、母譲りの演技力を行使して、培った知識を実践できていたかもしれない。しかし世一は、そんな虚飾を捨てて初めて向き合った相手。世一が「不自由」をくれたから、俺はニンゲンのフリをやめ、「クソ物」である自分を認められた。——その世一が、想像だにしなかった弱り方をしていた。絶望したカオを視てみたいと常々夢に描いていたのに、望まぬ形で目の当たりにしてしまった、ようで。
身体が竦んで、脳が白んだ。人体と看病の知識を覚えていたところで、それを施されたことがなく、本当に知っているのが悪意だけであることもまた事実だ。その悪意を振るえず、ニンゲンのフリもやめていた状況で——どうしていいのか、途端に分からなくなった。
世一のせいで、「クソ物」に戻れたから——「クソ物」らしく、無力な存在へと成り下がった。
「そん、な……」
結論付けた現状に、深く納得しながら愕然とする。
世一はひときわ魅惑的な敵意も——求め続けていた愛もくれた。なのに俺は、世一に悪意しかやれないのか。悪意しか、返せないのか。
クソ物なんて元からそういう存在だ。愛に飢え続けているのだから、与える側になんてなりようがない。分かっているし、分かっているのなら開き直るのも一つの手だろう。だが、そう訴えかける自分にどうしてか頷きを返せない。それに、世一の生家に赴くことを決めたときの俺は、その開き直りの一歩先を望んでいたはず。ああ、そうだ、俺がゴミ同然の存在であることが拭えなくても、世一に適応してみたいと。そう、思った。
(できな、かった、のか……?)
日本に行くと世一に告げた。後戻りができないところまでその日が迫っても、決意が揺らぐことはなかった。なのに別の試練を課せられた途端、本性が最悪の形で露呈してこのザマだ。
身の丈に合わない高望みをしていたのか。どれほど想い焦がれたところで、所詮はクソ物か。その想いを示すための行動を、十五になる頃にはきっともう起こせなくなっていた。世一が倒れた今でさえ、これまでの対価を払えていないのだから。
(世一が、倒れ——)
そういえば。至って健康体の男だが、三年ほど前にも一度ブッ倒れていた。——激しい試合の後のオーバーヒート。果てるまでサッカーをしてたのだと物語る様に、名状し難い感慨のような、言語化できない感覚がこの胸に生まれたことを覚えている。
話の最中だったから、世一が倒れた瞬間一番近くにいたのも俺だった。確か、世一が地に伏す前に頭を掴んで止めてやった。その後は——ノアに、預けた。
「……は、はは……!」
やっていることが、今と何も変わっていないじゃないか。
あの頃は新手のI LOVE YOUに惹かれ、だからこそ純粋にブッ殺したいとしか思っていなかった。煽りこそすれ介抱という善意の貸しを作るなど冗談じゃない。だからノアへと放り出した判断に後悔はないが、何も変われていない自分自身を思い切り蔑んで嘲笑した。
本当の自分も望みも思い出しておいて、それが世一というひとつの形で叶おうとしていたのに、その世一に対して、俺は最初から現在に至るまでずっと、何も——
『何もできない……! 役に立たない……!!』
「——ッ!?」
落ちぶれた男の姿がまた蘇る。今度は声と言葉まで伴って。反射的に両耳を塞いだところで記憶は潰せないから、罵声は衰えることなく響き続けて脳を貫く。その脳を耳ごと両手で押さえつけているのに、触っていないはずの首の痛みと呼吸の苦しさまで思い出す。
(そ、の、通り……だな……)
何もできない、役に立たない、動物以下、汚物以下。犬より無力なのだから、言葉通りでクソ笑える。
反発はしない。あの男は正しかった。父の言った通りになった。あれは無根拠で不条理な暴言なんかじゃなく、筋の通った予言だった。
『俺のヘドロとあの女の強欲の残りカスから生まれた……人間以下のゴミ!』
コレも、そうか。何年経とうが、俺はあのふたりの子供なんだと思い知った。両親と瓜二つになった。今の俺は、父を捨てた愛知らぬ女とも、母を繋ぎ留められず愛破れた男にもそっくりだ。クズ共の子を体現していながら、世一の両親に逢おうとしていたのか。なんて身の程知らずなんだろう。
ああ——そんなふうに、育ってしまったから。
(世一を、失う?)
己の進化のためを思えば、ひとりのフットボーラーへの執着なんていらなかったが、ただの〝世一〟はもう、二つ目の宝物にも等しかったのに。
「ァ゛、う゛、あぁ……ッ、かは……っ!」
無様な真実を拒もうとしたところでもう意味がないから、耳を塞いでいた両手は下ろして首元に添えていた。
本当に呪わしいのは、今になって世一を脅かし俺から奪おうとしたクソ神でも、望んでもいないのに俺に命を与えてこんなふうにしたクソ両親でもない。理不尽で不平等な神に課せられた在り方に、両親から受け継いだ邪悪な血に、欲しかったモノを前にして、抗うべきときに抗えなかったクソ物自身だ。
「ガ、ハ……ッ! ゲホッ、ゴハッ、あ゛、う゛ァ゛……ッ!」
呼吸なんて許したくもないその目障りなモノを潰すように、両手に力を込め続けた。
あるいは、縋るように? そこに咲く二輪の、定められた逆境を覆す力を秘めた花に。「不可能」の破壊を、まだ願っているのか。
(~~……っ、いき、が……っ、も、う……ッ)これじゃあ、願うだけだな。クソよわ、クソ惨め。(…………っ)
——叶う、なら。お前の、そばに——。