案外ぼくは、意思の弱い人間であるらしい。かの学園が誇る海中庭園の一角、人工のオフピステに結局心奪われて、気付けばボードをすべらせ寒空を翔んでいたことは、その最たる例だろう。
ほんの数日前の出来事である滑走解禁に続いて、今も同じ弱さを感じている。今日この時間だけで、隣席、撮影、秘密——と、多くのものを彼女に許してしまった。求められるがまま、彼女への無遠慮も自分に許した。彼女に近付くのはやめようと決めていたのに、その誓いが呆気なく破かれている。
(……ナンジャモに関しては、今日に限ったことじゃないか……)
カリスマの歌声を再生させたまま、動画サイトの視聴履歴画面を呼び出す。——今この瞬間も観ているドンナモンジャTVのサムネイルが、昨日、一昨日と続けて表示されている。
「近付かない」の一環として、彼女の配信を観ることもやめてしまおうと思っていた。観続けているから、厄介な存在になり果てる。彼女を取り囲む人々を刺激しかねない火種と化す。だから、このチャンネルとの縁を切って、視聴者と配信者の繋がりを完全に断ってしまうことが、彼女との間に横たわる懸念を消し去る最も確実な手段だという結論に達した。ジムリーダーである互いのために、そうすべきだと考えた。——そして、結果はこの通り。所詮、ぼくのこの決心は、染みついた習慣を矯正できるほど強いものじゃなかった、というわけだ。
それでも会わなければいいと思っていた矢先に開催された、欠席も憚られる年末の食事会。顔を合わせるはめになった彼女は「めんどい古参ファン」を肯定して、懸命に訴えかけてきて。その要求も呑んでしまったから、彼女に対して立てていた自制は見事に全部溶けた。本当に、意思が弱い。
「……どう思う、アルクジラ」
なんとなく、語りかける相手がほしくなって、ボールを一つ取り出した。聞き手は「ホエー?」と首を傾げただけで、すぐさまテーブルの上のご馳走に目を輝かせる。
「食べていいよ。そのために取っておいたんだから」
撫でながら促せば、アルクジラは大喜びでからしむすびを食べ始めた。とにかく筋肉や脂肪をつけて成長するこのポケモンは、クセで食事制限を続けているぼくと、食生活上での相性もいい。ごく稀にある、こういう機会で助けてもらえるから。
聞き手は食事に夢中だから、話を聞いてもらえるような状況じゃなくなってしまったかもしれないけど、まあいい。勝手に話そう。ぼく以外の出席者は全員、ライブに出払ったようだし。
「……別に、理解できないって言い続けるつもりはもうないよ。サムいけど、彼女が……ぼくのことを、信頼してくれているのはわかった」
弱み云々の話について、確かに合点がいった。ぼくの記憶にある情報で、今の彼女が築き上げたイメージを揺るがすことは、できなくはないかもしれない。悪意なんてないからしなかったまでだけど、それほどの手段を持っていながら悪意がない、ということが、彼女の中にそれなりの意味を伴って響いたのかも。少なくとも、「古参」の面倒さを許容できるくらいには。
「だけど……。……どう、なんだろう……」
ある程度の理解を得たところで、それ以上の不可解と、そして不安が生じている。ぼくの意志薄弱性よりも、こっちの方が、問題だと思う。
『……ヤバ。……居心地が良すぎる……!』
『ねえ、グルーシャ氏! ライム氏のライブが始まるまで、ここにいてよい⁉』
『……一番は、キミと話したかったからなんだよ』
「……キミだけは、これからも、ボクに言えること全部言ってほしいな。ボクも、キミだけには色々話せそう」
「数少ない……友達……を大事にしすぎる人って、ああいう感じなのかな……」
なんというか——はしゃぎすぎ、な気がしてしまう。それとも、信用の置ける古参ファンへの態度としては、あれが妥当なんだろうか。だったら、それでいい。ぼくのサムい杞憂で済んでくれるなら、それで。でも、杞憂じゃないなら、どこか危うい。
自分の経験を重ねた、身勝手な勘だけど。——なにもかもが上手くいくと信じきっている人間の姿に、よく似ている。
「わかってる、よね……。あんたは、もう……世界中から愛されていて、その世界中を愛さなきゃいけなくなってるんだよ……」
いくら気軽な雰囲気を纏って、視聴者との距離を近くしていても、一度爆発的に人気が出てしまえば、その配信者は偶像崇拝の対象にも等しくなる。むしろ、なまじ距離が近いからこそ、一度起こった崇拝には厄介な熱が籠るのかもしれない。——他の配信者とか知らないから、偏見交じりかもしれないけれど。とにかく、そういう存在が特定の誰かを見出すことって、世間は許してくれないものだろ?
「ちゃんと……止められるかな……。近付きすぎちゃダメだって……」
止められる自信を欠いてしまうのは、目の当たりにした彼女の姿勢を案じている一方で——好ましいと思う気持ちが、心のどこかにあるからだ。懐かしい日々の中で出会った女の子に——視聴者一人の増加で狂喜していた頃の彼女に、そっくりだから。ああ、ほんとに、昔の彼女に戻っているみたいだ。我ながらサムいけど、目を細めてしまうくらい、その懐かしさが心地良い。変わらないものを見て、なぜか安心してしまうような。
昔のままのぼくでいられたら、そんな彼女を何の葛藤もなく肯定できたんだろう。外野なんて置き去りにして、自分の願いを叶えてしまえ、望む全てを手に入れろと。実際、自分自身に対しても期待していたそんな想いで、彼女のことを観ていたはずだ。けれど、ぼく自身へとぼくが向けていた期待は、無残な形で折り曲げられた。彼女には、そんな経験はしてほしくない。配信がぼくにとってサムくても、賢く堅実に、スターの地位を維持してくれるなら、それでいいのかもしれない。それとも、「ぼくのようになってほしくない」なら、ぼくが為せなかったような生き方を為してほしいと、酷くサムいことを願えるのだろうか。
「……ホエー! ホエー!」
「……?」
食事を済ませたアルクジラは、ぼくとは対照的にご機嫌だ。スマホの画面を見つめながら、身体を揺らしている。
「……ああ、ライブが気になるのか。……ほら、これ」
片耳のイヤホンを外して、アルクジラに近付ける。ソウルフルビートを堪能できるようになったアルクジラはますます気分を良くしたようで、小躍りし始めた。動画の中の観客——配信者が特等席を確保しているだけあって、邪魔にならない位置、かつゲリラライブとは思えないほどの大規模な集団の盛り上がりがよく映っている——と同じように。
「…………」
フリッジに赴けば、耳にできる歌声。なのに、今はいつもより特別に感じられる。場所や時間帯といったように、普段と異なる条件なんていくらでも挙げれるけれど、その中で、特別の理由なんて一つだけ。——彼女の配信越し、だからだ。
目の前の世界に本気で挑む姿、配信業にかける夢、隠す気なんて本当はなさそうな野心。そういうものが上乗せされるから、彼女を通して観る景色は——昔のぼく好み、なんだろうな。雑音、重圧、不安、そういうもの全部撥ね退けて、ぼくを肯定してくれた。
——今も、そう。
(……いいか、今くらいは……。目の前のこと、だけで……)
「互いに、問題にならない範囲で」とも言ってある。それを前提とした距離なんて、今後自然と図るようになるだろう。彼女がこれ以上危うくならなければ、それで。
ライブは即興のものだから、一人と一匹で同じ画面を静かに見つめる時間は、そう長くは続かない。興奮を持ち帰った同僚たちが押し寄せるように入ってくるから、宝食堂店内は瞬く間に、一段と熱気溢れる場所になっていく。
ぼくの隣にも、そんな同僚が姿を現す。
「たっだいま〰、グルーシャ氏! どうだった⁉ ボクの配信……いや、ライム氏のライブ‼」
「……随分と騒がしいお帰りだね。……まあ、悪くなかったと思うよ」
彼女が席を立ったとき、つい「ここで待ってる」と言ってしまった。だけど本当に、ぼくの隣の席に戻ってくるとは。「悪くなかった」の一言程度でさらに表情を明るくしていることも含めて、やっぱり心配だな。でも、褒め言葉に弱いのも、昔みたいだ。
「……ほんとに騒がしくない?」ライブ直後ということを差し引いても、妙に周りがざわついている気がする。「またなにかあるの?」
「そうそう! 聞いてよグルーシャ氏! キミにも知らせなきゃと思って〰!」長い両袖を左右に広げ、彼女は高らかに告げる。「なんと、今から! バトりが開催されることになったのだ〰〰っ!」
「……こんなときにジム挑戦者? アオキさんも大変だね……」
食事会の場所がチャンプル以外だったなら留守を使えたかもしれないと思うと、なんとなく不憫だ。振り返って見えるところの席にいる彼は、マイペースに食事を続けているようにも見えるけれど。リーグ本部に務める社員でありながら、ジムリーダー、そして四天王まで兼ねている、多忙な人物だと聞いている。——ぼくからすれば、羨ましいくらい。
「ううん、違う違う! ジムの受け付けはもう終了してるしー、それにアオキ氏だけじゃないぞよ〰!」訂正をする彼女は楽しそうだ。「ジムリに四天王……み〰んなで戦うぞ〰!」
「……なにそれ。そんな話になってたの?」
「さっき決まった! ライム氏のライブで、みんな熱くなっちゃったのかもねー?」
宴の余興として突発的に開催されるものとしては、あまりにも大きすぎるイベントじゃない? ジムリーダー同士が、観衆の目がある中で勝負することさえ稀——ドンナモンジャTVのコラボ企画を除いては——なのに、四天王まで戦うの? それに、もしかしたらトップチャンピオンも。
「……そもそも、できるの? お酒飲んでる人多そうだけど」
「勝負が禁止されるラインまで飲んでる人はいないよねってことでー。グルーシャ氏だってそうでしょ?」
「いや、ぼくは……」咄嗟に、アルクジラをボールに戻す。勝負の準備のためとかじゃない。この子は戦いに出すためのポケモンじゃないから。
「ま、そこらへんも考慮して、三対三の略式ルールでやるってさ」
「そりゃあ、さすがに……公式戦扱いにはならないよね」だとしても、オモダカさんもいるところでやるのか。
「ないない! ボクたち、仕事でバトりをする機会も多いでしょー? だからこの機会に、いつもは出せない本気を出して、けど楽しく軽めにバトろう! ……ってコンセプト! ……いや〰、ありそうでなかった神企画……!」
彼女はハラバリーをボールから出して、微弱な電撃を自分のスマホへと流させている。加減を間違えれば充電どころかスマホを壊してしまう行為で、推奨されたものではない。それでも危なげなく済ませてしまえるのは、彼女がでんきタイプのポケモンの扱いに秀でているから、だろうか。ストリーマーとして名を馳せている彼女だけど、トレーナーとしても一流だ。そうなるために努力していた姿も見ていたから、わかる。
「……あんたは、また試合の配信?」
「そう‼ もっちろん!」当然のようなことを尋ねれば、彼女は喜びや期待を露わにして頷いた。「ほんと、ヤバ……! ボク、今日だけでこんなにバズっていいの〰〰⁉ 幸せ通り越して最早怖いくらい! もしや本当に召されるのでは……!」
「縁起でもない……」
悦に浸る彼女を一旦放置して、周囲に目を向ける。食事を終え、勝負に臨むジムリーダーや四天王たちが次々と座敷から降りて、噂を聞き付けたらしい人々が次から次へと入店する。
「またサムいところに行くのか……」低い気温に対して人一倍過敏である自覚はあるけど、感心してしまう。「……? この街、バトルコートがなかったような……」
「いやいや、屋内! ここでやるぞ〰! 寒がりなグルーシャ氏も、今回は安心だね!」
「は……? ここで?」
「およ……。もしかして、チャンプル……宝食堂名物バトり場、ご存知ない? ……んじゃもー、見るっきゃないね! ほら、降りよ降りよ!」
「ちょっと、待って……!」
急かされながら立ち上がる。身を躍らせるように先導する彼女の姿を前にして、緩んでしまいそうになる口角を、いつものマフラーで覆い隠した。
——名物、か。つくづくぼくには、知らないものも多いらしい。用事がない限り、ナッペ山から降りないし。スノーボード一筋だった昔もそうだ。それだけが自分の道だと思っていたから、他の世界に興味を向けることもなかった。だけど——だからこそ、その別の世界を映して、そこでひたむきに生きる彼女の姿は、新鮮で、眩しかった。
それにしても、一体何なんだろう。座敷が変形してコートになるとか——あるわけないか、そんな、カラクリ屋敷みたいなこと。
(中略)
「そいじゃ、次のバトりの準備時間に入るので、一旦切るぞよ〰。皆の者ー、次回戦にもこうご期待〰!」
「……ねえ」配信が切れたタイミングを見計らって、声をかけた。
「なになに⁉ グルーシャ氏!」
「あんたは戦わないの?」
「……え……っ。……ええええ〰〰ッ⁉」興奮冷めやらぬバトルコートの外だから、絶叫しても問題はなかった。「グ……っ、グルーシャ氏ぃ〰〰〰〰……⁉ こ、このボクに、ハッサク氏と戦えと!」いつの間にか勝ち抜きルールになっていたようだから、このタイミングで参戦を勧めると、彼との対戦を促しているってことになる。さすがに、そのランク戦もどきの間にエキシビジョンもいくつか挟まるから、ハッサクさんが連戦を強いられるはめにはなってないけど。
「うん」
「そ、そんなぁ〰〰〰〰! グルーシャ氏、ドSか……⁉」
天敵と相対して毛を逆立てる野生のポケモンみたいだなと思った。すぐに、生まれたてのシキジカへと変わってしまったけど。
「う〰ん……。やってもいいんだけどね〰……」スマホの画面を見つめながら、彼女は笑みを浮かべることと、眉を顰めることを繰り返す。——どこか、苦しげなようにも見えた。「……ほら、見たまえグルーシャ氏! もう既に視聴者数が見たことないくらい、たーっくさん!」最終的には笑顔になって、今は一時停止状態にある配信の画面を見せてきた。「ここまできたらー、ここでボクが負けなくてもー、再生数とチャンネル登録者数のシビルドン登りは止まらないよねー」
「……負ける?」
「……あー……」袖越しの指で、気まずそうに頬をかく。「実際、ボクがハッサク氏にどうやって勝つんじゃ? って問題もあるけどさ……。……負けた方が、視聴者数上がったりするんだよねー。……いや、だからと言って手抜きとか八百長はしてないぞー⁉」
——胸の奥が、急速に冷えていく心地がした。
拒絶したかった事実を、彼女本人に突き付けられたから。
(……それ、わかってたんだ……)
動画を視聴する際に、コメント欄は嫌でも目に入る位置に表示される。だから、彼女のファンが何を望んでいるのかも、大体察しがつく。今はもう、勝利の喜びではなく、敗北を嘆くリアクションの方が、彼女のエンターテイメントとして大衆に求められていると。彼女も彼女で、視聴者数の増加を何よりの喜びとしているから、互いに益のある関係は築けているんだろう。
彼女だって、把握しているだろう。それをわかっていても——わかっていてほしくなかった。その口から、聞きたくなかった。
「……配信、サムくなる一方なのも頷けるよ」
「ひいい……」
警鐘が聴こえる。安易に踏み込んで否定するべきじゃないって、判断できている。大衆の望みを叶えることで人気を得てのし上がるという手段を選んだのは彼女自身で、その本人が今に満足しているなら、一視聴者の口出しなんて、無礼でしかない。勝敗よりも視聴者の満足を優先する姿勢は、配信者の鑑でもあるんだろう。
——でも、サムい。むかつく、くだらない。彼女が人の上に立てるほどのトレーナーを目指して重ねた努力も、長らく目覚ましい結果が伴わなかった配信業に注ぎ続けた熱意も、脚光を浴びるために費やした日々も、何も知らないくせに。上にあるものに対して懸命に挑む彼女の姿に見向きもせず、冷笑だけ吐き捨てたくせに、今はサムいことばかり言って、都合よく消費して、好き勝手に捻じ曲げて。さっきだってそう。いくら彼女が四天王の戦いを言語化できなかったとしても、彼女は、あんたらが気安く指差していい人間じゃない。だから、彼女を庇う形で解説を請け負った。適当なことを語ったつもりはないけど、ハッサクさんの真意なんて本当のところはわからない。あれは全部、彼女のために言った。
ぼくもまた、彼ら同様身勝手な視聴者なんだろう。今の彼女を面白おかしく消費するか、過去の彼女を追想しているかの違いでしかない。
だけど、今隣にいるそのひとは——過去の面影を宿しているような気がしてならないから。あの日のぼくを支えた果敢な女の子が、まだ、微かにでも息をしているというのなら。
「……一緒にしないで。『体張ってて好き』って、そういう意味じゃないから」